青春アンソロジー「青の結晶」(9,347字)

20200119 文学フリマ Kyoto

バカの憂鬱

「それでは、令和元年度横浜大学薬学部薬学科三年次、後期試験の試験対策委員会を始めます。全員起立!」


 麻雀卓を中央に置いた、一般に想像される委員会とはかけ離れた異様な状況で委員会は始まった。総員四名は真剣な顔で互いを睨みつけ、自衛隊も顔負けの立派な気をつけで立つ。


「礼!」

 円のように麻雀卓を取り囲む面々は、中央に向かって礼をする。狭い部屋なので、委員の二人の頭が当たりそうになった。

「着席してください」

 委員は音を立てずに座った。一瞬の静寂が訪れる。


「はい、ということで始めてまいりますけども」

 委員長の北川きたがわあらたが打って変わって陽気な声で卓の下から牌を取り出した。

「委員の皆さんお揃いでしょうか」


 そういうのは挨拶の前にやるべきだ、と北川の上家カミチャに座るひがし陽平ようへいは思いながら、黙って牌を混ぜていた。

「今回の試験科目は、漢方薬学、公衆衛生学、薬学英語B、薬物動態学、細胞生態学、第二生理学、医療心理学となっております。試験日程は一月二十日の月曜日から二週間です。みんな頑張ろうね」


 委員会の唯一の女性、北川の下家シモチャに座る西にしあんがのんびりと試験科目を読み上げた。

「試験やだなぁ〜。死にてぇ〜」

 全く死にたくなさそうな呑気な口調でみなみしょうが呟いた。


「お前は絶対死にたくないだろ。バカのお前が死んだら学年全員死ぬわいな」

 南の対面対面の北川が苦笑する。

「大量殺人だぁ〜」

「どうせ試験で大量に死体の山が出来るのにな」

 そのうち何人留年することやら。


「だから我々、試験対策委員会が存在するんだ! さあさあ対策だ!」

「雀卓叩いて何言ってんだか……」


 この試験対策委員会は、公式なものではない。存在すら公ではない。ここで試験対策がなされても、それがこの四人の外に漏らされることはない。


「カンニングこそ正義! 愛は地球を救わないが、カンニングは地球を救う!」

「でかい声で言うな。それに、カンニングも地球は救わねぇから」


 北川が南をぴしゃりと叱りつける。

 カンニングが発覚すると非常に重い処罰が課せられる。良くて単位剥奪、普通は停学、悪くすれば退学だ。だがその重い処罰をも打ち破る魅力があるのだ。この四人は、それぞれカンニングにただならぬ思い入れを持っている。自らはカンニングのプロ、という自負心もある。


