蝉の声 夕方の風

きよ

第1話

 蝉の鳴き声がする。

 じわじわと迫ってくる暑さが空気を焦がし、周りの景色を揺るがし、サウナの中にいるような感覚が僕の平行バランスを崩そうとしている。

もう夏なんだなぁとボールを追いかけながら思った。去年のこの時期はまだ雨が降っていたのに。これがメディアを騒がしている地球温暖化なのだろうか。


 僕は勉強が苦手だ。

テスト前に徹夜で必死にワークを解いても平均点ギリギリしか取れない。でも、勉強を全くしなくても平均点ギリギリしか取れない。だから最近は自分に言い訳をして遊んでしまっている。

運動はできないわけではないが、体育祭などの行事で活躍するほどでもない。

 でも、サッカー、サッカーだけは得意だ。これしか僕には取り柄がないと言ってもいいかもしれない。


 ピーーー。

 監督の合図で今まで走っていた脚を止める。

 汗がどっと流れてきた。熱気が体にまとわりついて気持ち悪い。

 やっと終わった。疲労感が暑さと戦ってきた僕を支配していく。日陰になっている木の下に腰を下ろしてスポーツドリンクを飲んだ。


 自分で言うのもあれだけど、僕はなかなか人に好かれるような人間だと思う。…なんか照れるなぁ。友達は多いほうだと思うし、暇な時は友達とゲームをしているか、サッカーをしているかのどちらかだ。一人の時間は夜くらい。でも最近はたまに誘いを断り、意識して一人で本も少し読むようにしている。言うまでもなく、あの子の影響だ。

 あの子とは中学が一緒だった。同じクラスになったのは最後の一年だけだったが。正直言って、それまでは名前も知らず、遠くから彼女を見ながら「二組にあの子がいる」とほんの少しどこかで気になっていたくらいだった。

 三年生になった初日、席が近かったのでさっそく何気なく話しかけてみた。近くで見てもやっぱり僕好みの可愛い子だった。始めは仲良くなれたらいいかなぁぐらいにしか思ってなかったのだが、話してみると、あれ?と思った。

 初めて話したはずなのに、なぜか小さい頃からの友達のような手応えを感じたからだ。今までの緩い付き合い程度の友達とはまた違う不思議な感じでもあったし、前にも感じたことのあるような感じでもあった。なんて言うか、兄弟に接する感じ。いや、親友とか幼なじみに接している感じかな。とにかく、語彙力が崩壊寸前の僕には言葉にはしずらい感覚だった。それは誰かを好きになる気持ちに似ていたけど、ちょっと違った。

 僕が見る限り彼女はいつも一人で本を読んでいたけど、無口でも陰気でもなかった。彼女の話す内容は僕からはずっと遠い世界のものだったから新鮮で面白かったし、話の流れがすごくスムーズで分かりやすかった。なにより僕の遊び仲間より話してて楽しい。明るく、心が広い彼女と話すときは相手の顔色を伺う必要がないので、いつもリラックスできた。そしてその感覚が僕の心をくすぐったのだと思う。

 ずっと彼女と話していたかったけど、僕はしょっちゅう男子に遊びに誘われたり、女子に延々と続く話を聞かされたりしたのでそれは難しかった。そういう時は周りを放っておきたい衝動に駆られた。だからようやく一人になれた時はその機会を大切にした。

 でも、せっかく一人になれても、彼女が静かに本を読んでいることがあった。そんな時は極力話しかけないようにした。なぜか、彼女の世界を壊したくなかったのだ。彼女が本について話す時のキラキラした綺麗な目は簡単に忘れられるような種類のものではない。彼女の瞳は僕をそのまま吸い込んでしまいそうなほどに澄んでいて、僕を惹きつけて止まない何かがあった。その目の輝きを次も見たいから、むやみに邪魔をして彼女の楽しみを奪いたくはなかった。

 ずっと座っているにも関わらず、彼女は女子の中でも運動神経が良い方だった。五十メートル走は七秒台前半だし、一キロも三分四十秒台、立ち幅跳びに至っては二メートルを余裕で跳ぶ。頭も良く、テストは毎回十位以内に食い込んでいた。まさに文武両道少女だ。…僕にはつり合わないって?知ってたけど君、ちょっと黙ろうか。

