加害者家族と一抹の嘘

 もう名前も見たくない人に呼び出された。私は応えるしかなかった。私と彼では立場が違うからである。


じんさん、お久しぶりです」

 指定されたファミレスで彼を探していた時、彼から名前を呼ばれて座っているのを見つけた。

 いかにも好青年という様相になっていた彼はにやりと笑った。最後に会った時と雰囲気が大きく異なっているじゃないか。全くわからなかった。


 最後に会ったのは数年前だから、当然私の外見も変わっていたはずなのだが、なぜか彼はすぐに私を見つけた。私の顔を覚えていたのかもしれない。

おいかわさん」

 彼の新しい苗字を私は呼ぶ。

「はい」


 ちらりと見ただけで整っている顔だとわかる。その顔からどんな言葉が飛び出してくるのだろうと私は震えていた。

 若いのに鷹揚というか自信ありげというか、人を惹きつける魅力に満ちた独特の雰囲気は、私にとっては恐怖でしかなかった。


「今日は何のお話でしょうか」

 私は小さな声で尋ねた。

「あなたのお父さんの話です」

 ほらきた。私は下唇をぐっと噛みしめた。私の彼に対する弱みは父のことだった。私の父は彼の母親を殺した。今から十年以上前のことだ。


 彼はにやにやしている。何がそんなに面白いのだろう。


 私の父は銀行で働いていた。そして彼の母親も同じ銀行の職員だった。その日は何の前触れもなかったように記憶している。事件が起こったのは昼休みだった。教頭の焦った声が放送で学校中に響き渡った。この中学校の最寄の銀行に強盗が入った、そして今立てこもっている、と。


 その強盗が私の父だなんて、まさか思わなかった。私はただ父の身を案じ、担任のすすめで学校を早退した。母も、弟も、おそらく人質となっているであろう父の心配をしていた。人質を取っている側だとは思いもせずに。


 金を奪ったとされる父は、彼の母を人質にとり、金を積んだ自分の車を運転させて逃げた。銀行は、父が仕掛けたとされる爆弾によって爆発し、跡形もなく消えた。中学校全体が揺れるほどの衝撃だったという。


 そして父は、警察の追手からは逃げられないと悟ったのか、車内で拳銃を撃って自殺した。車を運転していた彼の母は運転席で父に撃たれて死んでいたという。

 父は、彼の母をはじめ、銀行員とその客、会わせて数十人を殺した。

 私は大量殺人鬼の加害者家族になってしまったのだ。彼は被害者家族の一人だ。


「私の父が、どうかしましたか?」

「あなたのお父さんは、僕の母を殺したことになっていますね」

「……はい」

 あの日から十年以上経ったが、一度も彼の母のことを忘れたことはなかった。


 被害者家族と社会から父の起こした事件を責められ続けたからだ。だがその追及は、父の所業から考えると妥当と言わざるを得ない。私たち家族は、ただその責め苦を甘んじて受け続けていた。父の死を悲しむことは許されず、母はただ父のことを罵っていた。涙を流しながら。それが本心ではないのはわかっている。私は父と母の娘だから。