「親は……俺か」

 北川が牌を並べるのにならい、他の三人も自分たちの牌を並べだした。だがその間にも委員としての会話は続く。


「まあ留年科目と言ったら、天下の薬物動態学様だろ」

「いや、今年は細胞生態学教室がブチ切れらしいぞ」

「そうなの? なんで?」

「あまりにも学生が無能揃いだからだよ」


 南は言って東野に目線をやる。細胞生態学教室に所属する無能学生の筆頭である東野は恐れ入るように小さく頭を下げた。それと同時に、北川がぱちんと一つ目の牌を捨てる。


「実際どう? 先生やばそ?」

「まあ、俺の直属の先生はまだマシだけど、大澤先生は機嫌が悪いな」

「ハイ〜人生終了〜」

 北川が大袈裟に頭を抱えて天を仰ぐ。大澤先生は今回の試験で八〇点分の試験を作る先生だ。つまり彼を怒らせるとテストが猛烈に難しくなるということに他ならない。


「いったい、何やって怒らせたの?」

「先生の研究用のスライドガラスを割ったのと、PCRの機械にチューブ詰まらせた」

「……詰まるって何? どうやって? 詰まるなんてことある?」


 頭は悪くとも研究だけは卒なくこなす小西が首を傾げた。

「俺も知らないよ。とにかく詰まったんだ」

「ま、そりゃ怒るのも無理ないわ。問題は試験が難しくなることよ」


「どうする? 細生捨てる?」

「ダメだ、再試験が動態の二日後だ」

「いや、細生と動態のどっちかは通れよ」

 北川のツッコミとともに、東野の捨てた牌が南にポンされた。


「通れないからこの委員会にいるんだろうがよぉ」

 その通り。そう簡単に通れたらカンニングなど必要ないのだ。北川に冷たい視線が集まる。

「あ、リーチな」

 南はすぐに機嫌を直してリーチ棒を卓に置いた。

「細生と動態の話は後にしよう。まずは簡単な科目からだ」

「英語は楽だぞ。なにせ試験は自由席だから、後ろに座れば誰の答案だろうが見放題!」

 そんなわけはない。

「ま、段差の席に行こうと思ったら、試験開始の一時間以上前には教室にいなければならんが、まあ試験合格に比べたら大したコストにはならない。我々は合格のためならどんなコストでも払う」

 じゃあ勉強というコストを払えと言う者はここには誰一人いない。


 通常、カンニングというのは前の学生の答案を見ることによって行われる。

 その際に利用されるのが段差の席だ。大教室の後方には黒板が見やすいように、階段状に高くなる席が存在する。前の席より階段一段分高いため、必然的に前の席の答えが見やすくなる。カンニングには必須のアイテムだ。


 全ての試験でその席に座れればよいが、ほとんどの試験は出席番号順に着席しなければならない。運よくその席をゲットできていたらこの委員会にはいない。北川は最前列、眼鏡の東野は目が悪すぎて前の答案を見ることができず、南は前の席が南と同じレベルの尋常じゃないバカ、小西は前が大柄すぎて答案が見えない。各々、それなりの事情を持って単に前の答案を見るというカンニングを不可能としており、この委員会に入ったのである。


