第2章 二人目の依頼

第21話 由実の失恋

 葬式から帰った母は、脱ぎ捨てられた着ぐるみみたいに、ぐったりと椅子に座り込み、すみれに顔を向けることもしなかった。スーパーのパートは1週間の休暇をもらってある。2年前の父の死の時はここまで落ち込んだ記憶はないが、それだけ父親は大きい存在だったのか。それとも短い間に二人を亡くした喪失感だろうか。


 ようやく立ち上がると自室に入り、音もさせずに戸を閉めた。喪服のまま畳に横になったのが気配で分かった。毎日の入浴を欠かさない人なのに、風呂にも入らず、しばらくそうしているのだろう。


 年老いて手間のかかる親の死を悼む気持ちが、すみれには上手く理解できなかった。ただ、その愛情がいくらかでも自分に向いていれば異なる状況になっていたかもしれないと思っていた。

 

 すみれは忌引きで学校を3日間欠席、その後が土日で5連休だった。由実は葬儀への参列を申し出てくれたが、わざわざ足を運んでもらうほどのことではないから遠慮し、地元が同じ比佐子にだけ来てもらった。


 6日ぶりに登校して顔を合わせた桂と由実は「大変だったね」とか「元気だして」とか気遣ってくれたが、本心を吐けるはずがなく、神妙な顔で頷いておいた。傍から見れば、身内を亡くした女子高生に違いない。


 休んでいた間に、二人の仲が回復したようだ。何かきっかけあったのか、一人いないから仲良くするしかなかったのか。ともあれこれで学校もバイトも遊びも元通りの生活ができる。



 帰宅しても「おかえりなさい」はなかった。

 家の中は元通りとは行かなかった。母はテレビも付けずにぼんやり椅子に座っていた。夕飯を作る気力もなく、テーブルの上にはコンビニ弁当が置かれていた。その方がありがたくても、表情には出さずにレンジで温めて箸を伸ばす。


 憔悴した母と向かい合うのは忍びなく、食べ終わるとすぐに自室に引っ込んだ。蛍光灯が机の上のノートパソコンが照らし出す。黒く光るそれは、あの日掲示板に依頼してから閉じたまま。間の空いた登校で感じた、結んだ紐が解けたような空白をこのパソコンからも感じた。ディスプレイを開いてから、マウスに付いた手垢が気になってティッシュペーパーで拭う。


 そのまま電源を入れずに閉じた。もう2度と掲示板に書き込むことはない。開くこともないかもしれない。


 病院からの連絡はすみれがバイトから帰宅した後だった。掲示板に依頼して3日目、実行が近いと知りつつもバイトを休むわけにはいかない。野上の欠勤で店長に負担が掛かっているからではなく、何の変哲もない火曜日、死ぬのを知っていてはならないのだ。


 死に次第病院から家か緊急連絡先に指定してある母のパート先に連絡が行く。母は真っ先に娘の元へ電話をかけるだろう。心して待ったが店の電話が鳴ることはなく、スマートフォンにも着信はなかった。帰宅して夕飯を食べている最中に家の電話が鳴り、思わず風呂上がりの母と顔を見合わせた。夜更けのベルは不幸の知らせと決まっている。それから二人で病院へ向かったわけだ。


 野上の欠勤で店長は疲労困憊だったから休むのは申し訳なかったが、事情が事情だけにやむを得ない。翌日欠勤の連絡をしたところ、「もうこうなったら祭りだよ」とやけくそだった。


