匿名短文元神童企画
別解の帝王
彼の顔を入社式で見た瞬間、
細い垂れ目以外に特徴のない顔は、十年前の面影がそのまま残っていた。
「俺のこと覚えてる?」
忘れるわけがない。彼も私のことを覚えていたようだ。
神童、
小六の夏、塾の講習で私は末岡に出会った。よく講義中に手を挙げる少年だった。
「等積変形して全体から引けば一発です」
「先に五進法に変換すると計算が減ります」
彼の謙虚な指摘は、毎度私の心を
私は一生、この
別解の帝王。神童・末岡は
そんな神童は、この辺境の支社に、私と共に配属されている。
「わざわざここを志望したんだって?」
「海街が好きでさ」
「水泳?」
「違うよ。地球を覆う水によって栄えてる街って興味深くて」
「はぁ……」
理解に苦しむが、昔からこんな性格だった。しかし神童たる酔狂な発想はすっかり鳴りを潜め、学歴もそこそこ、上司にウケのいい好青年になっていた。
彼の机の隣で、私は唇を噛む。あの末岡と同一人物と思いたくない。
彼はよくどこかに行った。煙草休憩も昼食も、ひとり屋上でとっているのが窺われた。
私には特筆すべき才能はない。
だから天才の思考を、少しでも知りたいと切望して生きてきた。同じ高みに登れなくても構わないが、せめて同じ空気くらいは吸いたい。もし末岡が屋上にいるのなら、私も行きたい。
隣に並べば、私の中で神格化された彼の蜃気楼が消えるだろうか。私も階段を上り、屋上への扉を開けようとしたが、チェーン付きの数字錠が引っ掛かって阻まれた。少し開いた扉からは、屋上のフェンス越しに、末岡が好きだという海街が見えた。
総務で尋ねると、かなり前に誰かが屋上の鍵を紛失し、入りようがないとのことだった。
「入ってもいいんですね?」
「構いませんが、何かあるんですか? 前にも同じ質問をされたんですが」
そんな質問をするのは、別解の帝王の末岡に違いない。
「お前も吸うか?」
私の推測通り、屋上で末岡は煙草を吸っていた。扉の音に振り向いた彼は、一瞬驚いた顔をして微笑み、手招きをしてきた。
「末岡、屋上の鍵をこじ開けただろ」
「屋上はどうせ誰も入らないし、開けていいって言われたぞ」
「知ってるよ。流石は別解の帝王だ」
「やめてくれよ。昔の話だろ」
末岡はフェンスにもたれて苦笑した。
「お前の中で、俺はずっと別解の帝王なのか?」
私は頷いて煙草に火をつけた。私の中で別解の帝王の末岡がいかに特別な存在だったかを、紫煙に混ぜて静かに話す。全てを聞いた末岡は、大きくため息をついた。
「ごめんな、期待裏切って」
「……いや、期待なんて」
「才能なんてなかったのに、俺は自分を賢いと思い込んでた」
末岡がへりくだる度に、私の過去のトラウマが否定されていく。私は末岡の顔を見られなかった。賢くない男に、私は負かされたのだろうか。
「別解って、本解じゃないんだよな」
末岡が屋上から眺める景色が、紫煙に揺れた。
「別解は、別解でしかないんだよ。別解だけ捻り出せても、それは本質の賢さじゃない。小学生くらいまでは誤魔化せても、中高では通用しない。二十歳を過ぎればただの人だ。大学も微妙だし」
世間的には十分優秀な学歴だったが、言わんとすることは分かった。周囲の期待よりは、足りぬ学歴である。結果が全ての世界で、彼もまた、自身の蜃気楼と戦っていたのだろう。
「別解の才能がほしいわけじゃなかった」
「でも、末岡の別解は偽物じゃなかった」
つまり私のトラウマも、蜃気楼ではない。
「受験と方向性が違っただけで、末岡のセンスは本物だよ」
末岡は結果を出せずに挫折した自身の不足ばかりを探し、才能を否定し、己を責め続けているように見える。
「才能から目を逸らせること自体が、天才の証拠だよ」
「俺にあるのは、風邪引かない才能くらいだけど」
「……それも羨ましい」
「でも俺、そのせいで鼻のかみ方知らないんだ。別解しか捻り出せないって、そういうことでさ」
「やっぱお前は別解の帝王だよ。自覚してくれ」
私の圧に末岡は笑った。紫煙がまた揺れた。
「自覚するから俺からも質問させろ。お前、よく屋上に入れたな。邪魔されたくなくて、
総務部の社員は鍵を紛失したと言った。数字錠に鍵はない。末岡は南京錠か何かをこじ開けて、新たに数字錠を向こうから掛けたのだろう。
鍵がかかっている時こそ、屋上に末岡がいる時だ。
「それがどうした?」
「挫折した天才は得てして、己の才能から目を逸らす。お前の言葉、そのまま返すぞ」
「自覚はないのか? 別解の女王」
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