「英語はそもそも試験が簡単だしな。問題文を読むだけで推察できるから、英語どころか日本語が出来たら通る」

「じゃあ次、公衆衛生学」

「あ、東野、ロン。立直リーチ断么タンヤオドラ一。七七〇〇チッチーだな。ほれほれ点棒よこせ」

 南に点棒をくれという意味の手を出され、東野は渋い顔で点棒を支払った。また牌を混ぜる作業が始まる。


「公衆衛生学は、筆箱の持ち込みが可能だからカンペを仕込める」

「余裕じゃん」

 そう、この四人はプロだ。筆箱など持ち込ませたら、あの手この手でカンニングをするに決まっている。


「ねえ、前期の一生いっせいは雑魚だったけど、二生にせいはどうなの」

 一生、二生とはそれぞれ第一生理学、第二生理学のことだ。一生を教えるのは教授の高橋先生なので、彼は「高橋一生」と学生からあだ名されている。

「二生の方がもっと楽だよ。だって教科書持ち込めるもん」

「うわ、最高じゃん」

「教科書に課金するだけで単位、これは素晴らしい」

 二生の教授には四人から拍手がこっそりと贈られた。


「じゃあ次の科目行こう」

「あーあ、全自動麻雀卓欲しいなぁ」

 幸先のいい南はほっこりとした顔だ。一方、入れ替わるように北川の表情が渋くなる。


「それ置くの、俺の家なんだが……」

「ねぇ、漢方どうする? あれ結構しんどいよ」

 北川の文句を無視して、小西が牌を切りながら会議を進める。

「漢方はね、先輩に聞いたところ、研究室に通いつめたら出る範囲を教えてくれるらしい」

「いや、多少範囲が絞れたところで、漢方はヤバい。お前たちは授業を聞いてないから知らないだろうが──」

 鼻高々に言う北川に、

「何でだよテメェ漢方ずっと寝てんじゃねぇかよ! 俺もゲームしかしてねぇけど!」

 東野が鋭く突っ込む。

「漢方はな、西洋医学の常識が一切通用しないのが辛いんだ」

 北川は東野の手をさりげなく払いのけて話を強行する。

「虚やら実、気血水、とにかく意味不明な単語と概念。特段強くはない敵だが、今までの攻撃が一切効かない厄介な敵だ。範囲が減ったとて、暗記量も多い」


 薬学部の試験は暗記が基本だ。範囲が広いと地獄だが、範囲が多少狭くなったからと言って楽になるものでもない。

「じゃあ無理じゃん……」

「逆に考えるんだ。漢方は、構造式が一切出ない」

「……つまり」

「カンペで一番場所を取られるのは構造式。漢方は確かに覚えることが多いが、中国語の試験と考えればカンペを仕込むのも難しくはない」

「中国語か。まあ俺たち麻雀やってるし、中国語ならそんなに難しくなさそうだな」

 中国人が聞いたら激怒しそうだが、残念ながらここに中国人はいない。

「委員に告ぐ。カンペは左手親指の爪に書け」

 この委員会のメンツはカンペづくりに慣れている。親指ほどの大きさの紙に、十個以上の薬物の名前から副作用まで全部書ける。

「了解」

 東野は大きく頷いて牌を切る。


「医療心理学は?」

「医療心理学は無理」

 北川がばっさり切り捨てる。

「うん、心理学教室は複数の先生が来るし、机の間を歩き回るし、ずっと真剣にしつこく見張ってるからカンニングは不可能だ」


 東野も頷いた。南と小西の気持ちが重くなるが、反論のしようがない。とにかく心理学の教員は厳しいのだ。

「どうせ過去問だしね」

 小西も自分に言い聞かせるように呟いた。


「そうだな、一科目くらい自力で頑張るか……」

「田中を相手にするのは厳しすぎる」

「俺、田中嫌いだわ」

 北川が吐き捨てるように言った。田中は心理学の教員だ。


「あいつ、人間としての心を持っていないサイコパスだから、人間の心理学を勉強するために心理学者になったんじゃないの」

「サイコパスなのは確かだな」

「今回のヤマは心理かなぁ」

「いや、まだ細生と動態が残ってる」

「大澤先生を怒らせたらもうダメだろ。二年前も大澤先生を怒らせて大虐殺が起きたじゃん」


 伝説の二年前、当時もバカな学生が洒落にならない失敗をしでかし、怒った大澤先生がとんでもない難易度の試験を作ったせいで学年の八割が不合格、うち十五名が留年というおぞましい事態が生まれたのである。

「それをカンニングでなんとかするのがこの委員会だろ」

 原因の一端である東野は、恐れ入りながらも異議を申し立てた。


「過去問もあてにならない、前の席の人間も当てにならないとなったら、カンニングだってめちゃくちゃ難易度が上がる。当時だって、山のような人間がカンニングで乗り切ろうとしてたに決まってる、それでも相当の人数が留年してるんだ」