 お互い別々の高校に入り、当然の成り行きで僕らは話す機会がなくなった。僕の学力が彼女の目指していた高校の足元にも及ばなかったのだ。その代わり、高校で、彼女と同じく読書好きなサッカー部の先輩に出会った。

 高校に入ってから暫くは毎日暇さえあればスマホの画面と文字通りにらめっこをした。何度もスマホを取り出しては彼女と話したいと思った。メールのやり取りでもいい。とにかく話したい。でもその勇気が出なかった。他の人には簡単に連絡できるのに。

 もし彼女が僕のことを友達だと思ってなかったら?彼女が変わってしまっていたら?彼女に鬱陶しい奴だと思われたら?最悪な状況を思い浮かべるだけで心が折れそうになる。

 お前男だろ。男ならしっかりしろよ。自分が情けなくないのかよ。そう自分に発破をかけても無駄だった。どうしても発信ボタンを押すことはできなかった。手が肝心なところで動かなくなってしまう。やっぱり僕は彼女の今を知るのが怖いのだ。


「大丈夫か?」

 誰かの声で一気に現実へ引き戻された。また彼女のことを考えてしまっていたようだ。

「中学卒業してからお前何考えるようになったんだ?」

 目の前には中学の頃からのチームメイトの顔。

「世界平和と宇宙開発の関連性についての考察。」

「俺も最近、国際情勢の危機について考えるようになったぜ。」

 笑い合う同級生と僕。

 微妙な空気が二人の間に流れる。

「で、本当は?」

 相手が先に切り出した。

「別に。」

 これでも思春期の男子だ。女友達のことを考えてたなんて恥ずかしくて気軽に言える訳がない。

「素っ気ないな。好きな人でも出来たんだろ。」

「なわけ。」

「冗談だよ。本気にすんなって。」

 少し笑って見せると、彼も笑い返してきた。が、急に真面目な顔になって言った。

「あいつだろ?」

 そして、にやける。

「あいつ?」

 すっとぼける僕。

「中学ん時お前と仲良かったずっと本読んでた奴。」

「……。」

 ばれてたのか。

「誰かのことを考えるなんて、お前も人間だったんだな。感動しちゃうぜ。あ、これ本当にそう思ってるから。前からサッカーだけはバケモンみたいに上手くて、クラスのムードメーカーで、でもサッカーのことしか頭になくて、成績がなかなか伸びないのにちっとも悩んでないお前でも…」

「ちょっと待て。」

 僕は慌てて彼の言葉を遮った。

「褒められてるのかけなされてるのかよく分かんないんですけど。」

「褒めてるに決まってんじゃん。」

 即答しなくても。あとどうでもいいけどなんだその表情は。本当は酸っぱいのに甘いって無理して言ってるみたいだ。隣を見ると、例の先輩がこちらから顔を背けて肩を震わせていた。この人はびっくりするくらいツボが浅い。

「笑い、堪えなくていいですよ先輩。」

 先輩の背中に向かって言うと、僕は荷物を持って立ち上がった。

「じゃ、僕もう帰るから。お疲れ。」と言うのとほぼ同時にチームメイトから「先輩!しっかりしてください!」という悲鳴が上がった。

前に一歩踏み出しかけていた脚を戻して先輩の方を振り向くと、僕の言葉に従って笑いを堪えなくなった先輩がくねくねしながら地面を転げ回っていた。周りの人達は、先輩笑い過ぎですよだの過呼吸にならないですかだのAEDを持って来いだの混乱している。

 笑いから抜け出せなくなった先輩の扱いにはこの一ヶ月でもう慣れた。僕は至って冷静にその中に入っていき、先輩の耳に向かって言った。

「僕の友達に一人、本読むのがめちゃくちゃ好きな奴がいるんですけど、今度一緒にどうですか。」

 すると先輩はいきなり立ち上がり、僕の肩を掴んだ。ちなみに笑いは止まっていない。先輩が復活したぞーとかまじかよとかもともと死んでねーよという声が聞こえた。先輩はそれらには反応せず、僕の目をしっかり見ていた。クドイようだが、まだ笑いは止まっていない。