 私はまだ幼かった彼の顔を覚えている。被害者家族の一員に交じって、一人静かに椅子に座っていた彼の姿を。

 彼は、私を責めに来たのだろう。そう信じて疑わなかった。

「僕は、母の死に疑問を持っています。あなたのお父さんの死にも、です」

「……え?」


 予想外の言葉が飛んできて、私は思わず頭をあげて尋ね返した。彼、いや、及川さんは笑っていた。その微笑みは優しかった。加害者家族に向けるものではなかった。


「あなたのお父さんは、本当に僕の母を殺したのでしょうかねぇ?」

「私はずっとそう思ってきたのですが」

「僕はそう思いません」

 きつい言い方ではない。だがはっきりと及川さんは言い切った。


「……でも、警察がそう判断したんですよ。警察を信じないわけには……」

「警察なんかクソですよ。捜査が間違ってるんです」

 私は口をあんぐりと開けた。固まっていた。


「どうかしましたか」

 彼はぬけぬけと尋ねてきた。心底不思議そうな顔である。

「……いや、急に警察の悪口が出てきて、びっくりしちゃって」

「ダメですか?」

「さすがに警察を非難するのは……」

「警察なんかクソです」

 また言う。


「警察官になって、改めてそう思いました」


 私はまた口を開けて呆けるしかなかった。彼は警察手帳を見せてくれた。及川総一郎、確かに彼の名前だ。本物、だと思う。私には判別のしようがないが。

「及川さん、警察官だったんですね」

 殺人加害者家族の私には警察官になる道などない。


「神保さん、警察の言うことは信じると言っていましたよね。だったら、僕の言うことも信じてくれますか?」

 頷く以外に選択肢はあるだろうか。


「警察があなたの父親を犯人だと断定したのは、車の中の助手席に座っていたからです。被疑者となりうる人間はみな死んでるんです。銀行強盗は覆面をしていましたから顔は分かりません。証人もいません。慎重に捜査しなければならないのは明らかでしょう? それなのに、あんな重大な事件の犯人を車の件だけで特定するなんて、杜撰としか言いようがない」

 吐き捨てるように警察の悪口を彼は語り続ける。


「だいたい、あなたのお父さんは支店長でしょ。金が欲しいなら横領するほうが早い。強盗する理由はありません」

 そうだ、私の父は支店長だったのだ。父が人を殺したという事実は忘れたことがないのに、父の記憶はところどころ抜け落ちている。娘として恥ずかしい。


「神保さんも警察に怒ったらどうです?」

 そんな無茶な。今の今まで、警察に疑問を持ったことはないというのに。

「あの、及川さんが警察に疑問を持ったのはいつからだったんですか」

 わざわざ警察官になるほどの違和感、きっと大きなもののはずだ。気になった私は、加害者家族という立場も忘れて尋ねていた。


「最初からです」

「はい?」

「母が運転席に座っているわけがないんですよ」

 だが、実際には座っていたじゃないか。これは疑いようのない事実だ。

「僕の母は車を運転しません。ペーパードライバーなんですよ」


 だが警察は、父が彼の母を脅して車を運転させたのだろうという見解を立てていた。犯人が車を運転すると、隙が生まれて人質に反撃されたり逃げられたりする恐れがある。父が彼の母に車を運転させたのは確実だった。


「でも、母は本当に車を運転できないんですよ。そんな人間が、脅されているという心理状況で車を運転できますか?」

「父から教えられたのでは? 父だって逃げるのに必死なんですから、横から指示を出すでしょうし」


「僕の母は単なるペーパードライバーではありません。死んだ人間に言うことではありませんが、とにかく不器用なんです。追いかけてきたパトカーの追跡を振り切るんですよ? いくら指示されていたとはいえ、そんなことができますか?」

「……そんなの、わかりません」

「ずっと母に接してきた僕ならわかります。母はあの車を運転していません。これは絶対です」


 それは、私がこっそり父の無実を信じているのと同じことなのだろう。いや、愛していた父が事件を起こしたという事実から目を背けているだけなのかもしれないが。

「なぜ、それを当時の警察に言わなかったんですか?」

「言いましたけど、小学生の証言なんて聞いてもらえませんよ」


 彼は鼻で笑う。その時点から不信感が芽生えていたのだということが伝わってきた。その不信感の先の組織に就職するとは。あの事件に対する思い入れが伺える。

「他にもありますよ」

 及川さんはまた微笑んで指を一本立てた。初めてじっくり顔を見た。随分と整っている顔がこちらを見ている。


 そういえば、当時私は中学二年生だったが、彼は小学六年生だったはずだ。ということは、今は二十四になるのか。その歳で、この鷹揚さと余裕を持てる男。敵に回したくないと私は思った。


「母の死因は拳銃ですが、接射でないことは警察も把握しています。ですので自殺ではありません。接射ってわかります?」

 私は頷いた。銃を体の表面につけて撃つことだ。彼の母の側頭部には接射創、つまり銃創の周囲が焦げ、射入口の周囲にやけどが見られ、創口の形が歪だという独特の痕跡が見られなかった。

