TS修羅の願いは届かない

葛城2号

プロローグ




 ……フッと、目が覚める。



 目を開けた俺の前に映るのは、薄暗い室内。次いで感じ取れる、生暖かい敷布団の感覚。ともなって起こる、頭痛と吐き気と倦怠感とが混ぜ合わさった感覚は、一言でいえば地獄であった。


 まだ、嘔吐していないのが不思議なぐらいだ。


 もしやと思って口元を摩ってみるが、汚れてはいない。じょりじょりと、三日ほど伸ばしっぱなしの髭を擦る感覚だけが伝わってきた。ひとまず、大惨事にはなっていな……っ。



 ――ひと際強烈な痛みが、脳天を走った。



 さすがに、顔をしかめる。その痛みの原因が何なのかは、考えるまでもない。頭に当てた指先から、痛みの脈動が伝わってくるようだ。


 部屋の至る所に転がっている酒瓶もそうだが、自分の身体から漂うアルコールの臭いが……教えてくれた。


 完璧なまでの二日酔いだ。この後に仕事があったなら、まず間違いなくどうにもならないぐらいの、深刻な二日酔い。



 ……なるほど、俺は帰ってすぐに飲み続けたってわけか。



 何気なく手に取った酒瓶の一つは、少しばかり中身が残っている。飲み残したものか、零れた残りか……どちらかは、分からない。


 どちらにせよ、瓶を倒したことすらも、残った酒の量すらも、全く分からなくなっていたぐらいに酩酊していたのは、事実だろう。


 実際、思い出そうとしても全く記憶にない。指先すら、届く感じがしない。しかし、肝心な部分だけは……嫌でも思い出せてしまう。



「……ぁ」



 そう、そうだ……思い出してしまった。忘れようと手当り次第に酒に手を伸ばしたというのに、そこだけがはっきりと思い出せて――。



「――っ」



 ――反射的に投げつけそうになった酒瓶を、寸でのところで床に置いた。どん、と床板が傷ついた音がしたが、構う余裕が俺にはない。


 思い出してしまった……忘れようと、何もかも忘れようとしていたのに、不用意に思い出してしまった。思い出したくもない事を、思い出してしまった。



 ――急いで身体を起こした俺は、酒瓶に残った酒を喉奥へと流し込む。



 迎え酒なのか残り酒なのかはさておき、喉を通ってゆく生温く幾らか酒精が抜けたそれが……少しばかり、沸き立ち始めた憎悪を静めてくれる。


 そう……憎悪だ。


 他に相応しい言葉があるのか、俺は知らない。ただ、抑えようとしても抑えられないコレの名を、俺はそう呼ぶしか出来なかった。


 そして、この憎悪を抑えることが……今回は出来そうにない。抑え込んだ蓋から噴き出した蒸気の如くで始めた怒りに、俺は……何度も何度も、布団を殴りつける。



 ……抑えろ。とにかく、抑えろ。



 そう俺は何度も己に言い聞かせながら、何度も何度も布団を殴り続ける。だが、憎悪は止まらない。


 殴れば殴る程、拳の先から伝わる痛みが強くなればなるほど、憎悪は増し、俺の制御から……堪らず、俺は酒瓶に口づけ……空になっていることに気付いた瞬間、それを壁に投げつけた。


 ごつん、と。思いっきり投げつけられた壁に、小さく穴が開いた。


 だが、どうでもいい。「酒だ、さけ、さけ……!」今にも叫び出したくなるほどの感覚に苛まれながら、俺は同じく少しばかり残っている酒瓶を見付け、中身を胃袋へと流し込む。


 けれども、瓶に残されていた酒は、せいぜい一口二口。浴びる程飲んでも一時的に抑える事しか出来なかった憎悪が、今更それだけ増やした所で……静まるわけがない。



 ――ヤバいと思った俺は、自分の足を殴りつけた。



 途端、強烈な痛みがびりびりと走った。普段ならば、思わず蹲るほどの痛みだが……構わず、俺は何度も殴りつける。手加減など欠片もしていない拳からも激痛が発しても、まだ、続ける。


 何度も、何度も、何度も……でも、止まらない。殴っても殴っても殴っても、止まらない。視界が真っ赤に染まって、何もかもをぶっ殺したくなってくる。



 ――身体が、熱い。



 どう例えれば良いのか分からないが、とにかく熱いのだ。まるで、臓腑の中から炎が噴き上がっているかのように、何もかもが熱い。脳髄が、茹って……茹って……。


 ……。


 ……。








 ……。


 ……。


 …………?