「そ、それはほんと…ははは本当か!ふふふ、楽しみにし、へへへしてるよほ、腹筋ほほほやほほやばい。」

 未知の言語で言い切ると、さすがに疲れたのか先輩は眠るように動きを止めて、その場に座り込んだ。短い時間ではあったが、最後まで全力で笑い切った彼に拍手を。

「先輩ー‼︎」

 再び悲鳴が上がり、ユニフォームを着た蟻の集団が一気に先輩に群がった。

「くるじぃ…」

 犠牲者のか細い叫びで生死を確認してから今度こそ自転車置き場へと歩いて行った。



 また一つ溜息をついてしまった。

本当に私はどうしてしまったのだろう。いつも一人で過ごしてきたけど、これほど自分が孤独だと思ったのは初めてだ。

 私は友達に恵まれず、両親にも恵まれず、エリザベス・テイラーとかオードリー・ヘップバーン並みの容姿にも恵まれず、ミケランジェロのように息を呑むような才能にも恵まれなかった。

 でもだからって今まで自分が寂しい人間だとも孤独な人間だとも思ったことはない。なのに…。

 どうして?


 私はちょっと都会に近い所で育った。両親は心配性で過保護タイプ。「箱入り娘」とは言われるけど、それは少し違う。なぜなら私が入っているのは箱は箱でも、針金入りの箱だからだ。両親と言う名の二十四時間警備体制。物心ついた時から、理由も教えてもらえずに、なになにには近付くな、これはやっちゃダメだなどと教え込まれてきた。

 こんな両親はいらない。そう思ったことは多々ある。私が欲しかったのは監視官ではなく、愛情が子供にも伝わるような愛し方をしてくれるようなお父さんとお母さんだった。ただ、一緒に遊んで、一緒に笑って、でも時には本気で叱ってくれる人を求めていた。

妹が生まれると今度は、お姉ちゃんなんだから妹に譲らなきゃダメでしょ、と教え込まれた。そんな環境の影響かどうかは分からないが、私は小さい頃から活発ではあるけど自分の意見を主張しない、一人遊びの好きな子だった。

 小学校に上がるとすぐに学校の図書室に置いてある本の量に圧倒され、手にとって眺めるうちにすっかり本達に魅了されてしまった。暫くすると、一週間に最低でも一冊は本を借り、雨の日は必ず図書室に通うのが当たり前になった。放課後に友達と遊ぶことを禁止されていた私にとって、本は家での唯一の遊び相手だった。そして優しい両親でもあった。最初に私と似たような境遇にいる人がいると教えてくれたのは本だし、それに対して慰めたりアドバイスをくれたりしたのも彼らだった。

 始めは挿し絵のあるシリーズものにはまったが、内容に物足りないものを覚え、徐々に字がびっしり書いてあるような類にも手を出し始めた。

 字だけの小説は挿し絵のある絵本とはまた一味違う面白さがある。自分で人物から情景までの全てを想像する余地があるし、何より同じ感情についての表現方法が作者によって様々なのだ。みんな同じ日本語を使ってるのに、絵を描くのと同じくらい個性が出る。

 もっと違う種類の文章に触れてみたい、もっと色んな世界を見てみたい。ただただ好奇心に突き動かされ、様々なジャンルと作者の本を読み漁った。主人公と共に学び、共に喜び、共に泣く。それは徐々に私の日常に欠かせないものとなっていった。

 そうして高学年になる頃には大人の向けの本を読むようになった。大人の本の面白さ、奥深さ、そして潜んでいる怪しさと言ったら説明のしようのない魅力があった。

 中学校に上がると本好きはさらに加速した。友達と話す時間よりも本を読む時間の方が長くなり、常に本をバックに忍ばせ、授業中は続きが早く読みたくてうずうずした。授業中は時計とにらめっこの時間だ。休み時間までの一分一秒がとてつもなく長いものに感じられ、チャイムが鳴るのがものすごく待ち遠しかった。