 北川が冷静に反論する。誰も反論できずに静かに自らの牌を見つめるしかない。


「あ、ツモ。リーヅモ混一色ホンイツ跳満はねまん、六〇〇〇オール」

 カンと音を立てて小西が牌を倒した。苦い顔で面々は点棒を支払う。

「どうする? 細生捨てる? それとも人間辞める?」

「細生を捨てたら、絶対に動態を取らなきゃならなくなるぞ」

 再試験の日程が二日差という絶望的な状況である以上、落ちたらどちらもそれ即ち死である。


「動態だってそう簡単に取れるもんじゃないからな」

「ああ、動態は先生が変わったから過去問がない」

「おまけに、今年は新しく助教も入ってきたからもうダメだ」

「ヤダぁ〜! 私もう無理ぃ〜」

 裏声で喚くのは紅一点の小西ではない。

「うわ南の裏声きっしょ」

「確かにキモいけど、細生と動態がヤバすぎて南の裏声すら霞んで見える」

「どうも〜」

「褒めてねぇよ」

「あんたらね、南なんか放っといて試験の話しなさいよ」

 小西が言い放った一言に、露骨に南が傷ついた顔になる。放っておかれるのがいちばん刺さるらしい。


「でもどっち取る? 溺れてる恋人と親友どちらを助けますかに次ぐ、究極の選択だぞ」

「なんで恋人と親友が同時にいるのよ」

「俺は両方沈める」

「試験は両方沈められねぇだろ。だいたいなぁ、細生がこんなに難しくなるのがおかしいんだよ」

「東野ぉ!」

「俺は何もしてないよぉ。なんで俺が怒られるんだよぉ」

 東野は頭を抱えて罵詈雑言から身を守る。


「わかった。皆、どっちを取るか決めよう」

 北川がパンと手を打って四人に手を挙げさせた。

「細生」

「細生」

「動態」

「動態」

 四人の意見はきれいに割れた。


「動態だけは取れそうだから取りたい」

「細生が留年大感謝祭になる以上、再試験に回したくない」

 共に正論である。話し合いは平行線だ。


「どうやって決めるの?」

 小西は首をひねって牌を切る。

「小西、ロン。リーチ一通イッツー一盃口イーペーコー混一色ホンイツ、一二〇〇〇の一本場は一二三〇〇」


 北川の鋭い声に小西の牌を切る手が止まる。北川が手牌をそっと倒した。

「…………」

 固まった笑顔の小西から舌打ちが聞こえてきたのは気のせいだろうか。

混一色ホンイツには混一色ホンイツ返し、跳満には跳満返しか」

 苦い顔で点棒を支払う小西に最下位を走る東野が笑い、手早く牌を混ぜて並べる。


「北川はすぐ染める……」

「見え見えなのに、振り込む小西が悪いんだよ」

「バカはすぐ染めるからな、何も考えなくていいから楽なんだろ」


 南がそう言うと、東野は半笑いで頷いて牌を並べ始めた。北川としては図星なので非常に面白くない。

「なんで俺がバカなんだよ」

「ここ全員バカだもん」

「…………」


 東野の全員に刺さる一言はあまりにも殺傷力が高すぎる。もちろん東野自身にも刺さった。諸刃の剣だ。

「……話を戻そう。どちらを本試でとるか」

「カンニングしやすそうな方にしよう」

「俺は動態の方がカンニングしやすいと思う」

