大瞑堂のある街
loki
第一章 新しい生活
瞑暦九六〇年――。
街に着いてしばらくしてから、私はそらで目的地に辿り着くことを諦めて再び地図を広げた。
記憶力にも注意力にもそれなりに自信があるほうなのだが、どういうわけか道を正しく歩くことに関しては昔からあまり得意ではない。確信をもって曲がる道の幾つかがどうやらまるで的を外しているようで、頑張れば頑張るほどどつぼに嵌ってまったく違うところへ行ってしまうことがしばしばある。
今回もそうなってしまったようだ。全部で三カ所しか曲がる箇所は無かったはずの道のりなので、つい楽観してしまったのだが――さてここはどこなのか。
迷うことには慣れているので、特に慌てることもなくいつものように道の形状と近くにある建物から現在位置の確認を試みる。
それでわからなければ近くを通りかかった人物に尋ねるという最終手段に出るわけだが、生来の人見知りなのでそれは本当に最終手段として温存することにしている。
地図は街に入ったときに無料で受け取ったものだ。
それをもともと持っていた地図――比較するとかなり雑な作りなので、即座に新しいほうに乗り換えることにした――と照らし合わせて、目的地を割り出して鉛筆で印をつけた。
訪れた人すべてに地図を配る習慣のある街というのは、私の知る限りはここくらいのものだ。
ここは我らが教義の聖地であるわけだが、聖地というところは巡礼に訪れる者と観光に訪れる者が一年中絶え間なく出入りするものだ。
そのすべての人々に地図を手渡すのは、一つには観光に力を入れているということがあるだろうが、もう一つは教えによるところが大きいだろう。
我々はどちらかといえば布教というものを好まない。その代わり、縁のあった者達に親しまれる、愛されることに全力を尽くす。昔からそういうやり方で続いているのだ。
しかしその親しみと愛も、方向音痴には上手く届かないこともある。
それなりに敬虔な信者であることを自負しているだけに、受け取った大事なものを踏みにじってしまったようで少々気持ちが暗い。
こんなことなら、お上りさんと思われることを変に意識したりせず、ずっと地図を広げたまま歩き続けるべきだった。何というか、「私は一時の来訪者ではない」という意識が変な所へ行ってしまっていたようだ。
私は自らの不徳のしるしと化した地図をあれこれと回しながら、辺りの佇まいを何とか手元のそれに落とし込もうとした。
しかしいったい知らぬ間にどこをどう歩いたものか、二つの要素はなかなか一致しない。この街の道の伸び方はどこもとても似通っていて、特徴というものを捉えにくいのだ。
これはいよいよ、誰かに尋ねるしかないか。もうそろそろ日も暮れそうだし――そう思ったときだった。
「道に迷ったのですか?」
ふいに横から声がした。自分に向けられたものだということはすぐにわかり、私は少しびくっとして声のするほうへ振り向いた。
背が高くて髪の短い、若い男の人が立っていた。柔らかい微笑みを浮かべながら近づいてくる。
「あっ……はい、実はそうなんです」私はとっさに答えた。
「もしよければ目的地まで案内しましょうか――ああ、そうそう」と気づいたように男の人は言い、胸の記章を手で添えるようにして私に示す。「怪しい者じゃありません。俺はこの街の衛士をやっている者です。実際のところ道案内なんかもお勤めのうちでして」
その記章は知っている。この街には衛士と呼ばれる治安維持を任務とする人達がいて、昼夜を問わず街を巡回しているという。
時には街の人々の世話を焼き、時には狼藉者を武力で捕獲する、頼もしく慕われる存在であると聞いている。この人もその一人なのか。
「恥ずかしながら……途中からその、居場所がわからなくなってしまいまして」
私はいくぶん小さな声で言い、従前から念仏のように唱え続け、万全であったはずの目的地を口にした。
「ああ、そこですね。わかりました、案内しましょう……ただ、ちょっとだけ待ってて下さいね」と衛士さんは言った。「連れがいまして、いま来るのを待っているところだったんです」
「え……あの、もし何がご用事の最中だったのでしたら、その」
「いえいえ、それは大丈夫です。散歩してたようなものですから――」衛士さんは言い、今までいた露店のような所を眺め、やがて独り言のように言った。「あ、来た来た」
一人の小さな少女がこちらに向かって歩いてきた。
背丈や顔つきから推察するなら、年の頃は私より四、五歳下――十を少し越えたくらいといったところだろうか。
でも通常思い浮かべるその年頃の少女とは少し違うものがその姿にはあった。