 本は私の愛情あふれた親友だ。一度ふざけてクラスメイトに、イギリス女王エリザベス一世の真似をして「私は本と結婚している。」と言ったことがあったが、通じなかったらしく、変なものを見る目を返された。

 何度か教科書の中に小説を重ねて先生にばれないように読んだこともある。最初の一,二回は上手くいったが、先生も馬鹿ではない。私が教科書を立てているのを見ると私のことをわざと指名するようになった。私はもともと手を挙げて発表するのは苦手なので、指名されて立ち上がると、何も話していないうちから顔が熱くなり、頭がぼうっとしてしまう。あの時の心臓の音は今でもはっきり覚えているくらいだ。それで、授業中にこっそり本を読むのはあっさり辞めた。

 ずっと本を読んでいるような子であるにも関わらず、クラスメイトは誰も私を陰気な子だとは思わなかったようだ。アンケートを行った訳ではないので正確なところは分からないが。

本のおかげで私は色んなタイプの子との接し方、話の上手な聞き方を学んでいた。急に話しかけられても慌てることなく、しかもその場に応じた冗談を言う技能も身に付けた。

 年頃になり何人かの男子に告白されるようになると、可愛い子達のグループに誘われるようになった。声が甲高いのは苦手ではあったけど、始めはその子達と付き合っていてすごく楽しかったし、自分が可愛い子の仲間入りをしたと思うと心が浮き立ったから、その時期は本をほぼ読まずにおしゃべりに加わった。後にも先にも本を読む習慣が途絶えたのはこの時期だけだ。でもすぐに失望させられた。私の話す内容に彼女らは興味を示さないのだ。逆に彼女らの話す、薄っぺらい表面を撫でているだけの会話にうんざりした。人をひたすらけなすような冗談のどこが面白いのだろうと思った。要するに私達の間では違いが大き過ぎて、共通するところがないに等しいのだ。さらに気付いたことがある。あの子達は男子に対して媚びを売るような軽薄な人達だったのだ。下から見上げたり、甘えた声を出したり、自分を着飾ったり。表ではいい子の振りをしているけれど裏では競うようにお互いの悪口を言い合っていた。

 がっかりしてしまった。

 ショックだった。

 なるほどこれが学園ものの物語に登場する嫌な女子か。本でそういう登場人物はときどき出てきたが、身近にいるとは思っていなかったので実際に目にしたのはさすがにショックが大きかった。

 私はグループを抜け、再び本と向き合う毎日を送るようにした。 同じグループだった子達からは暫くの間無視されていたが、あまり気にはならなかった。

 自分が必要以上に失望しないようにと特別仲の良い人は作らないことにした。友達はいらない。特定の誰かと毎日話す必要はない。でも寂しくはない。孤独だとも思わない。いつでも本が心に寄り添ってくれたから。

 本漬けの毎日は私に色んな体験をさせてくれる。悲しい気持ちになれば楽しい気持ちにもなれ、時には主人公と共に複雑な感情を味わうことも出来る。でも反対に現実世界では素直に感情は表に出せなくなっていった。それなりの感情はあったが、現実に戻ると常に何かが足りないような感覚を味わった。

 中三の時、一人の男子と仲良くなった。席が近かったのがきっかけだったんだと思う。初めて彼に話しかけられた時、必要なピースがぴったりはまったと思った。ストンと何かが私の中で降りたのだ。それほどしっくりきた。私が足りないと感じていたのはこれだったのかと少し感動した。この人になら素直になれるという直感を感じた。

彼はサッカー部のエースで、事実サッカーが上手かった。外交的な性格で友達も多いようだったが、暇が出来るとよく話しかけてくれた。でも私が本を読んでいると話しかけては来なかった。今思うと気を遣ってくれていたのかもしれない。