 そして車の中に残されていた拳銃には消音機がついていた。消音機のついた拳銃を身体から離して自殺することはほとんど不可能だ。だから、警察は私の父が彼の母を殺した、そう判断したのである。


 詳細に覚えている。何万回も聞いたことだから。


「助手席から母の頭を撃つとなると、銃口を頭につけて撃つのが普通です。なぜ、あなたの父はわざわざ離して撃ったのでしょう?」

「……私にはわかりません」

 ただ、父がそれをしたということだけしか私にはわからない。彼の母にそんなことができたのは、私の父しかいないのだから。


「ほら、だんだんちぐはぐな感じがしてきたでしょう? あなたが信じてきたものが崩壊する音、僕には聞こえますよ」

「…………」

 彼はこちらを覗き込んできた。


「僕は、あなたの父が僕の母を殺したんだとは思っていません。僕の母は殺人の被害者だ。しかし、同時にあなたの父もまた、殺人の被害者なんですよ」

「殺人の被害者……?」

 私は加害者家族だ。ずっとそう思ってきた。だが、この目の前の男は、私の父を被害者だという。


「僕はずっと接してきた家族だから、母の死に疑問を持ちました。そして警察官になった。あなたも、ずっとお父さんと接してきたんでしょう? 家族でなければわからないことがきっとあるはずです。僕に協力していただけませんか」

「私が、ですか?」

「あなた以外に誰がいるのです?」

 じっと見つめられて私は思わず及川さんから目を逸らした。


「この事件、どこかに絶対に犯人がいます。絶対に自然に起こることではありませんからね」

「その犯人を捜すってことですか?」

「そりゃそうでしょう。父親が大量殺人鬼でいいんですか?」


 不思議でたまらないというように及川さんは首をかしげる。半ば馬鹿にしたようなその口調、私が加害者家族という低い立場でなければ怒っているところだ。いや、彼曰く私は加害者家族ではないのか。じゃあ立場は低くない。ならば私は怒るぞ。いいのか?

「いや、よくはないですけど」

 耐えた。偉いぞ自分。


「じゃあ、僕に協力してください」

 及川さんは身を乗り出してきた。そして右手を差し出してきた。

「僕と一緒に、銀行爆破事件の真相を解明しましょう」


「なぜ、私なんですか」

 私は右手を見つめて尋ねる。

「あなたにはきっと、事件を解決したいという情熱があるはずだ。あなた、実はお父さんのことを今でも好きでしょ? 実はお父さんの無実を信じてるでしょ? 僕が母のことをよく知るからこそ気づけたことがあるように、あなたのお父さんをよく知る人物だからこそわかることがあるはずです」

 私はハッとして頭を上げる。彼と目が合った。

「その目を見たらわかります」

 彼は整った顔をにやりとさせた。


「私、父のことについては断片的な記憶しかないんです。お力になれるかは……」

「そんなの、捜査してるうちに思い出すに決まってます」

「でも、父親の記憶が抜け落ちてるなんて、娘として恥ずかしいことですよ」

「ほらやっぱり。普通の人間はね、嫌いな相手に対して、記憶が抜け落ちてるということに気付きませんよ。それに、そのことに対して恥ずかしいと思う、それはあなたがお父さんのことを愛している証拠です」

 私は父を愛しているのだろうか。顔ははっきりと思い浮かぶ。今だに夢にも出てくる。そのせいで私は自分に嫌悪感を抱いていたが、彼はそれを否定しない。愛している証拠だとまでいう。


「あなたは銀行支店長の子、それも若くして支店長になったエリートの子ですよ。僕はその頭脳にかけたい。まあ、その気持ちがないと言ったら嘘になりますが」

 被害者家族がここまで父のことを褒めるなんて思いもしない。私の心がぐらりと揺れる。


 私は及川さんの差し出した右手をまた眺めていた。迷っていたわけではないが、ただそれを行動に移すことに緊張していたからだ。だが、意を決して私は彼の右手を取った。

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