最終話「日向の窓で、君と」
1.最後の景色
――美遊が我が家に戻ってきてから、早二十年が経っていた。
僕は六十歳を超えたが、美遊はまだ三十六歳。彼女の人生はこの先も長く続いていく。だから、僕も精々長生きして美遊を支えていこうと思っていたのだけれども……運命は残酷だった。
僕はとある病にかかり、余命幾ばくも無くなっていた。
「……美遊、そこにいるかい?」
「ええ。ここにいるわ、せーちゃん」
黒木家の応接間。そこに置かれた介護用電動ベッドの上に、僕は横たわっていた。
もうすっかり体も動かなくなり、美遊の介助がなければトイレすら自力で済ませられない。
「一生かけてでも美遊を守る」だなんて偉そうなことを言っておきながら、たったの二十年でこのザマだ。情けなくて涙が出てくる。
「ほら、せーちゃん。今日は本当に良い天気よ。春の陽射しに庭木の緑が映えて――」
窓の外に広がる黒木家の庭を眺めながら、美遊が微笑む。けれども、手入れをする人間のいなくなった庭は荒れ放題で、既に見れたものではなくなっている。
だから僕は、美遊の笑顔だけを眺めていた。
既に三十半ばを過ぎたというのに、美遊は変わらず奇麗だった。まるで十六歳で時が止まってしまったかのように若々しく、美しい。
結局、彼女は誰にも嫁がずに僕との同居生活を続けていた。他に幾らでも選べる道はあったはずなのに。
――全ては僕のせいだった。僕がもう少し彼女に広い世界を見せてあげれば、突き放してでも僕への依存を断ち切っていれば、こんなことにはならなかったはずなのだ。
僕はもうすぐ死ぬ。美遊を残して。この事実はもう動かしようがない。後悔しても遅すぎるのだ。
ああ、美遊。すまない、美遊。僕は結局、君を孤独にしてしまっただけなのだろうか――。
***
「――っ!?」
目が覚めた。
枕元に置いてあったスマホに手を伸ばし日付を確認するけれども、当然二十年なんて時は流れていない。美遊が帰ってきてから、二十年どころかまだ半年も経っていないことに、ほっと安堵のため息を漏らす。
――とはいえ、今見た夢は決して「ありえない未来」ではない。可能性の一つとして、十分にあり得るものなのだ。
今のまま、僕にべったりな生活を続けていけば、美遊の世界はちっとも広がっていかない。それこそ、僕が事故か何かで突然死んでしまったら、美遊を孤独にしてしまう。
「ホント、どうにかしないとな……」
「何をどうにかしないとなの? せーちゃん」
「そりゃあ決まってるじゃないか、美遊の……んっ?」
――おかしい。
ここは僕の部屋で、僕は自分のベッドに寝っ転がっている。なのに今、すぐ近くで美遊の声が聞こえたような?
「私? 私がどうかしたの? せーちゃん」
再び、美遊の声が聞こえた。すぐ耳元で。すごく、近い。
しかも今更ながら気付いたけれども、何だか体の左側にとても柔らかい何かがぴったりとくっついている感触がある。特に、二の腕は極上の柔らかさを持った二つの物体に挟まれていて、おまけに何だかいい匂いがする。
恐る恐る、視線を左側に向けると――。
「ねぇ、せーちゃん。私がどうかしたの?」
美遊がいた。
僕のベッドの上に、同じ布団の中に、僕の左腕にしがみつくように体を寄せて、美遊が添い寝してた。
「ぎゃ――」
「ぎゃ?」
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!?」
――朝の鎌倉ヶ丘に、アラフォー男の絶叫が響いた。
***
「もう、酷いわせーちゃん! 私を見るなり、お化けにでも会ったみたいに悲鳴を上げるだなんて!」
「いや、だからごめんって。本当にびっくりしたんだから……というか、僕の部屋のドアは鍵をかけてあったはずなんだけど、どうやって入ったんだい?」
「――鍵なら開いていたわよ?」
……答えるまでにやや間があったのが気になったけれども、深く考えるのは止めよう。きっと僕がドアの鍵をかけ忘れていたのだ。
そういうことにしておこう。
無理矢理そうやって割り切ると、僕は台所へ向かい朝食の準備に取り掛かった。
本日の黒木家の朝食はホットケーキ。
市販のホットケーキミックスを使った手抜きではあるけれども、焼き上がったものにはジャムやハチミツ、メープルシロップやバター、はたまたベーコンと目玉焼きを合わせたりと、味のバリエーションは豊かだったりする。
僕はバターとハチミツ、美遊はアンズジャムと合わせるのがそれぞれの好みだ。
僕の分は大きくて厚みのあるタイプを、美遊の分は小さくてやや薄いタイプを、それぞれホットプレートの上で何枚か焼いていく。
「あ、せーちゃん。私の分は自分でひっくり返させて?」
「……うん、そうだね。焼き加減とかも美遊に任せるよ」