 決して格好良くはないが、たまに日焼けした顔から垣間見える白い歯は素敵だと思う。彼は私の話すことを興味深そうに聞き、時には質問も上手く間に挟んでくれた。でも男子だったのであまり長くは話さないようにした。周りに余計な誤解をさせてしまうからだ。この人が女子だったら周りを気にせずに済む。そうしたらどんなに楽しいだろうかと何度も思った。

 高校生になった。私は第一志望の高校に入った。彼とは高校が別々だった。

 高校生になってから過保護な両親に対して心の中でささやかな反抗をするようになった。


 また溜息をついた。

周りを見渡す。ここは駅から近い、マックの中だ。改装してからはデザインがずいぶんと現代っぽくなった。

ここにいるのは親への心の中でのささやかな反抗が原因だ。

さっき、親に日記帳を覗かれた。酷いと思う。これで三度目だ。私はもう小さな子供ではなく、自分の考えを持っている高校生なのだ。一人の人間として、プライバシーを持たせてくれないのか。私を守るためだと言われても、納得出来るわけがない。保護しているというよりも、親が子供から自立していないとしか感じられない。しかし、これらを言葉にして彼らに伝えることは出来なかった。

 そんなもどかしさからか、涙が溢れてきた。それで思わず居心地が悪い家を飛び出して来てしまった。

家から十分位離れた駅に来たまでは良かったが、サラリーマンが何人かのんびりと歩いているのを見て、なぜここに来たのだろうかと考えてしまった。

意識が自分にちゃんと戻って来てから、まずポケットの中身を確認する。アイポッドと電車の定期券が入っている。次に衝動的に掴んで持ってきたバックの中身をチェックした。いつも持ち歩いているバックだ。財布と文庫本と折り畳み傘が入っている。場違いなくらい見事に晴れ渡った空なのに折り畳み傘持ってるだなんてと自嘲した。財布には百円玉が二枚と一円玉が何枚か入っていた。

 少し迷ってからマックに入った。これくらいあればコーヒーは飲めるだろう。頭が冷えたからと言ってもさすがにそのまま帰るのはなんとなく気まずい。誰かと話したいけれど、そんな相手はいない。コーヒーをブラックで飲みながら読みかけの小説を開いた。

苦いコーヒーだった。


 急に視線を感じた。

 顔を上げると目が一瞬合ったが、すぐにそらされた。見覚えのある顔。いつかの可愛い子グループの一人だ。隣にいるのは彼氏だろうと推測した。彼氏君の言ったことにいちいち大げさに反応している。…疲れないのだろうか?私なら五分も経たないうちにギブアップするだろう。

 彼女の甲高い声はやっぱり苦手だ。これでは小説の続きに集中出来ない。

ポケットに入れっぱなしのアイポッドを取り出してイヤホンを耳に付けた。マイケルジャクソンのアルバムを選択した。バッドの力強い前奏が流れてくる。


 それにしてもなんで私はこんなに変わってしまったのだろう。どうして最近は自分が孤独だと感じるのだろう。パズルのピースに出会った時に感じた気持ちを思い出す。それまでは自分が孤独だと感じなかった。そう、確かに感じなかったのだ。でもピースから離れてしまった今は孤独だと感じている。いや、私はもともと孤独だった。ずっと一人だった。それを感じなかったのはいつも本を読んでいたからであって、それをピースが呼び起こしてしまったのではないだろうか。それとも、ピースと一緒にいると改めて自分は孤独ではないと思えたから、一人になると余計に孤独だと感じてしまうのだろうか。

 考えれば考えるほど混乱してきた。

 まぁ、でも。そんなに考えなくたって。この孤独な気持ちも全てひっくるめての私なのかもしれない。自分の気持ちを素直に話せる相手が今はいなくて、完璧な両親もいなくて、特別美人でもなくて、もちろん輝かしい才能もない。でもこの中の一つでも何かの拍子になくしてしまったら、もしくは落としてしまったらそれはもう私であって私ではなくなってしまうのだ。という辻褄の合わないことを考えて無理やり自分を納得させた。そうでもしないと私が今まで考えまいとしてきたことを認めてしまいそうになるのだ。



 僕はサッカーを幼稚園の頃に習い始めた。自分からやりたいと言い出したのではなく、親の希望だった。サッカーが嫌いな訳ではない。特に好きでもない。僕にとってサッカーは苦しいことでも魅力あることでもなく、日常生活の一環だ。そこら辺にある、ごく自然なものだ。日本の隣に海があるのと同じように。…これは言い過ぎた。そこまでではない。

 サッカーは僕にとって生活の一部だ。もちろん辛いことはある。特に今日のような走るメニューは自分が陸上部の長距離選手だと錯覚するくらいキツイ。試合でチームに迷惑をかけてしまった時もとてつもなく辛い。でもその分試合で自分がゴールを決め、さらにそれが元で試合に勝てた時はこのまま一生を終えてもいいくらい爽やかな気分に襲われる。疲労感という疲労感が全て吹っ飛び、後には達成感しか残らない。普段はふざけていても試合では真剣にボールを追うような仲間と勝てると、この瞬間のために僕はサッカーをやっているんだという気持ちにさえなる。だからこそこれまで全ての練習メニューをこなしてこれたし、例えどんなことがあったとしても練習をサボることはなくここまで来れた。でも、そこにもう一人いたらな、と思うのだ。


 三つ目の信号に来た所で急にお腹が空いてきた。ぐぅうという情けない音が身体中に響く。我慢してみるが、余計にお腹が空いてきた。

 空腹に負け、進行方向を右に変えてマックに向かう。

 一階は既に学生やサラリーマンのおかげで席が埋まっていた。ダブルチーズバーガーセットを買い二階へ上がる。二階はまだ一階ほど混雑していなかった。席に座ると同時に一口バーガーを食べる。空腹が満たされていくのを感じる。ポテトにも手を伸ばした。ついでにスマホも確認する。暫くホーム画面を眺めて、ポケットにしまった。僕には出来そうにない。


 彼女と毎日話すのが当たり前になった中三の七月のある日、彼女は一冊の本をオススメしてくれた。僕はその本の題名と作者を心のメモにしまった記憶がある。忘れた訳ではない。でも、長らくそのことは思い出さなかった。

確かに彼女の話す、本についての話しは面白かった。でも実際に読んでみようという気には全くと言っても良いほどならなかったからだ。僕は、彼女の話したことだけでその本について知ったつもりになっていた。だから、わざわざ読もうという気が起きなかったんだと思う。言い換えれば、僕は彼女の話す内容だけで充分満足だったのだ。

オススメされた本のことを思い出したのはつい先月のこと。彼女を思い出しているうちにそう言えばと思い出した。その日のうちに何年かぶりになる本屋へ行き、読んだ。…正直に言おう、面白かった。本当に。見直した。ずっと興味を持とうとしなかった自分が恥ずかしくなった。

 何かに感動した時、人はそれを他の人に話したくなるものだということをどこかで聞いたことがある。僕も例外ではない。夜十時を回っていたけど、ためらわずに先輩に電話をかけた。そろそろ留守電に切り替わりそうな時、やっと誰かが電話を取る気配が聞こえた。

「もしもし?」

「あ、先輩ですか?僕ですけど。サッカー部の…」

「生憎俺はオレオレ詐欺にもボクボク詐欺にも引っかかんないんだよね。」

「…え?違いますよ?僕はサッカー部の…」

「ああ、君か。こんな遅くにどうした?」

 絶対最初っから分かってただろ。

 日々健康な生活を送っている優しい先輩は眠そうだったが、驚きつつも、「実は」と言って始まった僕の下手な話しを最後まで辛抱強く聞いていてくれた。そして、あくびを噛み殺しながらも、同じ作者の違う本も読んでみたらどうかと言ってくれた。その人は最近人気になったばかりらしい。

それから僕がその作者の書いた本にはまるのに時間はかからなかった。次の本次の本と本屋や地元の図書館に最低でも二週間に一回は行った。何か得体の知れないものが僕の背中を押しているみたいだと思った。一冊を読み終える頃には既に次に何を読もうか決めていた。もちろん今でもそれは変わっていない。


 セットを食べ終えたのでもう帰ろうかと立ち上がりかけたが、そうすることは出来なかった。

 彼女がいるのを見つけたからだ。

 彼女はブックカバーの付いた文庫本を読んでいた。どうして今まで気付かなかったのだろう。

 彼女とまた話をしたい。

 僕はさり気なく咳をしたり、彼女の隣を通ってトイレに行ったりしたが、彼女がこちらに気付く気配はなかった。本読んでいるから当たり前なのかもしれないけど。

 気づいてくれよ!僕は君の邪魔はしたくないんだ。でも、気付いて欲しい!

