第十七話 「理事長の娘と酒の席」
「
結巳の処置を終えたこの病院の理事長。
ラウンジから外の様子が窺えて、やはりネクスト永崎タワーが、街の景観から浮き立つようにして目立っている。
「希歌さんは、彼女じゃないですよ。ぼくらはただの幼馴染みです」
「とてもそうは見えないがね」
「あと、同い年です」
「大事かね、それ? 意識しているアピールではないかな?」
白髪の彼は、好々爺然とした顔で微笑む。
実際はまだ初老のはずだが、実年齢よりずっと彼は老け込んで見えた。
「いや、本当に違うので。ぼくらはそういう関係ではないので」
「はっはっは。では、そう言うことにしておこう。儂も離婚した身だ。妻は再婚したらしいが、いまだに一部のつきあいはある。理解するとも」
しておこうもなにも──いや、むべなるかなだ。
「それで、結巳ちゃんの様態ですが」
「ああ、善くはない。衰弱が酷くてね、既に食事も受け付けない。おかげでこんな──」
清十郎は経口補水液と思わしきペットボトルを取り出して見せた。
「飲む点滴の類いに頼らざるを得ない。製薬会社に頼み込んだ、スペシャルのものでね。これでギリギリ、栄養を賄っている」
「そんな……」
「今日、あれだけの長時間、君と会話できたのが奇跡のようなモノなのだ。我々は患者に驚かされてばかりいるよ。少なくとも橘くん。君がこの医院に訪問するようになって、患者たちの免疫力は確かに向上した。笑顔の免疫力は確かにあった。本当に、感謝している」
彼はたった一代で、病に苦しむ人々を救うため、この病院を築き上げた傑物だ。
そんなひとに頭を下げられては、こちらの立つ瀬がない。
「頭を上げてください。ぼくは、なにも」
そう、なにもできていない。
病室を去るとき、結巳が残した言葉が脳裏で蘇る。
『こんどは、おほしさまを、いっしょに──』
……そうだ。
まだ、彼女との約束だって果たせていないのだから。
「理事長先生」
「なんだね?」
「よかったら……これからも必要なとき、ぼくを臨床道化師として招いてくれますか?」
「それは、どうして?」
「ぼくが〝そよかぜおじさん〟だからです」
結巳だけではない、他の子どもたちも。大人だって、笑顔にしたい。
誰かの鬱屈とした気持ちを吹き飛ばして。
頬を撫でる風になりたい。
だから。
「お願いします」
「まいったなぁ。立場が逆になってしまったかね?」
頭を下げれば、老人は困ったように苦笑した。
「もちろんだよ。むしろ、願ってもないことだ」
「それじゃあ!」
「うむ、君が来てくれると、病棟が明るくなるからね。理解し難いと思うが、儂はこころから感謝している、本当に。だからぜひ、次からも頼むよ、橘くん」
「はい、ありがとうございます!」
意気よく告げれば、彼は相好を崩し。
「やっぱり、同じぐらいの歳だなぁ」
と呟いた。
「ああ、さっきもいったがね。わしにも以前は妻がいて、娘がいた。無事に育っていたのなら、今頃、君や黛ちゃんの妹ぐらいの歳だっただろう。うん? そうか、一回り幼いか……」
「無事に、というと」
「君は躊躇うことを知らない男だな。病的なまでに自分という
「…………」
言葉もなく頭を垂れると、清十郎は一笑し。
風太の肩を叩くのだった。
「だが、そのことがあったからこそ、この病院を作る執念がうまれた。だからこそ、君たちが大切に思えるのだよ。病が癒えて、笑顔で過ごせる君たちが。どうかな、よかったら黛ちゃんにも、よろしく伝えてくれたまえ。ふたりとも仲良く──とね」
§§
「ということが、あったんだよ希歌さん」
「はー、へー。まあ、いい人そうだもんね、あのおじいちゃん」
家に戻った風太は、先に帰って食事をとっていた希歌に、今日あったことを話した。
希歌はカップ酒を細いストローでちゅるちゅると飲みながら、〝いるかのお姫様はびょうきです〟をパラパラとめくっている。
「それ、結巳ちゃんから預かった絵本なんだけど」
「ふーん」
「希歌さん、どうかした? なにかあった?」
「別に……って、隠しても仕方ないから言うけどさ」
酒の肴であるキノコのホイル焼きを口に放り込みながら、彼女は渋面で呻く。
「例の動画あるでしょ」
例の、というと。あの廃墟を訪ねたときの?
「そう。いま編集中で、次の日曜日に配信する予定なんだけど。なんか上の方からクレームが付いちゃって」
ちゅるちゅる。
「上っていうと、会社のお偉いさん?」
「うーん……もっと上」
なに?
