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すでおに

第1章 一人目の依頼

第1話 母ひとり子ひとり

 すみれが吐いたツバは左耳に命中した。


―惜しい!30点―


 真ん中にある真っ黒な鼻が50点。40点の円らな両目よりも上に外れた。余白の20点よりは高いけど、30点は物足りない。


 毎度のことながらドーベルマンは激高し、鉄柵を突き破らんばかりに吠えたててくる。立派なお屋敷で飼われた気高い番犬だから、その辺のペット犬とは違うのか。犬のくせに人並みにプライドが傷つくらしい。


 咆哮を背中で受けながら足早にその場を離れる。鼓膜の震えは段々小さくなっていくものの中々啼き止まない。ご苦労さま。


 一度だけ振り返って人影がないのを確認する。大丈夫。午後のこの時間は人通りが乏しく、無機質な電信柱と三角の赤い標識が立っているだけ。誰にも見られていない。見られたところで、朝から晩まで繰り返される咆哮に辟易しているご近所さんなら、むしろ賞賛してくれるかもしれない。


 お屋敷の隣もレンガ造りの塀に囲まれた邸宅で、その隣も同様。角を曲ると現れるマイホーム、コーポ北見は周りと比べると穴に当てた継ぎのよう。壁をクリーム色に塗り替えて少しはマシになったけど。階段を上がり、鍵を回して203号室のドアを開けた。


「お帰りなさい」


 台所で母・和代かずよが振り返った。


―なんでいんのよ―


 いつもはパートに行っている時間。いないつもりで帰宅した。


「病院から連絡があって、早退させてもらったの」


 母は疑問を酌んだように説明した。刹那沈黙が流れる。手持ち無沙汰のすみれの耳に、さっきの咆哮が蘇った。


「今日はバイト休みでしょ?」


 その問い掛けを無視してすみれは自室に入り、空気を裁断するように木製のドアを勢いよく閉めた。制服のままベッドに寝転ぶ。一人きりの時間を潰され、仕方なく天井に向かってスマートフォンを開いた。新着のメッセージはなく、何の気なしにSNSをチェックする。ふと画面をいじっていた指を止めた。視線を脇の下に落とす。バイトがない日はスプレーを忘れがち、夏は油断できない。とりあえず放置で、そのまま反転してうつ伏せになった。


「おじいちゃん、もうちょっとかかるみたい」


 間を隔てるドアを母の声が通り抜けてきた。すみれはスマホを向いたまま。返す言葉があるとすれば「へぇ」か「それで?」。どちらも口を出ないのは閉まったドアを通すだけのボリュームを出す気にならないからだ。


「1回ぐらいお見舞いに行ったら?」


 返事をしないのが答えの代わり。しばしの空白のあと口を開いたのはやはり母。


「ここに住むことになるかもしれないから」


「何で?」


 反射的に、負の感情がこもった言葉が喉をついて出た。体を反転させ、起こした上体をドアに向ける。


「他に行くところがないんだから、うちに来るしかないでしょ」


「家があるでしょ」


 ベッドの上で胡座をかき、ドアの向こうにいる母を睨みつける。


「脚を悪くしたんだから、一人じゃ生活できないでしょ」


「老人ホームに入れれば?」


「お金がなきゃ入れないでしょ」


「財産とかないの?」


「ああいうところは簡単に入れないのよ。高いところは何千万もするんだから。安いところは順番待ちだし」


「とにかく、うちに来るのは絶対嫌だから」


 すみれはわずかに開けたドアから吐き捨て、鳩時計のようにまたすぐに閉めた。

 


 プチトマトを咀嚼する感触は、昆虫を潰すのと似ている。

 母がスーパーを早退したせいで、いつもは貰ってくる売れ残りの惣菜がなく、夕飯は手作りのハンバーグとサラダに味噌汁。

 すみれは母の手料理が好きではなかった。味が薄いし、盛り付けも下手、食器のセンスも悪くて食欲をそそらない。小学生じゃあるまいし、ふちに猫のイラストが入った皿なんていい加減捨てればいいのに、割れるまで使い続けるつもりらしい。こういうのも全部ひっくるめて、料理に向いていないのがよくわかる。


 テレビから流れる笑い声が不快でチャンネルを変えても似たような番組ばかり。ニュースは見たくないし、といって消すと気まずくなるから、一番五月蝿くない、かつての人気芸能人を追ったドキュメンタリーで止める。視線はテーブルの上のスマホに向けた。


「さっきの話だけど」


 向かいに座る母が口を開いた。やっぱり来たか。予想していたが返事をしない。


「ここに来たら嫌なの?」


「当たり前でしょ」


 スマホをいじったまま視線を向けずに答える。元人気芸能人のアルバイト生活には興味がない。


「そんなこと言ったって、他に行くところないのよ」


 さっきと同じことをまた言った。動かしようのない状況ということか。


「老人ホームとか施設とかに入れればいいでしょ。今まで一人で生活してきたんだから、少しぐらい貯金とか、年金とかあるんじゃないの?」 


 ここに来ることはなんとしても阻止しなければならない。


「大学行きたいんでしょ」


 母の口から発せられたのは、一番恐れていたシナリオだった。止まりそうになった箸を気づかれないようにハンバーグに伸ばし、何事もなかったように口に放り込んだ。


―やっぱりそうなるか―


 2年前に父が亡くなって、生活が一変した。3LDKのマンションから2DKのアパートに引っ越し、母は週3日のパートを5日に増やした。それでも保険やら年金やらが入ってきたみたいだし、一人っ子だし、そこまで苦しい生活になった訳じゃないから、進学は大丈夫だと思っていた。


 勉強したいとかじゃなくて、まだ就職したくないし、大学に行けば色々と面白いことがあるかなっていうぐらいで就職でも仕方ないと心のどこかで覚悟はしていたけれど、邪魔者が理由なら話は別。


 アルバイトでためた貯金程度では、何の役にも立たない。同居して進学するか、施設に入れて就職するか。今まで通りの生活で大学に行きたいに決まっている。百害あって一利なしの『足かせじいさん』などお断り。


「なんでうちがお金が出さなきゃいけないのよ」


「お母さんの親なのよ。あなたにとってもおじいちゃんなんだから、知らんぷりって訳に行かないでしょ」


「学資保険に入ってるって言ってなかった?」


「老人ホームに入るとなると、それだけじゃ足りないのよ」


「孫に迷惑かけるおじいちゃんなんて要らないから」


 叩きつけるように箸を置いて自室に戻った。重力から逃れるようにベッドに身体を沈めたすみれは、前髪とおでこの隙間に指を滑り込ませた。生え際にある、そこだけ一度掘り返された穴ぼこみたいな小さな痕に、中指の腹で何度も円を描いた。

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