ハナオクリ

かぷっと

第1話


「花って、どうして綺麗なんだろう」


知っているかい?と柔らかく笑うその顔が、ずっとずっと好きだった。堪らなく、好きだったんだ。



無機質な消毒液の匂い。コツコツと足音を響かせるリノリウムの床。どこまで行っても続く白い壁。それが研修医である僕の仕事場だ。朝の回診のため、今日も病室を渡り歩いていく。


「おはようございます、宮原さん。朝の回診に来ました」


真っ白な引き戸。軽いノックを3回。


「どうぞ」


間延びした返事を聞き、戸をゆっくり開ける。


「やぁ。おはよう、志麻くん。朝からご苦労だね」


生白く薄い頬を緩ませ、彼女は微笑む。


「いえ、これが僕の仕事ですから」


「おぉ、なかなか生意気な事を言うようになったものだ。君はまだ研修じゃないか」


「あはは、それもそうですね」


いつものように体温を測り、点滴を新しいものに入れ替える。ゆったりと開かれた手のひらに、朝の薬を5、6錠渡す。体温計は37.5℃を表示して

いた。


「微熱、続いてますね」


「君が来る前からだよ」


「……どうして、僕に病名を教えてくれないんですか」


「君は、ただの研修医だろう?」


淡泊な返事を返しながら、宮原さんは日課である花の水遣りをしている。こぼれ落ちる水滴は、その白いシルクナイトキャップのような花弁を滑り、植木鉢の土に染み込む。


「それ、スズランですか?」


「そうだよ。なかなか可愛いだろう?贈り物なんだ」


「……鉢植えは色々とよくないので、あんまり近くに置かない方がいいですよ」


「あはは、そんなの今更だろう」


蒼白く、痩せた指がその花を弄ぶ。その指先には金色の花粉が、毒蛾の鱗粉のように纏わりついていた。


「もうじき、私は死ぬんだから」


そう。ここは終末期患者に最期のケアを施す施設、ホスピスだ。



今日も今日とて回診に行く。


「こんにちは、宮原さん。お昼の回診です」


「どうぞ」


いつも通り戸を引くと、宮原さんは白いベットの中で新しい鉢植えを抱えていた。


「見てご覧、志麻くん。水仙だよ」


些か興奮した様子で水仙を撫で続ける宮原さん。こんこん、と時折咳をしながら優しく花弁を撫ぜている。鼻を突き抜けるような甘やかな香りが、部屋いっぱいに広がった。


「贈り物ですか?」


「そうなんだ。スズランもだよ。大切な人からなんだ」


頬を上気させ、窓辺のスズランの横に鉢植えを並べる。鉢植えは衛生面もだが、病が「根付く」

といけないからと、あまりお見舞いの贈り物には良いものとされない。随分と非常識な人だと、僕は八つ当たり的に憤った。


「随分と素敵な人なんですね」


「なんだい、君。嫉妬かな?」


「そんなんじゃ、ないですけど」


にやにやと笑いながら、宮原さんは柔らかそうな胡桃色の髪を指で弄んでいる。その手の薬指は第一関節あたりで途切れており、付け根には小さな指輪が嵌っていた。


「それ、」


「ん?どうしたんだい?」


少しの逡巡の末、やはり尋ねることはやめた。


「いや、なんでもないです」


「なんだい?志麻くん。思春期かな?」


やっぱり僕は意気地無しだ。



薄暗く、果てしなく続く廊下をゆっくり進んでいく。今日も、あの病室に向って。


「こんばんは。夜の回診に来ました」


少し間があった後、小さく返事が返ってきた。


「どうぞ」


ある種予感のような、自分でもよくわからない不安感を抱え、恐る恐る戸を引く。するといつものように、また新しい鉢植えを抱えていた。


「また、贈られてきたんだ。紫陽花だよ」


宮原さんは顔を花にうずめるように、頬を擦り寄せている。目が痛いほどに鮮やかな濃紫。


「お花、ばかりですね。お見舞いには来られないのですか?」


「……彼は、こんなに綺麗なお花を贈ってくれる。それで充分だよ」


彼女は恭しい手つきで、鉢植えを窓辺に並べた。ごほごほと噎せるような咳が、部屋に響く。だんだん酷くなっているようだ。


「私を、憐れに思っている?」


「まさかそんな。どうしてそんなこと言うんです」


「君が、可哀想なものを見るような目をしているからだよ」


二度とそんな目で見ないでくれ、と吐き捨てるような声に、僕はただ胸を痛めるしかできなかった。



それからも宮原さんの花は増えていった。飾り気のない窓を覆い隠すように。外の世界を遮るように。色鮮やかな鉢植えは、じわじわと数を増やしていった。



夜も遅く、病棟の仮眠室でうとうとしている僕の携帯電話が突然着メロを奏で始めた。

初めは安らかな眠りを妨げられた苛立ちから無視を決め込んでいた。しかし、霞がかった頭の片隅でけたたましく警鐘がなり響いているのだ。この電話は、今取らなければならない。

ひとまず、表示画面を確認する。



宮原千草。

液晶に表示された、その名前。



「やぁ、来ないかと思ったよ」


挨拶も忘れて病室に飛び込むと、彼女はいつも通り、そんな笑顔で笑っていた。それでも、彼女の部屋の異常さを誤魔化しきるにはいたらなかった。白く無個性な病室を覆いくす、毒々しいまでの色彩。籠るような甘ったるい匂いは、鼻にこびりつくかのようにひどく濃厚で。


「先ほど、彼がここに訪ねてきてね」


ここに来てから初めてのことだよ、と苦々しくいう口ぶりに反し、その頬は紅潮し、喜色に溢れていた。

興奮しているのか、今にも折れそうな薄い肩を大きく上下させている。病院服から覗いた棒っきれのような腿には、古い傷跡が稲妻のように走っている。大丈夫だろうかと不安になったその矢先、呻き声をあげ彼女は胸を抑えた。耐えきれなくなったように吐き出される咳。抑えた手には、粘性の高い赤い液体。つぶ粒と泡立って柘榴の果肉を思わせる。喀血か。


「落ち着いてください。体に障ります。今、先生を呼んできますから」


「そんなこと、どうでもいい」


僕の声なんてまるで聞こえていないような、うっとりとした顔。そんな彼女をみていると、なんだか無性に胸がざわついた。そんな僕などお構いなしに、彼女は備え付けのサイドテーブルから新たな鉢植えを持ち上げる。


「宮原さん、それ……」


「新たな贈り物だ。エンゼルトランペット。別名、チョウセンアサガオ」


毒々しいまでに鮮やかな黄色、それを慈しむように肉の落ちた胸に抱き寄せる。その姿はまるで、赤子を抱いた母の様で、楚々とした美しさまで感じるほどであった。


「チョウセンアサガオ、ですか」


また、まただ。ここまでくれば偶然では片付けられることではない。


「宮原さん、実は」


口にしようとして、舌が絡まる。喉に、言葉が詰まる。本当に告げるべきなのか?恋人の愛を信じて、こんなにも喜んでいる彼女に?


「実は、その花は」


「この花、毒があるんだってね」


僕の言葉を遮ったあなたは、それでも恍惚と、婀娜めいた笑みを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハナオクリ かぷっと @mojikaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