見観の眼(武蔵)

生きる事は苦痛だった。

それは今も変わらない。

生まれて初めて人を殺したのは十三歳の頃だった。

「俺に逆らえるような度胸のある人間なんかいないんだ」

と村の衆に乱暴を振るい、暴力で自分の言い分を通してきた有馬喜兵衛という男だった。

「俺がいるよ。

お前なんか俺が相手してやるよ」

と吠えてみた。

何を子供の癖にと思っているんだろう。

「小僧、詫びを入れれば許してやる」

という有馬に、怖気づいたのかと騒ぎ立てると相手も引けなくなってきたのかと此方を睨みつけてきた。

落ちていた棒キレを手にとって構えていた。

相手も棒キレをとって同じ条件で闘うものと思っていた俺には誤算があった。

脇にさしてある刀をとって真剣勝負をしようとするので、これでは不利だと思い、素手で勝負をしようと持ちかけると、有馬も子供相手に大人気ないとでも思ったのか脇差しを腰にもどそうとしていたので、その隙を見てチャンスだと見た俺は、棒キレで有馬の頭を叩きつけて、完全に意識がなくなるまでと思っていたら、無我夢中だったがために殺してしまった。

その征服感に戦うことの快感を覚えた俺は、悪人とはいえ人を殺したのだからと村の外へと追い出されてしまった。

「しかし、一人で生きていこうにも食うに食えない日が続く。

どうやって生きていけばいいものか」

悩むおれに太閤秀吉が亡くなったため、覇権を握るための戦争がおこると聞き、何の思想もないままに西軍の石田三成方の足軽として戦争に関わることにした。

人よりも自分は出来るとアピールがしたくて、山道の下に切ったばかりの竹が無数にあり、道をふさいでいる場所に立ち。

「もし、この下を敵が駆け抜けたらどうする?」

と聞いてみた。

すると誰もが、この道を行くことはできないと答えるので、皆の前で俺は飛び降りてみせた。

竹は、俺の足の平から甲へと突き抜けていた。

その痛みを揉み消すように俺は叫んだ。

「上へ飛び立てれぬ敵も下へは飛び降りることができる。

お前たちが追えぬというのだから傷を承知で飛び降りたのだ」

と、その殺気のようなものが皆を引かせたのだろう。

俺は誰とも打ち解けることの無い孤独を味わっていた。

その後、孤立したまま戦争で負け。

どこにも身近な友人もいない俺は、俺一人なら負けないのに周りの人間に足を引っ張られて負けたんだと解釈して戦争に出るのはやめにして武者修行の旅に出た。

吉岡清十郎との果し合いでは、試合時間に病気を理由に布団に入っており、見舞いに来た清十郎を布団の中に隠し持っていた木刀で、隙をみて一撃のもとに叩きつけた。

鎖鎌の男には刀を鎖鎌に噛ませて、懐に隠し持った短刀で相手を突き刺した。

俺は勝つために相手の性格や得物を研究し、負ける戦はしないように戦った。

強襲の天才と呼ばれるようになり、名はあげたのに、何故か士官はできなかった。

いつも千石を要求していたが、時代は武芸者を必要としていなかったのだ。

それでも、俺は間違った方向性の軌道修正が出来ないまま、日本一の剣客に勝負を挑むことにした。小倉藩に生涯一度の御前試合を挑むことにした。

相手は小倉藩から命令を受けただけで俺の情報など殆ど知らない。

しかし、俺は相手の事を調査している。

通常よりも長い刀を扱っているということも。

「巌流とは、日本一の剣術士の流派とききますが、一体どのような流派なのでしょうか」

小倉藩の者にきいてみると「彼が言うには必死の剣だと言うことで、無形であるというような話でした。よくは解らない話ですが」と言うが、俺にはよく解った。

理屈はない。

ただ生きるのに必死なだけだ。

船島に船をつけて、立合いの数日前に陽の位置を調べてみた。

刀の長さが通常よりも長いという。

リーチを補うために刀を特注したいが時間が無い。

自分で船のカイを切って、水分を含ませて重みをつけて、尚且つ自分が振りまわせる重さを確認して、背中に抱えて、相手に長さが解らぬようにして隠し、一撃の元に倒すシミュレーションを何度も繰り返した。

船の形をしているから船島と呼ばれる。

ここは海流が早く、うかうかしてると波に流される。

時間に合わせて到着するのが難しい。

相手は前日に島についていたという。

俺は遅刻することにした。


いざ尋常に勝負と、相手が刀を鞘から抜いて、鞘を放り捨てるのをみると、「巌流敗れたり」と動揺を誘って、「勝つつもりならば、なぜ鞘を捨てる」と語を連ねながら、カイを背中に隠し、太陽を背にして奇襲をしかけた。

相手は腕はたつが妻子のない天涯孤独の男であり、どこか自分と境遇が似ていた。

それに気がついたとき、無性に恐怖に身震いした。

こいつを殺せば俺が日本一の剣豪になる。

追う側から追われる側になるということは、俺のような奴が幾らも押しかけてくるという事だ。

それに気がついたから、俺は自分を殺したような錯覚に怯えて逃げだしてしまった。


仕官する事が目的だたのに、かなわず、大阪夏の陣に参戦してみるが、破れ、十年間、俗世間から姿を消した。

寺をまわり、故郷で石塔をたてた。

戦っても人殺しはしなくなった。

そんな中、尾張藩から仕官の声がかかり、徳川ヨシナオの前で御前試合をした。

あっさり勝利はしたものの、ヨシナオは「剣術は喧嘩ではない。

独自の仕方では怪我をさせる。怪我をすると人に教えられない。

あやしく偏った剣術では揉め事をおかしかねない。

城の中身は管理社会なのだ」

と、はじめて自分が士官ができなかった理由をしり、剣術を諦めざるを得なくなる。

「ただ強ければいいという訳ではなかったんだ」


寛永十一年。

島原で乱が起こる。

小笠原タダザネの勧めで小倉藩の一員として参加する。

五十二歳の事だった。


キリシタンは死んでもいいと神の教えを信じ、かかってくる。

勝利を目的としない彼らの存在は俺に世間の無知を教えてくれた。


もう何も解らない。


いつまでも俺は戦場にたちつくした。


その後。

「歳を老いて足腰も立たぬので推察願いたい」

と、手紙をおくり、戦場を後にした。


二年後、細川忠利に呼ばれ熊本藩に。

若い頃は千石を口にしていたが、自分からは言わなくなった。


大渕元弘和尚の元で、晩年は教えを受けるようになっていた。


「私は、この世のことなど何も知らない。

何を元に生きればいいのだろうか」


レイカンドウにこもって瞑想し、達磨大師の絵を描いた。


ある夜、天井岩の隙間から、月光が差し込むのを見た。

目に見える世界だけに勝敗を求めても得るところがない。

ただ虚空にとどろくだけ。


この世は現実と心。

その二つによって成立する。


それを五輪書の空に書き記す。


正保二年五月十九日、六十二歳の生涯をとじた。




「空の心には善があって悪がない。

地があって利があって道がある心」


それが空の正体である。


五輪書とは、宇宙を成り立たせる要素の記録であった。


彼は生涯、孤独であった。


誰にも救わることも無く、独りで死んでいったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る