沈黙は暗闇の中へ(下描き)

照りつける太陽の日差しに汗がダクダクと流れおちる。

彼には生まれながらにして道があった。

そのための未来に光を感じていた。

だからこそ、迷うべき悩みを持ち合わせてはいなかった。

ただ生きれるように進むしかない道だったのだ。


長州藩 萩城下 松本村から廃家で焼きだされ、団子岩で自給自足の生活をしていた杉百合之助は、妻の滝との間に梅太郎、寅之助、千代、寿、艶、文、敏三郎の七人の子供があり、叔父の吉田大介と玉木文之進も一緒に暮らしていた。

十一人の家族を支える母を次男の寅之助は尊敬していた。

貧しい杉家では幼い寅之助の力も必要だった。

寅之助も畑仕事を手伝った。

どんなに過酷な生活の中でも両親は学問を忘れなかった。

反士反農の杉家では畑が学問の場であった。

幼少期の寅之助を教育したのは滝であった。

その寅之助が五歳の頃、養子に出され、名を大次郎に改めた。

通称は寅次郎となる。

叔父、吉田大介の息子になったのだが、まもなく大介は病死した。

寅之助の身柄は玉木文之進に預けられることとなる。

玉木文之進は後に乃木希典を教育した男であり、一人前の教師に育てるためにスパルタ教育を行った。

そこで彼は自分の宿命に気づくのだ。


ある猛暑日に論語を読んでいた時である。

ハエが顔に集るので思わず手を頬に伸ばした瞬間に、玉木文之進は幼い大次郎を殴り倒して怒鳴りつけた。

「貴様、それでも武士の倅か、侍とは『公』に尽くす者の事だ。痒いから掻くのは『私』だ。

それを許せば必ず私利私欲を謀る人間になってしまうのだぞ」

と。

寅之助は『叔父上がお怒りになるのは私が至らないのが原因だ』と謙虚に反省したものだった。


それから四年後、九歳になった大次郎は、百三十年の伝統がある藩校 明倫館の兵学師範に抜擢された。

そして、学業の成績の優れた者が藩主に進講する御前講義の『親試』で十三代藩主、毛利慶親に講義した事により、慶親は九歳の寅之助の門下生になった。

十三の歳に長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施した彼は優秀な人間だった。


その後、山田亦介の江戸土産により、いずれ今の兵学では西洋諸国に敗れてしまう事を知る。

アヘン戦争での清の状況をきいて、虐げられる人々の実態に、いずれは我が身と危機感を感じ、恐怖した。

そのための対策を練るべきだと学問に没頭する日々、寝ても書物を離さなかった。


「長崎に行きます。

平戸に葉山左内を訪ねることに決めました」


そして、世間を知るために、九州を遊学した後に江戸にも行った。

江戸に行けば、日本をどうすれば救えるか、知ることができると思ったからであった。

しかし、それも浅はかな世間知らずの行いであった。

江戸の学者たちは保身の事しか頭になく、 自分と意見の違う者がいれば糾弾し、新しい知識を授けてくれる者など皆無であった。


「この頃、江戸の文学、兵学者は兵事について語ることを嫌い、西洋の事といえば何も学ぶべき事がありません」

佐久間象山、安積良斎に師事し、肥後藩の宮部鼎蔵や山鹿素水にも学んだが、いつまでも学問の在り方への疑問が頭を擡げていた。


私がやっていることは、すべてが古い、時代遅れなのではないかと。


世の中は貧困、飢餓に溢れている。

我々に何か出来ることがあるのではないか。

少なくとも私が目指した学問は伝統と権威に胡座をかいたようなものでは無い。


二年後、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画したが、出発の約束に間に合わないと長州藩の過書手形を待たずに脱藩した。


「心というものは生きている。

生きているものには必ず機がある。

機は物事に触れるにつれて発し、感動する場面に遭遇して動く。

この発動の機を与えてくれるのが旅である」


東北遊日記に記す。


白川、会津、新潟、佐渡、異国船の噂を聞く度にその地を訪れた。

とくに佐渡金山で過酷な労働を強いられ数年で生命を落としていく囚人たちを見て、人としての扱いを受けた人間の姿を見ることは出来なかった。

その光景に日本の現状をみた心地になった。


寅次郎は旅の途中、用を足した後は必ず早歩きをして先を急いだ。

日に四十八キロ。

用を足せば二百歩損したと、その分急いだ。

彼には時間が惜しかったのだ。

そして、三年間で一万三千キロ、彼は歩いた。


千八百五十四年、アメリカの東インド艦隊の黒船四隻が下田沖に姿を現した。

幕府に開国か戦争かを迫ったのである。

船にしろ大砲にしろ日本には勝ち目がないのは明らかだったが「将及私言」で寅次郎はアメリカを討てと意見したが、長州藩に無視され、幕府は日米和親条約を結ぶ。

無力な日本に辟易し、ペリー提督の再来航時、国禁と知りつつ、東北の旅で弟子になった商人の金子重輔と共に小舟で乗り込むと筆談で訴えた。

自分をアメリカに連れて欲しいと、世界をこの眼で見てみたいと。

敵国視察は国禁であり、失敗は死罪とはいえ、捨て身となった彼には焦りがあった。


「かくすれば

かくなるものと知りながら

やむにやまれね大和魂」


結果、ペリー提督は幕府と揉める訳にはいかないので日米和親条約を盾に拒否して、彼らの身柄を幕府に受け渡した。

彼は野山獄に投獄され、商人の金子重輔は岩倉獄に投獄された。


金子重輔は士分ではなかったために惨い仕打ちを受けて死んだと言う。

その知らせを聞いて、彼は絶句。


「世のため、人のためは愚か、弟子ひとりも私には救えないのか」


獄中にあって考えた。


いづれ人は死ぬ。

彼らを眠りから醒ますことは出来ないのか。

生きる望みを絶たれた者の絶望。


生きながらえてはいるが生きてはいない。


五十年、六十年、若しくは永遠の牢獄。


ここにいる者は皆、もはや人間ではなくなっている。


うつろな目は死んでいる。


もう一度、人間らしく。


どんな境遇であれ人間らしく出来ないのか。


ある日から彼は三国志の朗読をはじめた。

それを聞いた囚人が声をかけてくる。

彼は内容を解説した。

教えと学び。

彼は人と喜ぶことの大切さを知った。


人と人の関わり合いには、人の間が必要となる。

人間であるためには学びあう教育が不可欠である。


「そんなつらい想いをしたのならば私も同じ罪を犯したかもしれません」

彼は人の話をきいて同調した。

冨永有隣という粗野な者にも、「あなたは字がうまい。

私に書き方を教えてください」と頭をさげた。

そして、次第に囚人たちは心を開いた。

彼には学ぶ意味や、楽しさを教える力があったのだ。


「人、賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし」


その後、彼は野山獄を『福堂』と呼んだ。

看守も、彼のその人間性に感化され、牢獄で死んでいい人間ではないと上申書をだした。

それが受理され投獄から一年二ヶ月後、彼は仮出獄を許される。


叔父、玉木文之進が、松本村に誕生し、一本松の下にあることから松下村塾と名づけた学問所をやっていたが、彼はそれを譲り受けた。


当時の寺子屋とは、読み書きなどを教える初等教育であり、藩校とは、優れた藩士を育成するエリート校であり、塾とは、学者などが開いた専門校であるが、彼の望んだ教育とは、そういう形式には捕らわれないものであった。


一 平等

二 真の目的

三 見捨てない(大器晩成がある)

四 時代認識

五 わかりやすい(むずかしい言葉は使わない)

六 共に学ぶ(子供からも学ぶ、子供をおがむ、謙虚な心)


囚人との経験から理想の教育環境をカタチづくった。


「この松下村塾から必ず天下を動かす奇傑の人物が出るだろう」


松下村塾では一人では学ばせない。組み合わせることでお互いに苦手な部分を補わせた。

また自分は師の立場には立たない学僕であった。


あらゆる階層が集まり、身分に関わらず教えるのではなく、共に学ぶ。


ある日、門弟の一人に「このままでは先生の教える事がなくなりますね」と言うと、

「人を教えて学問がすすみ、人間的にも成長して何も指導することがなくなるほどに人材教育ができたら、それこそ天下の大快事である」と応えた。


その後、幕府が無許可で日米修好通商条約を締結したことに激怒し、老中間部詮勝の暗殺を企て、長州藩に武器の貸与を要求したために投獄された。


彼の身柄は江戸伝馬町に送られた。


そんな彼に実父からの手紙。

「一時の屁は

万世の伸なり

いづくんぞ痛まん」


いっときの失敗なぞ長い人生では、たいした問題ではないと励ますものであったが、


「帰らじと

思ひさだめし旅なれば

ひとしほぬるる涙松かな」


と。

彼は、すでに死を決意していた。


この混乱の世に、維新をもたらすには草のごとき民衆の力が必要だ。

志ある者よ、たちあがれ。


松下村塾の門弟で妹の婿である久坂玄瑞と、彼とつるんでいた高杉晋作は「成功の見込みが少なく時期尚早である」と諌め、今は我慢して時を待つべきだと説得するが、逆にそれは彼の感情を逆撫でした。

「なぜ自由の身の君たちが動かない。

今こそ現状を打破すべきだ」

と。

しかし、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞は当時の世間を知っていた。

無理難題であるから動かなかった。

そんな彼らに、


君らは功名をなすつもり。

僕は忠義をなすつもり。


と非難した。


そして、彼の周りから弟子は皆はなれていった。


今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。

草莽崛起の人を望む外、頼みなし。


と、この言葉は封建制の否定である。

危険思想の持ち主とされ、江戸評定所で取り調べを受ける。

そこで彼は、老中暗殺計画を白日の下に語りはじめたのだ。


当時の最高刑罰は流罪であった。


『至誠。


至誠にして、動かざる者は未だに有らざる也


孟子』


「親思ふ

心にまさる親心

けふの音づれ

何ときくらん」


平等に人と関わるこの姿勢は、死後に実を結ぶ事になる。

明治維新における自由と平等への憧れによって、日本が近代国家として歩み始めることになったのである。














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