 真剣な表情で北川が捨てる牌を持ちながら手を挙げる。


「動態は、外部から来たおじいちゃん教授だ。試験もこの教授がやる」

「でもあのおじいちゃん、ずっと学生の答案覗き込んで回るじゃん。カンペは無理じゃないの」

「それは細生の大澤先生も同じだろ」

「動態のどこがカンニングしやすいんだよ」


 南に詰められる北川だが、自信たっぷりに首を振る。

「逆に言えば、あのおじいちゃん教授は、学生の手元しか見てない」

「だから?」

「前の椅子に書き込む」

 え、と小西が呟く。


「前の椅子?」

「それ、最前列の北川はどうするんだよ」

「まさか、自力で解くってのか?」

 過去問もないのにそれは不可能だ。


「いや、俺もカンペを仕込む」

「嘘だ。どうやって」

 早くも聴牌テンパイした東野がリーチ棒を場に置いた。


「俺は教卓を使う」


「無理だよ、お前眼鏡じゃん」

「そうそう、目が悪くても見える大きさのカンペを仕込んだらさすがにバレちゃう」

「大丈夫だ。コンタクトと眼鏡を同時に掛ければ俺は視力が二・〇になる」

「本当なのか?」


 同じく眼鏡の東野は怪訝そうに尋ねた。コンタクトと眼鏡はそういう関係ではない。絶対にない。

「本当だよ。コンタクトをした状態で眼鏡屋に行って、視力を無限大に上げる眼鏡を作ってくれって言いに行ったんだから」

 そんな眼鏡を作らされる眼鏡屋がかわいそうだ。


「なんでそんなもん作ったんだよ」

「カンニングのために決まってるだろ」

「その眼鏡、普段はどれくらいの視力になるの」

「ギリギリ車を運転できないくらいかな」


 矯正視力にしては割と悪いほうだが。

「ま、北川が大丈夫だと言うのなら大丈夫なんでしょ。動態は椅子にカンペ、これで行きましょう」

「残るは細生だなぁ」

「俺はもう諦めかけてるけど。あ、南、ロン。断么三色タンヤオサンショクで五二〇〇」


「ぐえ」

 南が短く遺憾の意を示す鳴き声を発した。


黙聴ダマテンかよ」

「逆に今のは断么タンヤオ見え見えだろ。あれに振り込むお前もバカだな」

 先ほど煽られた恨みとばかりに、北川が南を笑った。


「次でオーラスだからね」

 小西がため息をつきながら呼びかける。

「んで、細生どうする?」

「俺はもうどうしようもないと思うけど」

「おい東野、大澤先生に媚び売りに行けよ」

「俺は大澤先生担当じゃないし、急に媚び売っても怪しまれるだけだ」

 東野は眉間にしわを寄せて南の提案を却下した。

「過去問どおりじゃなかったら、そもそも範囲が多すぎてカンペすら作れないからね」


「あるいは、リスクを冒して巨大カンペを持ち込むか」

「そうなったら普通に覚えた方が早いぞ」

「あーあ、大澤先生が、実は大学の時にカンニングで進級したとかないかなぁ」

「あるよ」

 あっさり東野が頷いた。え、と三人の顔色が変わった。


「大澤先生は、前に飲み会で酔っぱらってカンニングで進級したって言ってた。でも、他の学年でカンニングを見つけたら容赦なく『逮捕』してた。単位剥奪まではしなかったらしいけどね。学生に愛情が無いわけではない」