――美遊が我が家へ帰ってきて、早くも四か月以上が経とうとしていた。二月も三月もあっという間に過ぎ、早くも四月になっている。
リサや白き魔女の来訪からの二ヶ月間、僕らの生活は平和そのものだった。もちろん、細かいトラブルは幾つかあったけれども、大きな問題は起きていない。
でも、僕らを取り巻く状況には、色々な変化が起こっていた。
まず、長いこと祖母の預かりとなっていた叔父夫婦の遺産が、正式に美遊へと相続された。今まで一円の預金も無かった美遊に、名実ともに財産が出来たことになる。
祖母と僕との共同名義になっていた黒木家の土地屋敷についても、そこへ美遊が加わることになった。
それに合わせて、美遊も携帯電話を持つことになった。
本当なら操作が昔の電話に通じるところのあるガラケーが良かったんだけど、美遊がスマホにすると言ってきかず、一番操作が簡単な機種を購入していた。
案の定、毎日のように使い方を僕に聞く日々が続いているけれども。
そして、ユーキの監督の下で続いていた美遊の勉強は……遂に高校の課程へと突入していた。
しかも、三月中に高校三年生までの内容を、ほぼ終えてしまったらしい。相変わらずの恐ろしいペースで、僕もユーキも唖然とさせられたものだ。
ユーキが教えられるのは中学生の課程までだから、美遊はほぼ独力で高校課程を学んだことになる。
ユーキは当然の如く高卒認定試験の受験を勧め、美遊もやる気を出していた。自分の学んだことが公的な結果として残ることに、美遊も魅力を感じ始めたらしい。
けれども、僕は相変わらず少しの不安を感じていた。美遊の実年齢は十六歳なのだから、本来なら高校一年生くらいになるはずだ。だから、こと勉強だけに限って言えば、美遊は本来送っていたはずの学校生活を追い越してしまったことになる。
あまりにも急ぎすぎているように思えたのだ。
「あ、そうそう。もうすぐもう高卒認定試験の受験案内が配布されるから、ユーキちゃんが取ってきてくれるそうよ」
「へぇ、試験自体は八月だったよね? もう受験案内が出てくるんだ。出願開始はいつ?」
「ええと……確か今月の下旬から、だったと思うわ。後で確認するわね」
――とは言え、最近の美遊は目に見えて自立している部分が増えていた。
もう勉強関連のことは、ほぼ美遊とユーキの間でやりとりをしていて、僕には大事なことだけ伝えるように言ってある。
今、ホットケーキを焼くのを任せているように、一部の料理については美遊が担当する機会も多くなってきた。
以前は嫌がっていた僕との別行動も少しずつ慣れてきたらしく、最近では僕を置いてユーキと一緒にお出かけすることも増えている。喜ぶべきことだった。
……けれども、行動力が増したからなのか、少し困ったことも起きていた。
今朝、僕の布団に潜り込んでいたように、僕に対しての肉体的接触が増えてきたのだ。
外へ一緒に出掛ければ、腕を絡めてぴったりと密着してくる。
お茶の間でテレビを観ている時にも、座布団ごと真横へ移動してきて、僕の肩に寄りかかってくる。
僕がお風呂に入っていると、「お背中お流しします~」等と言いながら風呂場へ乱入してくる……エトセトラエトセトラ。
数か月前の美遊も、やたらとくっつきたがったりしたものだけれども、あれはどちらかというと子供っぽい仕草に近いものだった。
けれども最近のそれは、明らかに「異性としてのアプローチ」に見える。以前のように、性的な知識がちぐはぐな美遊とは違うのだ。今の彼女は「分かって」やっているように思えた。
ユーキにも相談したけれども、彼女は苦笑いしながら「自分で考えようね」としか言ってくれなかった。
そのせいで、最近の僕は気が休まることがなかった。
柔らかいしいい匂いがするしで、正直理性が限界を迎えそうなのだ。恥ずかしい限りだが、何度も危ない場面があったりもした。
美遊は僕にとって大切な家族だ。一時の情欲をぶつけたくはない。
それに、彼女の僕への想いは、つまるところ「異世界」で熟成された執着からきているはずなのだ。純粋な恋愛感情ではないはずだった。
唯一残された僕に関する記憶を寄る辺に、美遊は「異世界」での命がけの生活を乗り越えてきた。
生き残る為に、他人を傷付けもした。
僕が美遊に手を出すということは、彼女のそういったトラウマにつけ込むのと同意なのだ。そんな酷い真似はできない。
――けれども実のところ、僕のこの解釈は間違っていた。
僕はまたもや美遊の心の内を見誤っていたのだ。彼女を必要以上に子供扱いしていた。
僕はそれを、鈴木さんからのとある連絡をきっかけに思い知ることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます