匿名短文企画まとめ
匿名短文胸キュン企画
名残
私がこの教会に通い始めて、十年になります。私はキリスト教徒ではないのに、この教会の方は皆さま私を丁重にもてなしてくださいました。十年間、ずっと。私はここに、歌を歌いに来ていたのです。そして私の歌に耳を傾けて下さる方がいて、歌い終わったら拍手をしてくださるのですよ。素敵でしょう。
そんな恵まれた日々も、今日でおしまいです。寂しいとは思いません。今まで本当にありがとう。私には過ぎた機会を頂戴してございました。この幸せな思い出を、忘れることはないでしょう。
歌が上手いと初めて言われたのは、私が数えで八つ、尋常小学校に入って間もない頃でございます。お歌の時間に、一人のクラスメートの男の子が私に言いましたね。もっと歌ってくれないか、と。
彼は面白い男の子でした。いわゆる裕福なご家庭のお子たちの通う小学校でございましたが、なにせ彼は馬車でお通いになるのですから目立つのです。
裕福なら何をしても構わぬとお思いのようで、無鉄砲なことを多くなさる方でした。私をおちょくるのが大変お好きで、何度バッタを投げられたか知れません。私は優しくてございますから、バッタの話だけにとどめて差し上げましょう。
とにかく家柄に見合わぬ野生児でありました。
もう一つ。少し変わった足音の方でした。足が悪いと聞き及んだことはございませんが、引きずるような独特の足音があるのです。靴底がすぐにすり減りそうな音。私がそう言ったら、人に言われたことはない、とおっしゃいましたね。
あれから足音について、人からご指摘を受けたことはありましたか?
「そこにいらっしゃるのでしょう。黒田君。懐かしい足音だもの。私が忘れる訳なくってよ」
ふふふと私の後ろから低い笑い声がしました。私は振り返りませんでした。足音は昔と変わらず、ですが私の知らない声になっておいででした。
「なぜこの教会にいらしたの」
「結婚するのだってね」
私に近づく足音が止まりました。彼は私のすぐ後ろにいらっしゃるようでした。
「ええ。高等女学校を出る日に」
「祝いに来た」
「あなたが?」
黒田君は、この上なく頭の良い方でした。中学を大変良い成績で卒業なさって、第一高等学校にこの春からご入学だそうです。
その後あなたの名前を聞いたのは、私が高女に入ってからでした。あなたのその立場のせいか、私の身の回りに限っては、あなたは随分名前の知られた方でした。頭もよくって、端正なお顔だちで、身分も高い方だから。
あなたの名誉のため、下品な少年だったことは、黙っておきましたよ。
感謝してくださいね。
「誰から私の話をお聞きになって?」
「この教会の神父様から」
「お忙しいのに、ありがとう」
あなたは社交界で、これからもっと名を馳せる方になるでしょう。
歌の少し得意な女でしかない私には、とっくの昔に、遠い存在になっていた方だったのに。
「結婚おめでとう。
後ろから急に手が回ってきました。黒田君が私の肩の上から手を回し、私を抱きしめたのでした。ずいぶん背が高くなっておいででした。私は緊張で震える彼の手を振り払おうとはしませんでした。教会に人がいないと知っていたからです。
「変わらず、私をおちょくるのがお好きな方ね」
「君の歌は上手くなる一方だった。もう聞けないのが残念でならない」
風が吹きました。しかし私の背中には風がちっとも当たりませんでした。
「十年も歌を歌えた、それ以上の天恵はあるかしら」
これっきりなのは分かっていました。
これから私は、彼の知らないところに向かうのです。
そして彼もまた、私の知らないところにゆくのです。
「幸せになるんだよ」
私は頷きました。思わず涙があふれて、彼の手の甲にぽたりと落ちました。
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