「詳しいことはあたしもわかんないんだけど、場合によってはお蔵入りかもしれないって話でね。もー、これだから表現の不自由ってやつは!」
がしがしと頭をかきむしる希歌。
これは既に酔いが回っているので、放置した方がいいなぁと、風太は空いた皿を片付けはじめる。
そのあとも希歌は洗い物をする風太に物理的に絡んだり、面倒臭いくだを巻き続けていたりしたのだが、
「待って」
急に、小さく固い声を出した。
どうしたのかと彼女を見ると、外に面している窓を凝視している。
「いま、誰かがのぞき込んでた」
「窓から? 気のせいじゃないかな? こんな時間だし……」
「たぶん、違う。確かにいた」
「…………」
「なんか、目が大きな、黒い影が……」
「…………」
「神経過敏を疑ってもいいよ。でも、いた」
「……わかった」
酔いが覚めた真剣な様子で、不安を口にする希歌。
自分は一つ頷くと、エプロンを外しながらそっと入り口のドアを開ける。
外はすぐ廊下で、窓の外側になっている場所は目と鼻の先だった。
夜の薄暗い廊下で、チカチカと切れかけの蛍光灯が点滅している。
目をこらすが、誰の姿もない。
念のために反対側も見るが、やはりいない。
「なんだ、やっぱり気のせいだったよ、希歌さ──」
希歌の名前を、最後まで呼ぶことはできなかった。
それよりも先に、彼女の悲鳴が轟いたからだ。
反射的に希歌のほうを振り向けば、彼女が部屋の奥を指差して硬直している。
その視線の先には。
泥が──
暗がりの中、死んだはずのユアチューバー。
TAKASHIが、ぼうっと佇んでいた。
切り裂かれた首筋からは、ボトボトと黒い泥があふれかえり。
髪はびっしょりと濡れていて、よくわからない液体が滴っている。
顔は真っ黒に泥が塗り固められており。
サングラスの外された彼の目は焦点があっておらず。
それがときおり、音を立てながら動いて回る。
変貌したTAKASHIが、希歌と風太を指差した。
と、同時に。
部屋の至る所から、突き刺すような視線が放たれた。
見られていると思った。
希歌など、視姦を嫌がるように身を
途端に、鼓膜が痛くなるような耳鳴りがした。
──音。
どこかで聞いた音が、頭蓋のなかで、ぐわんぐわんと反響する。
ネコか動物のそれに似た。
老婆が苦痛に呻くものに似た。
本能的に身の毛のよだつ、この世のものではない呪詛の歌。
脳髄が理解する──赤ん坊の、泣き声だと。
その間に、変化が起こる。
ぶるぶると、TAKASHIの身体が震え、頭が霞むほどに前後左右へと振られる。
乱れた髪からは泥の飛沫が飛び散り、部屋をまだらに汚していく。
……いや、それは髪などではなかった。
泥と唾液と毒を滴らせる、無数の蛇の頭で。
やがて、彼の動きが止まり。
そうして掠れきった、歯軋りのような不快感を催す声音で。
真っ赤な口腔を開けたTAKASHIが、告げた。
「使命……ヲ、果タ……セ」
自分の口元がゆっくりとつり上がっていくのを自覚する。
完全にそれが笑みの形になった瞬間、TAKASHIの姿がかき消えた。
同時に、赤ん坊の泣き声も。
そうして。
「きゃぁ!?」
希歌が、今度は短い悲鳴を上げる。
彼女のスマホが、着信を告げていた。
ディスプレイに表示されている名前は、加藤D。
彼女はこちらを見て、一度頷き。
スマホを耳に当てる。
「カトー、さん?」
『おう、俺だ! 保だ! なんかおかしな事がなかったか!?』
「あった、あったよ! めっちゃヤバいこと!」
希歌が説明すると、カトーは深くため息をつき。
恐ろしい事実を告げた。
『俺と田所も見た。それに、調べてて解ったことだが、あの事件の関係者がどんどん失踪してやがる。怪談士がいたろ、腹の中身がグズグズになって、今朝が港に浮かんでるのが見つかった。花屋敷大先生がいるだろ、連絡がつかねぇ。取材に行った金泥の気狂いがいただろ、奴の家が全焼した。おまけに頼りの川屋先生は昏睡状態で目を覚さねぇ。それで、だな』
彼は、苦渋の決断を強いられたように。
こう告げたのだった。
『川屋先生の弟子、
明日から、おまえには除霊を受けてもらうぞ。
スマホの向こうから響く、そんな現実離れした言葉が。
いま起きたことが現実であると、むなしくも告げていた。
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