「……?」



 ……。


 ……。


 …………いつの間にか、俺は大の字になっていた。薄暗い天井を、見上げていた。



 ……。


 ……。


 …………もしかして、気絶したのだろうか。



 多分、気絶したのだろう。その証拠に、殴った両足からはこれまで経験した覚えのない強烈な激痛が走っている。わずかに力を入れるだけで、針を刺されたかのような痛みがする。


 見るまでもなく、分かる。相当な、内出血が起こっているはずだ。もしかしたら、折れているかもしれない。そう思った俺は、両足から……天井へと視線を向けた。



 ……どうにも、身体が億劫だ。けれども、身体が動かないことに、俺は自然と……安堵のため息を零した。



 まあ、原因は今しがたの行為と、連日続く二日酔いだが、それだけではない。たぶん、着替えることなくスーツ姿のまま寝ていたりしたせいもあるのだろう。


 立ち上がることはおろか、指一本動かしたくない。まあ、どっちにしろ動かせはしないけど……もう、残っていた体力の全てを使い果たした気分だ。



「ふ~、は~」



 自然と漏れ出た溜息が、凄まじく酒臭い。けれども、どうにもする気が起きない俺は、そのまま……大の字のまま、身体の力を抜いて大人しくしていた。


 ずきずきと、心臓の鼓動に合わせた痛みが脳天に響く。吐き気もそうだが、この頭痛を先にどうにかしたい。


 だが、身体が動いてくれない。気絶から起きた直後だからだろうが、もう少し大人しくするしかないようだ。


 そう結論を出した俺は、そのままぼんやりとした頭で天井を眺める。(……けっこう汚いな)眺めていると、色々な事を思い出す。


 何時もの俺なら、顔色を変えながらも必死になっていただろう。薬を飲み、水をがぶ飲みし、シャワーを浴びて、ふらふらになりながらも出社していただろう。



 ――でも、今の俺には必要ない。何故なら、三日前に俺は会社からクビを宣告されたからだ。



 クビになった理由は……止めよう、考えたくもない。怒りこそ湧かなかったが、嫌な気分になった俺は、軽く息を吐いて誤魔化した。


 今の俺は、言うなればヤケ酒の後。何もかもがどうでもよくなって、それでいて爆発しそうな怒りを酒で抑え込んで……こうなっているわけだ。



 今更ぐだぐだ考え込んだ所で、現実は変わらない。



 俺は仕事を首になって、あいつらはのうのうと幸せになっている。俺を騙し続け、俺を陰で嘲笑い続けたやつらが、善良な一市民として……止めよう、もう止めよう。



 沸き立ちかけた憎悪を、苦笑と共に受け流す。



 散々、布団やら両足やらを殴り続けて怒りを発散したおかげだろうか。さすがに、気分が落ち着いている。一瞬ばかり激情が噴き出しかけたが、それでもすぐに抑えられている辺り……発散は出来ているのだろう。



 ……何だったんだろうな、俺の人生って。



 けれども、そうして冷静になった分だけ……これまでの思い出が脳裏を過ってくる。これまでは只の思い出でしかなかったが……今はもう、嫌悪と憎悪しか生み出さないモノへと……いや、いやいや、止めよう。