白い慎ましい服の長い裾を軽く翻して歩くその仕草が、幼い容貌と幾分、いやだいぶかけ離れているように感じられたのだ。
「ずいぶん話し込んでましたね」と衛士さんが少女に言った。やけに丁寧な言い方だった。
「いろいろ悩んでおられたようなので」と少女が答える。
それから少女は私のすぐ近くまでやって来て、私の顔をじっと見つめた。
そのとき初めて、少女の瞳が金色に輝いていることに気づいた。
金色の瞳というものが実際にあるということを、私はこのときまで知らなかった。その瞳の輝きに視線が吸い込まれてしまったかのように、私もしばらく少女をじっと見続けていた。
「……道案内ですね?」と静かに少女は言った。両手に地図を持って馬鹿みたいに突っ立っている私を見て、状況はすぐにわかったのだろう。
「え、あ」と私は視線を反らせないまま答えた。「はい」
少女は衛士さんのほうを向いて短く言った。
「では、行きましょうか」
「了解」と衛士さんは受け、それから私を見て言った。「ほんの十分かそこらですよ。じゃあ行きましょう」
衛士さんと少女がほぼ同時に歩き出す。見えない糸で引っ張られるみたいに、私は地図を畳んでからそのすぐ後ろをとぼとぼと付いて行く。
不思議な組み合わせだな、と思った。若い衛士さんと、金色の瞳の小さな少女。
兄妹……ではないだろう。さして似てもいないし、兄と妹があんなよそよそしい言葉で――特に兄が妹に対して――会話をするというのも奇妙な話だ。
とすると、たとえばこの少女がどこかのやんごとなき身分の家柄の娘さんで、衛士さんが彼女の散策に護衛として付いたとか、そういうことなのだろうか。
しかしそれにしては、単なる一人の迷い人のためにそれを当たり前のように止めてしまうというのも不自然な気がする。
いずれにしてもいい加減な想像の域を出ない。
「お嬢さんは――」と衛士さんが振り返って私に言った。「巡礼ですか? それとも観光の方?」
「いえ……どちらでもありません」
信徒ではありますが巡礼ではないです、と付け加えた。
「へえ、とすると、仕事を探しに来たのかな」
「そうですね。就けるかどうかはわからないんですけど」
「大丈夫ですよ、仕事の口ならそれなりにあります」
「いえ、そうではなくて――」私は慎重に響きを選んで言った。「目指している仕事がありまして」
「目指している仕事」と衛士さんは繰り返した。「差し支えなければ教えていただけますか?」
「……思念士です」
衛士さんの歩みがぴたりと止まった。そして何かを確かめるように、あるいは何かを問いただすように、少女のほうを見る。
少女は足を止める以外、衛士さんのその様子には応えずに、通りの向こうの人々を眺めていた。
「思念士、それは凄いなぁ、その歳で目指すなんて」と衛士さんは言った。「って、まだ歳を聞いてませんでしたけど、お若いですよね?」
「十五です」
「若い。一発で受かったらたぶん最年少記録だ」
「まぁ、一度で受かるのは……正直、厳しいなと覚悟してますけど。何年かかっても受かるつもりでいます」
「じゃあ、何年か滞在して勉強の虫になるのも覚悟の上なわけですね」衛士さんは目を閉じて、何かに感心するように頷く。「無事に受かったら、この街で仕事を? それとも地元に戻るか、あるいはどこか別の場所で――」
「正直迷ってる最中です」と私は少しためらいがちに言った。「今は受かるかどうかのところで精一杯で、後のことは……。人によっては、先のことをきちんと見据えて挑まなければ到底受かることなどできない、と言うんですけど、私にはまだ……」
「いいんじゃないですかね、それで」
「……そうでしょうか」
「あれを考えていたからできたとか、あれを考えていなかったからできなかったとか、そういうのは多くの場合、後付けですよ。試験は試験のことができるかどうかで決まる、ただそれだけだと思いますよ。俺が衛士になったときだってそうだった。そんなにご大層な目標を持ってなったわけじゃない。その一方で、凄く何というか――気高い意識を持っていた奴が、合格できずに衛士の道を断念しましたよ。そういうものだと思います」
「あなたの場合は考えなさすぎですよ」少女が衛士さんを軽く咎めるように言った。「お役目はきちんとこなしているようですから、それは結構ですが」
「お仕事は頑張ってますよー」と衛士さんは笑う。
少女は私のほうを向いて言った。「一度で通るにせよ何年かかるにせよ、長丁場なのは間違いありませんから、あまり気を張りすぎないことです。お勉強に励むのは当然としても、まずは街に慣れること、そして毎日よく眠ること」
「そうですね。心がけます」私は応えた。いつの間にか私も彼女に対して言葉遣いが堅くなっている。でもそれがあるべき形であるかのようにしっくりくるのだ。
