KAC4:オーストラリアと僕 (お題:拡散する種)
「これがオーストラリアだよ」
バスに揺られながら、僕の隣で上村が囁いた。僕は彼の方ではなく、バスの外をただ見ていた。草が広がっているだけ、そして数々の家畜がめぐるましく横に流れゆく景色に映っては消え、映っては消えるだけなのに、ぼくはただその大自然に釘づけになっていた。
時期は冬休みだが、僕には関係なかった。一年間の休学期間中だった僕には毎日が春休みであり夏休みであり冬休みだったからである。ゼミの人間関係がどうしても合わず、大学に行きたくなくなってついには引きこもった。優しい親は、一年くらい遠回りしたっていいじゃないかと慰めてくれたが、親のその優しさすら無碍にする人間なんだと思わされるような気がして、僕はその手を振り払ってしまった。
完全なる引きこもりになった僕は誰も寄せ付けなかった。下宿にやってきた友人も家族も全てシャットアウトし、家からはほとんど出なかった。通販とアルバイトの時だけドアを開け、ほとんど誰とも話さなかった。このまま一年が過ぎたところでなんになるというのだろう。漠然とした不安が大きくなり、押しつぶされそうになり、ついにはバイトまで辞めて家に完全に引きこもるようになった。
ほとんど返信していないLINEに、知らない人からのメッセージが入ったのは休学して、世間が夏休みに入らんとしている頃だった。
「オーストラリアに行ったことはある?」
顔も知らない、名前も知らない、ただ僕の友人の友人を名乗る男からだった。
知らない人にまで僕の話が伝わっているのかとげんなりしたが、親しい友人の心配するLINEよりも返信しやすい気がした。
「ありません」
僕はパスポートすら持っていないのだから。
「だろうね。だから今、声をかけたんだよ。俺は冬休みなら空いてるから、冬休みに行こう。それまでにパスポートを作って旅費を貯めよう。金がないなら、俺がバイトを紹介するよ」
僕はオーストラリアに行ったことがないと言っただけなのに、勝手にここまで決められた。気づけば、来週会う段取りまで済まされていた。
「上村さん」
上村は僕より歳上らしいので、そう呼んだ。
「いや、呼び捨てでいいよ。呼び捨て、タメ口、それがルールだ」
「上村」
「正解」
上村はにっこりと笑った。
「……オーストラリアには、コアラでも見に行くの?」
「君が見に行きたいのなら見に行ってもいいけど」
オーストラリアに連れて行きたいのはお前じゃないかと僕は言いたかった。
「コアラとカンガルーは普通すぎるだろ、そんなの日本でも見ることができる。まあ、本場のコアラを観に行って抱っこしたいというのなら話は別だけど。でも俺が連れて行きたいオーストラリアは、それだけじゃない」
じゃあ、上村が連れて行きたいオーストラリアというのはなんなんだ?
「君は文学部なんだってね。だからきっと知らないだろうけど、オーストラリアは特別な大陸なんだよ。今から六千五百万年前に大陸から分断されて、ずっと孤立して生きてきた大陸だ。そこにいる動物と植物を見に行こう」
「はぁ……」
上村の語りには熱が入っているが、僕にはピンとこなかった。アウトドアは苦手だし、動物や植物に興味があるということもない。まあ、犬や猫は好きだけど。
「犬や猫が好き、それだけで十分才能だよ、オーストラリアに行くだけの才能がある」
才能がなくてもオーストラリアには行けると思う。
上村の勧誘は熱血でしつこかった。しつこすぎて、断る方が面倒くさくなり、僕は渋々ながら相手するようになった。上村のプラン通りに動いているのは癪だったが、暇な身には多少強引にでも体を動かすのが不快ではないのも確かだった。
そして、だんだんとオーストラリア旅行が楽しみになっているのも、悔しいが事実だった。
「君が観ているその光景、実は日本とは違うんだよ」
からっと乾燥した草原の真ん中にツアーのバスが止まる。観光客と一緒に僕らはオーストラリアの大地を踏んだ。上村が話しかけてきたのはその時だ。
「え?」
僕は上村の方を振り向いた。
「オーストラリアの動植物はね、白亜紀の末に大陸が分離してからというもの、独自の進化を遂げたんだ。コアラやカンガルーもその一つだよ。植物もそうだ。だから、俺たちが見ているこの光景は、オーストラリア独自のものなんだ」
僕が踏んでいる大地、そこから生えている植物、時折見える動物。これらが皆そうなのだという。
上村は、僕の後ろから様々なことを教えてくれた。本当は、オーストラリアだけではなく南アメリカも同じように独自の進化をしていたが、北アメリカと繋がったことで動物が流入して、独自の動物たちは負けて絶滅していったのだと。
バスから一瞬一瞬だけ見える植物が僕の分身のように見えた。
一つの種からだんだん進化して、その進化が拡散して細かな種になっていった。僕には覚えられなかったが、この現象には専門用語もあるらしい。
だがあまりに細かく分かれた結果、その環境にしか適応できなくなったり、他の地域から流入した動物に負けてしまう。南アメリカ大陸の動物のように。
僕は今、南アメリカの動物になろうとしているのだ。新入生の頃は誰も彼も同じような人間だったのに、いつの間にかキャラや成績によって細かい立ち位置が変わり、今僕はゼミという環境にやられて死のうとしている。
オーストラリアの動植物は、独自の環境に適応して生き残ってきた動物たちの子孫だ。僕は果たしてこうなれるのだろうか。なりたい、と夏のオーストラリアの日差しに汗を流しながら僕は強く思った。
「病んで大学に行けなくなった人間をオーストラリアに連れて行く、短絡的だと君も思うだろ? 俺も思ったよ。でもここがオーストラリアのすごいところで、アイデア自体は短絡的でも、それを上回るだけの力がここにはあるんだ」
上村は微笑んだ。
「俺も思った……?」
「予言してやるよ。君は絶対にオーストラリアを好きになる。そして日本に帰ったら、大学に行けるようになる。次の学年になったら友達に病んだ人間を紹介されて、そいつと一緒にオーストラリアに戻るんだ」
上村が僕より歳上である理由が今わかった。全身からふっと力が抜ける。ああ、僕は安心していいのだ、そしてオーストラリアはそれを受け入れてくれるのだという実感が湧いてきた。
上村はオーストラリアになったのだ。そして彼は僕もそうなれると断言してくれた。
バスに戻った僕はまたバスの外の景色に目をやる。オーストラリアの旅は、まだ始まったばかりだ。雄大な自然が僕を待っている。
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