 さすがに、もう止めよう。今は、考えるのを止めよう。とにかく、このまま眠りたい。



 そう思った直後、強烈な眠気が俺を襲った。けれども、目を瞑っても眠れそうにはない。眠気以上の強烈な苦痛が、眠ろうとする頭をこれでもかと叩き付けてくるからだ。



 ……。


 ……。


 …………それでも我慢し続けたが、やはり痛みが酷い。二日酔いからか、頭痛も酷い。



 この痛みのおかげで憎悪が爆発するのを抑えられてはいるが、これでは本末転倒もいいところだ。


 自分で傷つけておいて何だが……冷やしておいた方がいいかもしれない。


 ただ、この足で冷蔵庫まで行ければいいが……まあ、行けなさそうなら大人しく我慢する他あるまい。


 そう思った俺は、よっこらせと身体を起こし……ふと、違和感に気づく。


 今の今まで感じていた痛みが、突然消えたのだ。と、同時に、全身に圧し掛かっていた倦怠感やら何やらは無くなっていて――え?



 ――立ち上がった俺の視界の端。そこに座り込んでいる白髪の老人を目にした俺は……一瞬、状況を理解出来なかった。



 老人は、どの角度から見ても老人でしかなかった。薄汚れたズボンに、毛玉まみれのセーター。頭に白い綿が取り付けられた、毛糸の帽子。


 ともすれば、ボケた老人が勝手に入り込んだ……と見えなくはない。いや、むしろ、そうとしか見えない現実を前に……俺は、どうしていいか分からなかった。


 何故なら、この老人……立ち上がった俺を見上げてはいるが、何の反応も示さないからだ。


 何を考えているのか分からない無表情のまま、黙って俺を見上げている。本当に、それだけだ。「あの……」堪らず声を掛けるが……返事は無い。黙ったままだ。



 というか……どうやって部屋に入って来たのだろうか。



 鍵は閉めたつもりが、開いていた……いや、そもそも開いていたところで……覚えてはいないが、部屋の中で相当に暴れ回ったのは想像するまでもない。



 そんな場所に、普通の神経をしているやつが入り込んだりするだろうか?



 仮に俺が泥棒の立場なら、まずしない。金目の物とか云々以前に、危機感を覚える。加えて、パッと見た限りでもこの……爺さん、華奢で顔色も悪い。


 俺が言うのもなんだが、今にも倒れそうに頬もこけている。そんな身体で、そんな場所に、好き好んで入り込むだけでなく、わざわざ家主の傍に来るだろうか……有り得ない。



「おい、あんた、何処から入った?」

「…………」

「今なら警察を呼ばないでいてやる。だからさっさと出て行け」



 仕事をクビになった今、警察沙汰になったところでそこまで困ることはないが……それでも、面倒事は避けたい。


 そう思った俺は、穏便に事を済ませようと爺さんに声を掛け続けるが……爺さんからの反応は薄い。


 いや、薄いどころではない。全く、これっぽちも反応が無い。ぼんやりと俺を見上げるばかりで、立ち上がる素振りすら見せようとしない。



 ……頭に残っていたアルコールの影響もあるのだろう。



 無視し続けるその姿に、かちん、と頭に来た俺は、「――このっ」苛立ちをそのままに、爺さんを家の外へと引きずり出そうと手を伸ばし――その手が、するりと爺さんの肩をすり抜けた。



「…………?」



 一瞬、何が起こったのか俺は分からなかった。思わず、俺は今しがた伸ばした自分の手を見つめた……うん、何ともない。



 ……自覚出来ていないが、まだ前後不覚になるぐらいに酔っているのだろうか。



 首を傾げつつも、俺はもう一度爺さんに手を伸ばし……すり抜けた。「……え?」さすがに違和感を覚え、俺は何度も爺さんへと……え?



 それは、酷く奇妙な光景であった。



 俺は、確かに爺さんの肩へと手を伸ばしている。だが、その指先が……爺さんの身体に触れない。


 文字通り、すり抜けているのだ。手が、爺さんの身体を貫通している。だが、傷付けているわけではない。



 まるで、空気を掴むかのように、するりと手応えが……え、いや、え……え、あっ!?