 それで1週間ぶりに出勤した火曜日は、いつもより30分も早く店に入った。早めにフロアに出て店内美化に協力する。せめてものお詫びの印。レジでは野上が接客していた。


「迷惑かけてごめんね」

 すみれはバックヤードで石川に詫びた。


「全然平気だよ」

 柔らかい表情も笑顔ではないのは状況を考慮したのだろう。


「木曜日石川君が代わってくれたんでしょ」


「こういう時は仕方ないよ」

 石川から見てもすみれは祖父を亡くした女子高生。


「野上さん、帰ってきたんだ」

 気を遣ってもらうのが申し訳なくて、すみれは話題を変えた。


「金曜に戻ってきたみたい。それでやっと店長が休み。ここんとこぶっ続けだったからマジで倒れるんじゃないかって心配だったんだけどなんとか乗り切れたみたい」


「休むって電話した時、なんかテンション高かった」


「俺んとこに出勤変更してって電話掛けてきた時もクスリやってんじゃないかってぐらいテンション高かった。じゃなきゃ断ったかも」


「私もそれ思った。まさか本当にやってないよね」


「壊れてただけでしょ」

 石川は口元に笑みをたたえて言った。


「それで、野上さんのお姉さんの件はどうなったの?」

 すみれは一度崩した顔を真剣なものに戻し、後方を振り向いて野上がいないのを確認してから尋ねた。


「進展はないらしい」


「犯人捕まってないの?」

 毎日チェックしているネットニュースに新しい情報はなかった。


「俺もそんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、でも捕まったって話は聞いてない。ひき逃げとか怖いよね」

 顔をしかめた石川に、すみれも同意した。

「不倫」や「殺人」といったキーワードが出るかと憂慮したが何も出なかった。犯人が捕まっていないただのひき逃げ事件に過ぎない。

 やはり掲示板の住人はプロ。これならジジイのことも発覚する心配はなさそうだ。



 その電話が掛かってきたのは夏休みに入って最初の月曜日、夜の8時を過ぎていた。スマートフォンのディスプレイには『由実』と表示されている。

 メッセージではなく、電話を掛けてきたことで穏やかなことではないと察したすみれの目にパスタ屋で見かけた光景が浮かんだ。由実にはまだ話していない。躊躇いがちに通話ボタンを押した。


「もしもし」


「終わっちゃった」

 一呼吸置いてから発せられた由実の言葉は控えめに鼓膜を揺らした。思った通りだったが、返す言葉は見当たらない。


「聞いてる?」


「聞いてるよ」


「つとむクンにフラれちゃった」

 再び沈黙。何を言えばいいのか。とりあえず「そっか」と言おうとしたが、それより先に由実の声が返ってきた。

「終わりにしようって。こういう関係を続けるのは良くないって」

 鼻をすする音が聞こえた。

「夏休みだから、いろんなところに出かけたりとか泊まりに行ったりとかできると思って楽しみにしてたのに」

 声が震えだして、それ以上続かなかった。


「今どこにいるの?」

 すみれは間をおいてから尋ねた。


「学校」


「学校?何でそんなとこにいるの?」

 学校のそばで崎元と会うことはない。


「分かんないけどなんとなく来たくなった」


「そっち行こうか?」


「来てくれるの?」

 本当は面倒臭いが一人にしておける状況ではなかった。


「今から行くから、待ってられる?」


「ありがとう。待ってる」

 部屋着から洋服に着替えて家を出た。母はちらりと視線を送っただけで何も言わなかった。


 8時半になろうとしていたが、この時間でも外は蒸し暑かった。街灯の下では、子供がクレヨンで画用紙を塗りつぶすみたいに虫たちが飛び回っていた。

 駅に着いて、改札機にICカードをかざすと、警告音を発してゲートが封鎖された。昨日で定期が切れていた。何かの暗示みたいでにわかに足取りが重くなったが、引き返す選択肢などなく、券売機でチャージして改めて改札機を通過する。

 電車は空いていたけれど、椅子には座らずにドアの横に立って外を眺めた。窓ガラスには、夜の街並みと自分の顔が重なっている。


 パスタ屋で見かけた時は、まだ付き合っていなかったのかもしれない。それか付き合い始め。あの女とうまく行って由実を振った。崎元も30近いんだから結婚を考える歳、いつまでも教え子を相手にしている場合ではない。そういったところだろう。


 でもこれでいい。


 桂じゃないけど、教師と生徒の恋愛なんて上手くいくわけがない。先が見えないんだからいつまでも続ける意味はない。これで桂との仲ももっと良くなる。崎元のことなんて忘れて、同じ年頃の新しい彼氏を見つければいい。

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