第2話.正月参賀
2度目の正月参賀の日がやってきた。
3歳になった俺は8人の家臣の参賀を受ける。
去年も受けているが、数えの2歳って生後9ヶ月の俺はハイハイができるようになったばかりで言葉も片言であった。
『た・い・ぎ・で・あ・る』
拙い片言を大の大人8人が感涙にむせぶのは止めてほしい。
こっちが恥ずかしかった。
俺が生まれた年、父である将軍義晴は病を患っており、兄弟で将軍職を争って、自分が亡くなった後に生まれたばかりの俺に将軍職を譲りたいと朝廷に申し出て御内意を頂いたのだ。
どれだけ弟の足利義維が将軍になるのを嫌だったのか!
赤ん坊の俺が政務を執り行える訳もなく、代わって公事を行う『八人の年寄衆』を指名した。そこから病状が回復して将軍宣下の儀が行われなかったのだが、俺は生まれながらにして将軍になることを許された『将軍の子』となった。
将軍の子である俺には、摂津元造・大舘常興・大舘晴光・朽木稙綱・三淵晴員(細川高久)・海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆の8名が内談衆として付けられていた。
そう、年寄衆なり損ねた8人が俺の家臣だ。
家臣の息子ではない、各家の当主が家臣なのだ。
中々に豪華なメンバーだ。
しかし、
朽木稙綱は将軍が避難した場所として有名であり、何度も追われて逃げ込んだ訳だ。
いい迷惑だったかもしれないが、嫌な顔もせずに受け入れてくれた。
そう意味で忠誠心に疑う余地がない。
三淵晴員(細川高久)は細川幽斎の父であり、足利義晴から下げ渡された後妻の智慶院(清原宣賢の娘)を晴員の妻に迎えられた。その下げられた側室から生まれた藤孝(幽斎)が御落胤とか噂されたこともあるそうだ。
もし、それが事実なら腹違いの義理の兄になる。
この時点で三淵晴員のことをよく知らなかったから検討する余地もなかった。
他の者も同じだ。
追々、親しくなりながら調べてゆくしかない。
そういう意味もあり、今年の参賀は我が自室で行うことにした。
面倒臭いが彼らの一族のことを教えて貰い、管領細川晴元、三好元長の嫡男(後の長慶)、細川高国の残党、天文法華の乱の状況など話を聞いてゆく。
誰がどういう風に思っているか?
意外と重要なことだった。
特に、まだ数えで三歳(一歳9ヶ月)と侮って、真面目に答えない家臣は論外だ。
おおむね史実通りに進んでおり、このまま進めば8年後に将軍職に就くことになる。
管領(細川)晴元は(細川)高国の残党(氏綱など)と三好利長(後の長慶)、木沢長政と摂津周辺で争いを繰り返すので、足利家は比較的安定することになる。
父の将軍(足利)義晴は管領(細川)晴元の勢力を削ごうと躍起になるが、将軍の仕事ではない。
この平穏な時間を使って将軍家の力を少しでも蓄えようと何故しない?
議論に熱が入って、将軍批判をしてしまった。
将軍の息子が将軍批判は拙かろう。
正月参賀に来た7人の内談衆が困った顔をしている。
さて、最後は朽木稙綱だ!
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