 声を掛けられずにずっと座っていた。ほら、彼女が出て行こうとしているぞ。話したいなら話しかけろよ。



 アイポッドはリーブミーアローンを流していた。いつの間にかこんなにも時間が過ぎていたらしい。空になったコーヒーの容器を手に席から立ち上がり、自動ドアへ向かう。そのついでにゴミ箱にも寄る。

 自動ドアから出てからしまったと思った。本を忘れてしまった。



 彼女が階段から降りて行った後、彼女の座っていた所をぼんやり眺めていた。

 あれ?違和感を感じる。暫く考えてから分かった。さっきまで彼女が読んでいた本だ。文庫本がテーブルに置きっぱなしだ。体が勝手に動いて題名を確認していた。

 心臓の動きが激しくなった。これ、今度僕が読もうと思っていたやつだ…。あの作者の最新作で、発売日は確か昨日だったはずだ。



 急いでもう一度店内に入り、階段を登る。誰も自分のことなんて見ていないと分かっていながらも恥ずかしくてつい早足になった。本はちゃんと私を待っていたかのようにテーブルに行儀良く乗っていた。

「ねえ、その本どうだった?」

 はっとして反射的に振り向いた。

 声の主は質問を続ける。

「面白い?」

嬉しかった。質問も、目の前に立っていることも。深呼吸をしてから言葉を慎重に選ぶ。

「うん、面白いよ。今まで読んだ中で一番面白い。」

 彼は瞳の奥を輝かせた。そして少し困ったように笑い、日焼けした顔から白い歯を覗かせた。

「実は君がオススメしてくれた本読んだんだ。すごく面白かったよ。少し暗い感じがすごく良かった。」

 驚いた。そう言えば私は確かに彼に、ある本を勧めたことがあったのだ。どうして今まで忘れていたんだろう。

 戸惑いながらも頷くと彼は続けた。

「それで、実は、僕も…その作者の本にはまっちゃってさ。つまり、その、今度はその本を読もうと思ってたんだ。」

 彼が話している途中から私は顔が赤くなっていくのを感じた。こんな風に言ってくれた人は初めてだ。嬉しさで身体中が熱くなった。

 気付くとこの小説の魅力を話していた。彼の瞳は始終輝きを失わなかった。次の日曜日に彼が知っているという本好きの先輩も交えて会おうということになった。

 マックを出ると夕方の風が頬に当たって涼しかった。

 分かっていたのに。なんで孤独だと感じるのか分かっていたのに、私は私を騙そうとしていた。これからは自分の心に素直になろう。私は彼という友達を必要としている。現状は魔法のように変わってはくれない。でも、自分から行動を起こせば、いつか変えられるかもしれない。いつでも話しかけてくれる彼から、大切なことを学んだ気分だ。次の日曜日の予定を書いたメモを握りしめた。

今すぐ家に帰れば親にも素直に自分の気持ちを話せるようになれる気がする。



 彼女が再び出て行った後も、僕は暫く彼女の歩いて行った方向をぼんやり眺めていた。

 自分の頬をつねる。痛い。ということは夢じゃない。

 夢じゃない?そうだ、夢じゃない!

 彼女に会えた。彼女と話せた。次に会う約束までした。あのキラキラしている目を見れた。

 気付くと思わず「しゃ!」と叫んでいた。周りの人達が一斉にこっちを向く。うわ、僕は何をしているんだ。しかもちゃっかりガッツポーズまでして!慌てて手を下ろした。

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蝉の声 夕方の風 きよ @KiyoOrange

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