第十話 「くちさけ女の悪夢」

「あたしが小さいころ、病弱だったのは知ってるでしょ?」


 もう二十年以上も前の話だ。

 確かにそのころ、黛希歌は何度も生死の境をさまよっていた。


「あたしんちは普通の家だったからさ、普通のお医者さんにしか診てもらえなかった。そもそも、なんの病気だったのかさえ、いまだにわかんないし」


 昼夜を問わず、四十度を超す熱が出て。

 極端な脱水症状を起こし、免疫力が低下して合併症を起こす。

 次第に弱り切り、昏睡状態に至る。


 希歌は、そんな病に冒されていた。


「アンタの家にいっぱいお金とか借りたしさ」

「返したじゃないか、希歌さんが必死で働いて」

「返したけど、アンタにだって心配かけて」

「ぼくは」


 きみに遊んでもらえなかったのが、残念だっただけで。

 なにも。

 何一つ、助けることはできなかった。

 ただ泣きじゃくって、神様に祈ることしか、出来なかったんだ……。


「で、一番酷く寝込んでるときに、あたしは恐い夢を見たんだよね」


 夢。

 悪夢。

 それは。


「くちさけ女の夢。誰にも話したことなかったけど、アンタには聞いてほしい」

「……古い都市伝説の?」

「そう、『あたし、きれい?』って聞いてくる、あのおばけ。それがさ、夢枕に立ったんだ」


 希歌は言う。

 融け落ちるように真っ暗な、洞窟の中に横たわっていると、そこに、赤い服を着た女の人が現れたのだという。

 サングラスをはめて、くちもとを大きなマスクで隠した女の人。


 それは、つかつかと幼い希歌に歩み寄り、


「生きたい?」


 と、訊ねたのだという。


「もちろん、生きたいって答えた。死にたくないって。そしたら」


 そうしたら?


「『これでも?』って、女の人はマスクを外して。そしたらぱっくりと口が、耳まで裂けて」

「希歌さん」

「ボタボタ、ぼたぼたって、血の混じったヨダレが滴ってあたしの顔にかかって、それが笑ってるみたいで、あたし、あたしは──」

「希歌さん!」

「っ」


 ガタガタと青ざめた顔で、唇を噛んでいた彼女の細い肩を。

 強く掴んで名前を呼べば、彼女はハッと動きを止める。

 何事かとこちらを見る保たちに、なんでもないと手を振って見せて。

 

「もういいよ。もう、いい」


 風太は、希歌の背中をさすった。

 それでもしばらく、彼女は震えていたが。やがて、水を一口飲んで、気を取り直したように話を再開する。


「……えっと、何処まで話したっけ」

「話さなくたっていいよ」

「聞いてほしいんだって、風太くんにはさ。そうそう、くちさけ女に出遭ってさ、それで、気がついたらあたしは生き返ってた。それからぐんぐん病気もよくなって」


 でも、何度も恐い夢を視てしまったのだと、彼女は言う。何度も何度も、くちさけ女の夢を。

 実際、その頃の希歌はひどいものだった。

 病気が回復しても、世の中のなにもかもに怯えていた。


 だからだ。

 だから、自分は道化師を志した。

 神様はなにもしてくれなかった。自分の無力さは十分に噛み締めた。


 だから彼女が、少しでも笑えるように。

 ほんのわずかでも、希歌が元気でいられるように。恐いものなんてへっちゃらだと、言い張ってみせるために。

 自分は、道化であることを選んだ。


 それは、今だって変わらない。

 こうして、そばにいるのだって──


「あたしは、そんな弱い自分と決別したかった。恐怖を忘れたかった。だから、女優になったし、精一杯頑張ってきた」


 彼女が、自分と同じようなことを考えていたのだと、今更になって知る。

 黛希歌は、恐怖を克服するために、自らを奮い立たせてきたのだ。

 けれど。


「うん、でもさ……それが、あのおばさんみてたら、萎縮しちゃったんだよね。あんときの恐い気持ちとか、お先真っ暗な気分とか思い出しちゃってさ。それで、えっと……何が言いたいのかっていうとね」


 完全に落ち着きを取り戻した彼女が。

 こちらに拳を突き出しながら、笑う。


「アンタって、イイヤツよ……」


 しみじみと、そんなことを口にする。


 自分は言葉に詰まった。

 胸いっぱいの感情に、何を言えばいいのか解らなかった。

 何かに満たされて、溢れ出しそうな気持ちになった。

 だから、同じように拳を突き出す。


「この収録、必ず成功させる。それで、あたしはスターダムにのし上がってやる。だから」

「ああ。もちろん、協力する」


 こつりと、拳を突き合わせて。


「おーい、黛ぃ、センセー! 出発するぞー!」


 そこで保が、空気を読んだように声をかけてきた。


「はーい! いこう、風太くん」


 差し出される希歌の手を、眩しく見つめながら。

 確かにこのとき、掴んだのだ。

 自分よりも小さくて、けれど暖かなその手を。


 きっと、いつだって離すまいと願いながら。

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