 事態が呑み込めずに呆然とする俺を他所に、伸ばした腕を……がしりと、爺さんから掴まれた。瞬間、俺は……背筋に強烈な悪寒が走った。


 何故なら、その手は人間のモノとは思えない程に冷たく、固かったから。


 冷凍庫に保管していた人形の手だと言われたら納得してしまうぐらいに、その手はどこか無機質さを感じさせた。


 反射的に……言葉にはし難い嫌悪感を覚えた俺は、爺さんの手を振り払おうとした……が、駄目だった。


 俺よりも一回り以上細い体格の、その腕が……振り払えない。まるで鉄骨で留められているかのように、ピクリとも振り払えられない。



 ――堪らず俺は、ヒッ、と悲鳴を上げた。



 この爺さんは……こいつは、人間ではない。そう思った俺は、とにかく爺さんの腕を振り払おう……とした、瞬間。



「――お前さんには、二つの道がある。どちらかを選べ」



 唐突に……ぽつりと、爺さんは呟いた。「な、何だ……」あまりに突然のことに、俺は思わず抵抗を止めた。そのまま、「二つの道だ、どちらかを選べ」爺さんは同じことを呟くと……クイッと、顎で足元を示した。


 足元……促されるがまま視線を下ろし……振り返った俺が目にしたのは、布団の上で横になったままの俺であった。




 ……。


 ……。


 …………そう、俺であった。


 俺が、スーツ姿のまま横になっている。眠っているのか、目を瞑ったまま大人しくしている。



 冷や汗が……一気に噴き出すような感覚がした。脊髄に氷柱を差し込まれたかのような、嫌な感覚であった。



 ……何だ、これはいったい、何だ?


 ……俺は何を見ている、何が起こっている?


 ……何が何なのか、何がどうなってそうなって……ああ、いや、そうじゃない。

 とにかく、いったい、何が起こっているのだろうか。


 いや、それよりも、何が起ころうとしているのか……駄目だ。




 頭の中がこんがらがって、自分でも何が何だか……そうだ、爺さんは?



「――ワシに、名は無い。お前さんが理解出来る言葉に言い換えるなら、ワシは代弁者だよ」



 爺さんは、何か知っているのだろうか。そう思って爺さんへと振り返った瞬間、まるで俺の心を読んでいたかのようなタイミングで、爺さんが口を開いた。



 代弁者……何だそれは?



 思わず、俺は状況を忘れて首を傾げた。まるで意味が分からない。いったい、何を代弁しているというのか。というか、そもそもこの爺さんは――。



「何者でもない。ただの、代弁者だ。大きな大きなシステムの中で生まれるバグを修正する、まあ……代弁者というよりは、何でも屋といった方が近しいかな」



 ――何者だと尋ねようと思った瞬間、先手を……いや、違う。またもや、まるで俺の心を読んだかのようなタイミングで……おい、まさか。



「あんたは、死んだ。つい今しがた、息を引き取った。死因は……まあ、あれだ。突然死ってやつだ。よっぽど頭に血が昇っていたようだな……頭の血管が切れたのが原因だな」



 背筋を走る、二度目の悪寒。一度目よりも強まった恐怖に言葉を失くす俺を他所に、代弁者だとか何でも屋だとか自称した爺さんは、そう言葉を続け……いや、待て。



 ……死んだ。俺が、死んだ?



 爺さんの言葉を反芻した俺は……不思議と、驚かなかった。どうしてかは、分からない。むしろ、逆に落ち着いてゆくのが分かった。


 ああ、今の状況はそういうことかと、何一つ分かってもいないのに、何となく受け入れてしまった……その事すら、俺は受け入れている己を自覚した。



「それじゃあ、今の俺は……」

「幽霊みたいなもんだ」



 己に言い聞かせるように呟いたその言葉だが、爺さんから、最後まで言い切る前に肯定されてしまった。



「そう、か……」



 さすがに、そうまではっきり断言されてしまえば、もう俺は何も言えなかった。自然と、俺は……相変わらず無表情な爺さんを見やっていた。





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