少女はにっこり笑って、それから再び歩き出した。衛士さんと、そして私がそれに続く。
いつの間にか人並みに会話ができている自分に気づいた。初めて会った人達とこんなに話し込むのは私には初めてのことだ。
この二人にはそうさせる何かがあった。
こういうのを相性が良いというのだろうか。もちろん二人とも、右も左もわからない私に気を遣ってくれているのだろうから、そこは差し引いて考えるべきなのだろうけれども。
でもおかげで、幸先は悪くないかもしれないと思えた。
もし無事に思念士となることができたとしたら、私はそれから先、無数の初対面の人間と出会い、彼らの人生の奥深くまで潜っていかなければならなくなるのだ。
いつまでも人見知りなどと言っていられないことはよくわかっている。そこにも修行が必要なのだ。
それからしばらく歩いていった先に、目的の建物――私が今日から暮らす下宿舎があった。
説明されていたように、なかなか古びているというか、歴史を感じる建物ではあったが、さすがこの街にあるだけあって、品の悪さのようなものは感じない。
「悪くない選択だと思いますよ」と衛士さんは言った。「女の子が一人で暮らすのにも、そんなに不安は無い」
「故郷で紹介された所なんです。住む場所と、当面の仕事先と」
「つてがあった?」
「いえ、故郷で予備試験があって、それで……」
「ああなるほど、あなたは予備特待生なんですね。それは前途有望だ」衛士さんは何故かとても嬉しそうに言い、一瞬だけ少女のほうにちらりを目をやった。「是非一発でサッと通っちゃってくださいよ」
私はちょっと困って軽く頭を掻きながら微笑んだ。「頑張りたいです」
「仕事先のほうは大丈夫ですか? 辿り着けそうですかね。一度一緒に行ってあげたほうがいいかな」
「大丈夫です。街に慣れるまでは、もう二度と地図無しで歩いたりしませんから」言いながら私は折り畳まれた地図を掲げる。「仕事場へは明日、自力で行って見せます。大瞑堂へも礼拝と特待生登録に行かなくてはいけませんし」
「――そのことなのですが」と少女は少し笑いながら言った。「そういう予定なのであれば、初めからまず大瞑堂を目指せばよかったですね。よもやあそこの二つの塔が見えないということはあり得ませんから必ず行き着けますし、それから改めて地図を見ながらここへ来ればよかった。礼拝も登録もぎりぎりで間に合ったかもしれませんし」
「あ……」
私は今更その事実に気づいて、夕暮れの空をぐるりと見渡した。
そしてその一ヶ所に、二つの天を突くようにそびえる塔があることを確認した。あれが大瞑堂の二つの塔――理性の塔と感性の塔か。
「まぁその大きな荷物を持って、かなり余計に歩くことにはなったでしょうが」
「……わかっててここまで付いてきたんですか?」衛士さんが呆れたように少女に言う。「思念士志望と聞いた時点でその発想が無かった俺も俺ですけど」
「せっかくお話していたわけですから」少女はさらりと受け流した。「しかし今後の暮らしでもし何かあったら、大瞑堂を目印にするというのはありですよ。覚えておくといいです」
「……わかりました」
何だか恥ずかしい。
「では、我々は行くとしましょうか」と少女は衛士さんに言った。
「そうですね。……じゃあお嬢さん、またいずれ」
「はい。あの、今日は本当にどうもありがとうございました」
私は右手を左胸に当てた。私達の教えではこれが相手に感謝の気持ちを示すときの格好だ。
すると少女が近づいてきて、またしても私の顔をじっと見つめた。
金色の瞳に近くから覗き込まれることは、やはりとても不思議な印象を受ける。何か特別なものに選定されて、自分という存在を隅々まで推し量られているような感覚。でも不快ではない。
「またすぐ会えますよ」と少女は言った。「この街は広くて狭いんです」
◆
下宿舎の主はとても気さくな恰幅の良い中年の女性で、うるさいくらいの笑い声と共に私を迎えてくれた。
「話は聞いてるよぉ」と女主人は言い、幼い我が子にそうするように私の頭を撫でた。「思念士の予備特待生だってねぇ。応援してるから、勉強頑張るんだよ」
「はい」と私は頭を揺らされながら応えた。「頑張ります」
「奨学金を貰えるんだろ? 仕事はどれくらいのペースでやるんだい?」
「月の半分くらいです。食堂の雑用です」
私は仕事先の店の名前を告げ、地図を広げてその位置を尋ねた。
ああそれなら、と女主人は二本の指を差し出す。
「ここが現在地だよね――」と人差し指で私が印をつけた一点を指し、それから中指を少し離れた別の場所に当てた。「で、その店がここね」