「じゃあダメじゃん」

 がっくりと南が崩れ落ちる。


「ていうか、自分がカンニングで進級したなら他人のカンニングも寛容になれよ」

 北川の言っていることはある意味正しいのだが、あまりにもレベルの低い愚痴である。

「どうする? 大人しく勉強する?」

「それじゃ間に合わん」

 北川が悲しそうに首を振る。


「半分は勉強して、半分はカンペでいくとか?」

「靴の裏にでも書くか?」

「両足じゃ足りないよ」

「二年前は、わざわざ点字を覚えて机の中に巨大カンペを仕込んだ人もいるとか」

「むしろその方が安全な気がしてきた」


「点字を今から覚えて、時間内に使いこなせるか?」

「大澤先生は歩き回るからな……」

「どうせ答案を覗きまわるんだったら、答えを教えながら回ってほしいなぁ」

 南がぼやいた言葉に北川がはっと顔を上げた。


「そうか……」

「何?」

「大澤先生の背中にカンペを貼ればいいんだ」


「そうはならんやろ」

 まるで名案を思いついたかという口ぶりの北川に、素早く東野がツッコむ。


「バレるだろ」

「バレたとしても、誰がやったかはわからない」

 それはそうだ。リスクは低いと言えば低い。だがあまりにも荒唐無稽すぎる。


「どうやって貼るんだ?」

「椅子の背中に貼る。椅子は白いから大丈夫だ」

「大丈夫じゃないよ。椅子はさすがにバレる」

「じゃあ、先生が白衣を椅子の背もたれに掛けた時に貼ろう」


「…………」

 提案する方も提案を聞く方もバカすぎて、反論が急には思いつかない。

「白衣を着ずに歩いたら?」

「いや、先生はまず間違いなく白衣を着る」

 ここは大澤先生を詳しく知る東野が援護した。


「でもそんなの、チクられたら……」

「誰を罰するんだ? 学年全体、単位剥奪で留年させるのか?」

 それは無理だ。学年ぐるみでカンニングをしたならともかく、犯人がわからないからと言って全員を罰するわけにはいかない。


「だが、試験が終わった後にどうやって回収する?」

 もし剥がし損ねたら絶対に張り紙がバレる。犯人が誰とはバレなくても、大澤先生はめちゃくちゃに怒る。それは絶対に間違いない。


「その方がむしろ簡単だよ」

「なんでだよ」

「剥がすのに適任な人物がいるからだ」

「まさか……」


「お前だったら剥がせるじゃないか」

 満面の笑みの北川が、捨てる牌を持ちながらびしりと東野を指す。


「それポン」

 小西が北川の牌に指をさした。小西は北川の手から牌をかすめ取る。北川は空になった手でまた東野を指す。

「俺……?」

「あるいは、東野が気を引いてる間に、俺が回収してもいい」

「それだったら俺がやるけど」


「待ってよ、なんでこんなバカな案をやることになってるの」

 ずっと静かに聞いていた小西だったが、とうとう黙ってはいられなくなってきた。

「だって……」

「これしかないじゃん」


 三人の目がどこかおかしい。カンニングについて真剣に話していた時の目と違っている。いや、カンニングの話をしている時点で正気ではないのだが、その時とも更に異なっている。

「じゃあ、普通に勉強する?」

「いや、それは……」


 それも無理だ。


「決定ね。張り紙でいこう」

「ちょっと……」

「あ、海底ハイテイ、俺だ」

 小西が止めるより先に南が最後の牌に手を伸ばす。いつの間にか、誰も上がることなく麻雀は終わっていた。


「それで上がれそ?」

「うんにゃ」

 最終牌である海底牌を引いた南は首を振る。

「じゃあ流局ね。誰か聴牌テンパイいる?」

 北川と小西が無言で手牌を倒す。それを見た東野と南もまた無言で点棒を支払った。


「もういいんじゃない? 張り紙式で」

「うん、麻雀の方もキリがいいし、張り紙で行こう張り紙で」

「まあ全科目、どうやって乗り切るか決まったし、ちょうどいいから終わろう」

 牌をケースに片付けながら、北川は自分でうんうんと頷いた。

「まあ乗り切るというよりは……」

「バカな話で貴重な時間を無駄にしたような気がするけど」


「えー、それでは、令和元年度横浜大学薬学部薬学科三年次、後期試験の試験対策委員会を終了します。全員起立」

 文句が出る前に、北川はバカでかい終了の挨拶で誤魔化す。この号令が聞こえたら四名は自衛隊も顔負けの気を付けの姿勢を取るほかない。三人は、不満の混じる真剣な表情で対面トイメンの顔を見つめている。


「礼、解散」

「なお、今回の優勝者は北川です」

 大してめでたくもなさそうに、小西が拍手する。

「あー、やっと委員会終わったぁ」

「いや、本番はまだだぞ。心理学は勉強しなきゃいけないし、漢方も範囲を絞りに行かなきゃいけないし、そもそもカンペを作るのに手間もかかる。カンペに全部は書けないから、それなりに勉強しなきゃいけないしな」


 釘を刺す北川に、南は首を軽くすくめて答えた。

「ねえ、これ全部通ったらどうする?」

 携帯電話を冷蔵庫から取り出す小西が北川に声をかけてきた。

「……旅行にでも行くか」

「いいな」


 東野が鷹揚に頷いた。昨年までは再試験に追われ、大学に入ってからというもの、一度も旅行に行ったことがない。

「どこ行く?」


「京都か奈良」

「名古屋」

「俺はバイトがあるから、再試期間だと……二月の十七日と十八日かな」

「じゃあその日でいいよ」


 誰も反対する者はいない。

「間をとって伊勢に行こう」

 なんの間を取ったのか分からないが、東野の提案に反対意見はない。

「よし、伊勢だな。俺が車を出す」

 南が手を挙げる。

「じゃあ私が予約する」

 小西が親指を立てた。


「決定。全員が合格したら伊勢に行こう」

 北川がまとめとばかりに両手を挙げた。

「再試、何に引っかかったらヤバい?」

「細生も動態も再試は終わってる。十八日に再試がある薬学英語と、旅行の翌日に再試をやる心理学かな。二十日の二生もきついかもね。でも大丈夫でしょ。日本人なら誰でも取れる」


