愛雨
まぐのりあ
愛雨
部屋の扉を開けると、父の亡骸が布団に横たわっている。私が傍に座り父に触れてみると、固くなり始めた父の体は私を拒否しているように思えた。外では親戚がまるでお祭り騒ぎのように通夜の準備に励んでいて、いつもは二人きりだった父と私の家が賑やかになった。知らない親戚がたくさんいる。かわいそうに。二人きりの…裕子ちゃんは高校入ったばっかりなのに…なんて私を憐れむ声も良く聞こえる。外の喧噪が嘘のようなこの部屋で、父の最期の言葉を思い出す。
「大丈夫だから」
何が?何が大丈夫なの?一人で生きる術を知らない私を残して死んで何が大丈夫なの。怒りがこみ上げて来て父の肩のあたりを思いっきり叩いた。やっぱり硬くて、もう命がないことを思い知らされただけだった。
私は雨が大嫌い。
雨の声が聞こえてしまうから。両親には力はなかったと思う。母は私を生んですぐ亡くなってしまったけれど。私が異変に気づいたのは幼稚園の時、雨になるとたくさんの人の話し声が聞こえる。私の悪口。外に出ても雨粒が顔に叩きつけられるだけで人の影はなかった。だけど、聞こえる。自分のすぐ傍から。いつも雨はいう。
「母さんはおまえのせいで死んだんだよ」
「父さんもおまえ好きじゃないって」
何千何万の悪口が聞こえる。雨音がはっきり聞こえる限り何時間でも悪口は続くのだ。私は徐々に雨の日に外に出なくなった。中学生になると雨の数時間前には上空に待機している雨たちの囁く声が聞こえるようになった。しかし学校をそうそう休む訳にもいかず、雨の日には耳栓をして学校に通い、時には泣きながらぐったりと帰ってくる私を父はいつも叱った。学校へは行くんだ。父には私の力は伝えられなかった。
父の死で敏感になっている私はいつも以上に雨の予感を感じていた。ザワザワと心が揺らぎ、上からざわめきが聞こえる。私の心を突き刺す凶器がもうすぐ上から降ってくる。
通夜が済み来客が皆ひけると私と、何かと良くしてくれていた叔母さんの二人になった。
「裕子ちゃんはもう寝なさい。明日は告別式だし、ろうそくは私が見ているから。」
と言われたものの自分の部屋に帰る気にはならなくて父の傍で眠った。不安か怒りか、父が死んでから一粒も涙は出ていなかった。
告別式の早朝、雨戸の向こうからざわめきが聞こえた。目を覚ますとやはり雨が降っているようだ。分厚い雨戸のせいで、雨達が何をいっているかは聞こえないが、どうせ私を否定しているのだろう。聞きたくない。外に出たくない。どんなに私は雨に耐えられる自信がなかった。外に出たくない。
私が体を起こす音で気づいたのか部屋の雨戸をあける途中だった叔母さんが振り向いた。
「あら、裕子ちゃん起こしちゃった?」
嫌だ。開けないで。やっぱり駄目。
「叔母さん私体調が悪い。やっぱり今日の告別式…」
ガラガラという雨戸の音で聞こえなかったのか、え。なあに?と私を振り向く。開けられた窓から雨達の声。私を否定する声…私は耳を疑った。昨日から着っぱなしのセーラー服が濡れるのも構わず外に飛び出した。
「大丈夫だよ」
雨粒が言っている。いつも通りの悪口の中に聞こえる、大丈夫だよ。父だ。分かってくれていた。父が死んで初めて涙が頬を伝った。雨と混じり合って、こっちの世界の私とあっちの世界の父が結びついたみたいだった。告別式中雨は降ったが、私は嫌じゃなかった。
父の死から一年。雨達はやっぱり私を否定するけど雨粒達の中の何粒かは言う。
「大丈夫だよ」
私は雨が好きになった。父の言葉や声が聞こえる。父が最後に私にくれた贈り物、あめ(愛雨)。
私は大丈夫。
愛雨 まぐのりあ @magnolia81
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