「ありがとうございます。あ、それから」と私はさらに付け加えた。「図書館は、この大きな建物でいいんでしょうか?」
「それは歌劇場。小さく書いてあるだろう? 図書館はこっち」
女主人は私の指さしたのとはまったく違う場所に指を当てた。ここからも仕事場からも結構離れている。
「ありがとうございます」
私は礼を言いながら、新たに教わった二ヶ所に同じように印をつけた。これから私は当分の間、この三つの点が結ぶ三角形の中を主戦場にして生活するのだ。
「まぁ、まずは荷物を置いて落ち着こうよ。部屋に案内するよ」
女主人は私を連れて、三階のとある一角まで私を連れて行った。
少々角度の急な階段を、大きな荷物をもってよろよろと登る私に、彼女は何度か大丈夫かい気をつけなよと声をかけてくれ、最後には「持とうか?」と申し出てきた。
「いえ、だ、大丈夫、です」
私は頑として自力で登ることを選んだ。新たに自分の根城となる部屋まで自力で辿り着けないことには、今後どこへも辿り着けないような気がしたのだ。落ち着いて考えれば、ここへ着くまでにしっかり道案内されておいて今さら自力も何もなかったのだが。
そうして辿り着いた私の部屋は、質素ながらも隅々までとても綺麗に掃除され、ベッドや家具も一通り整えられた、とても好感の持てる空間だった。
一人で勉強して暮らすのに、これ以上のものは何も必要ない。あまりこの街の土地の相場のことに詳しくはなかったが、事前に提示された値段と比べても、妥当という以上のことが言える部屋だと思う。
「いいお部屋ですね」と私は思ったままを口にした。
「気に入ってくれたなら嬉しいね」
女主人はからからと笑い、私の肩をぽんぽんと叩いた。普段から相手との距離の近い人なのだろう。
「あの――」私は女主人に振り返った。「これからお世話になります。よろしくお願いします」
「はいよ。よろしく」女主人はにこにこして言った。「今夜の夕食、よかったら一緒にどうだい? 家族も紹介したいしさ」
「あ……」私は一瞬躊躇する。他人と食事を取ることが純粋に苦手だったからだ。でも女主人のあまりの笑顔に、選択肢は残されていないように思われ、気が付くと私の口は事務的に承諾していた。「……もしよろしいのであれば、ご厚意に甘えさせていただきます」
「うん。じゃあ、また後で呼びに来るからね」
そう言い残して、女主人は階段を下りていった。
部屋に入って戸を締め、荷物を部屋のど真ん中にとりあえず放置して、私はベッドに体を横たえる。そのまま思いっきり伸びをする。ベッドは十分に大きく、拳の先までしっかり私を包み込んでくれる。
見慣れない天井の木目を眺めていると、とうとう来たんだなぁ、という思いが改めて心の奥底から湧いてきた。
いろいろあったけれども、それらはいったんすべて忘れて、新しい生活に馴染まなければならない。
私には確固たる目標があり、幸いにしてそのための道もすでに先人達によって舗装されている。ここでがむしゃらに突き進まないでいつ突き進むのか。私は自分の人生をこの機会に大きく変えるのだ。
――いや、忘れるというのは違うな。
私は胸の首飾りを服の上から確かめる。
どんな過去でも、それはいまへと繋がった過去だ。すべてを糧として受け止めつつ前へ進まなければならない。いつかは薄れていく記憶であっても、自分から蓋をしてしまう必要はない。私は私を支えてくれたすべてのもののためにも、走らなくてはならないのだろう。
みんなのために。
しばらくそのままぼうっとしていたら何だか眠くなってきたので、私はむくりと体を起こした。女主人に夕食に招かれているが、その前に荷物を整理してしまう必要がある。
私は古く汚れた車輪のついた、図体のでかい荷袋を眺めた。
中には教典や試験のための本が何冊かと、使い慣れた日用品の数々、それから直接には役に立たないであろう人形や、部屋に備え付けられているであろうから不要と思われた時計なども入っている。
後半の物達は、悩んだ末にあえて持ってきたものだ。少しでも故郷の自分の部屋の残り香のあるものを運び込むことが、少しでも早く新しい部屋に馴染む助けになると思ったからだ。
そうだ、そういう意味でも、すべてを忘れて新しい生活をするわけではないのだと言える。
やはりちょっと気負いすぎているのかな、と苦笑しながら私は立ち上がった。
「さて」と私は独り言を言う。
さて、お呼ばれするまでにできる限りのものを部屋に並べてしまおう。そして夕食の席ではできる限り頑張って愛想良く振る舞おう。
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