 小西が手帳でしっかりとリサーチし、早くもスマートフォンで旅館を探し始めた。

「よし、試験頑張ろう。そんで、伊勢に行こう」


* * *


 各自はそれなりに勉強し、カンペを作り、仕込み、前の人間の答案を(覗ければ)覗き、首尾よく試験を終えた。

 運命の細生の日。大澤先生の白衣の背中にカンペを貼ることに成功した北川は、何喰わぬ顔で座席に座る。試験が始まり、何も知らない学生たちが大澤先生の背中を見て「グフッ」という怪しい笑い声をあげるというトラブルはあったものの、大澤先生がその声の原因が自らの背中だと気づくこともなかった。


「大澤先生、答案をしっかり覗き込むとはいえ、それでもカンペを読むには時間が足りなさすぎるな……」

 作戦の致命的なミスを、北川は試験中こっそり反省。次に活かすつもりらしい。いやいや活かすなそんなもん。

「先生」


 なんとか試験は終わり、答案を回収して数を数えて鞄にしまった大澤先生に、細胞生態学教室の無能学生の筆頭である東野が声をかけた。

「今回の試験、難しかったですし、何とか温情を……」

 大教室を出て廊下を歩く大澤先生の半歩後ろを歩くふりをして、東野は背中に手を伸ばす。


「東野、どうだった?」

 大教室に戻ってきた東野は、返事の代わりにポケットから一枚の紙を取り出して見せる。勿論、回収したカンペだ。三人の顔がぱっと輝いた。

「伊勢神宮は、俺たちの庭だ」


* * *


「細生、意外と落ちなかったな」

 苦難に満ちた細胞生態学だったが、不合格者はわずか二十人ほど、普段ならこの人数でも落ちているはずの四人も、カンペと運の力により全員が合格した。四人はまた、北川の家で麻雀にいそしんでいた。小西は合間合間に伊勢の観光ガイドを開き、ところどころにマルをつけている。


「なんか、十五人も留年させたら上から怒られるんだって。だから大澤先生の一存じゃあまり落とせないんだよ」

 試験の前に知りたかった情報を東野は語った。大澤先生に試験の具合を探った際に教えてもらったことである。

 細生の他にも試験は続々と結果が発表されていき、ある者は喜び、あるものは涙した。そして。


『薬学英語の結果が出たので写真載せます』

 誰かが掲示板に貼られた試験の結果をLINEで送ってきた。


薬学英語B 不合格者

16D0083


 落ちない試験のはずだった。実際、ほとんど落ちていない。

「南、お前の番号だな?」

 北川の部屋で南が正座で詰め寄られている。

「言ってるじゃん、前がバカなんだって」


 南は顔を真っ赤にして反抗したが、声は心なしか小さい。横では小西が一つため息をついて旅館のキャンセルを行なっている。

「自由席の英語で落ちてるのはなんでだよ」

「自由席でも前に座ったのがバカだったんだよ」


「テメェが一番のバカだ」

 南の言い訳を東野がバッサリ切り捨てた。

「なんで俺がバカなんだよ。動態も細生も通っただろ」

「よりによって、再試の日が旅行とモロ被りしてる薬学英語落ちるかね?」

「日本人なら誰でも通る試験なんだけど」

「日本人辞めちまえ!」

「お前、カンニングして不合格ってどういうことだよーッ」


 北川の咆哮が彼の部屋に響く。

 カンニング、それは甘い誘惑にして、茨の道。それを一度でも選択し、十字架を背負った者たちに、旅行という幸せは決して訪れない運命なのである。

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