4.平穏な日常(上)
ユーキが黒木家を訪れた日の夜から、早速とばかりに美遊の「勉強」が始まった。
「じゃあ、何か分からないことがあったら相談してね?」
「うん。ありがとう、せーちゃん」
美遊の笑顔に見送られながら、彼女の部屋を出る。
……美遊の体感時間で五年間、彼女は明日をも知れぬ戦いの日々を強いられていた。当然、学校の勉強について思い返せる日など、なかったことだろう。
この一週間、彼女の様子を見ていた感じでは、読み書き能力も大分落ちているようだ。独学で小中学校の勉強を全て習得するのは、かなりの困難を伴うはずだ。
だからこそ、ユーキは「一週間ごとのテスト」を課したのだろう。
しばらく独力で頑張ってみて、成績が芳しくないようだったら、通学や家庭教師をつけることへの名目がつく。
……美遊には悪いけど、僕はユーキの目論見が上手く行けばいいと思っていた。
***
「勉強」という要素が入っても、僕と美遊の日常生活はあまり代わり映えしなかった。
僕が明け方に起きて庭の手入れをしていると、いつの間にか美遊も起きてきて、頼まなくても手伝いを始めてくれる。
力仕事も多いし、朝からそんなに働く必要はないと言っても、美遊は頑なに手伝いを続けてくれた。
「お祖父ちゃんの遺したお庭を、少しでも維持してあげたい」なんて言われたら、僕もあまり強くは言えない。
一段落したら、今度は朝食だ。
黒木家は祖父が洋食派、祖母が和食派だったので、その日ごとに朝食の雰囲気が変わっていた。
今日は和食。焼き鮭と白米、昨晩の残りの味噌汁にお新香という、完璧な布陣だ。納豆は美遊が苦手だったはずなので、自粛した。
「せーちゃん、お料理上手よね……」
「まあ、普通さ。一時期は僕が朝食当番だったからね。あまり凝ったものは作れないし」
つとめて軽い口調で答えたけれども、僕が朝食当番になった裏には、美遊にはとても言えない理由があった。
美遊が行方不明になって以降、家族仲が険悪になっていた時期があった。その頃は、食事を各自バラバラに済ますことも珍しくなくて……。
「このままでは家族がバラバラになってしまう」と懸念した祖母と僕は相談しあって、二人で朝食と夕食を全員分作ることに決めたのだ。
最初は僕が祖母の足を引っ張ったり、はたまたせっかく作っても誰かしらが手を付けてくれなかったりと、困難続きだったけれども……次第に一緒に食卓を囲む人数が増えていって――。
もちろん、それでもお互いのわだかまりがなくなった訳じゃない。
父と叔父、そして祖父はよく口喧嘩にもなっていた。
けれども……それで一緒に食卓を囲むことを止めることもなく。黒木家はバラバラにならずに済んだのだ。
「……せーちゃん? どうかしたの?」
「いや、なんでもないさ。さ、冷めない内に早く食べよう」
「うん。それじゃあ――」
『いただきます!』
二人のハモった声が食卓に響く。
美遊は早速とばかりに焼き鮭に手を付けたけれども、まだお箸の使い方が思い出せないらしく、悪戦苦闘している。
一応、ナイフとフォークも用意したんだけど、美遊は「お箸で頑張るわ!」と、ここでも少し頑固な面を見せた。
「ん~、お箸の使い方を覚えたら……今度はお料理も思い出さなくちゃ! せーちゃんに負けていられないわ!」
「あはは。ま、急がず着実に、ね?」
こうして、二人だけの――けれども賑やかな朝食の時間は過ぎていった。
***
朝食が終わると、僕は庭の手入れを再開した。
美遊も手伝うと言ってくれたけど、自分の勉強を優先してくれと頼んだら、あっさり引き下がってくれた。美遊自身も、ユーキから出された条件が困難であることを、よく理解しているのだろう。
黒木家の庭には、季節の草花が生い茂っている。そのお蔭で、どんな季節でも草花の姿を愛でることが出来るのだけれども……その分、常に手入れが欠かせないので、大変だ。
草木は、ちょっと
時折、テレビなどでよく手入れされた日本庭園を見かけるけれども……あの美しさの裏には、ウチの庭の手入れにかかる数倍の労力が費やされているのだろうな、等と考えると、気が遠くなる思いだ。
家庭菜園の手入れも、午前中に終わらせてしまうのが日課だった。
黒木家の敷地の殆どは斜面だけれども、流石に家の周囲には多少の平地がある。そこに育てやすい野菜を植えたり、プランターを置いて育てたりしている。
先日アライグマに食べられてしまった大根もその一つだ。……あの大根は冬には辛味のきつくなる品種だったんだけど、アライグマは辛くなかったんだろうか?
美遊の「おまじない」のお蔭か、あの日以来、大根以外の作物は今のところ被害が出ていない。長ネギが何本か収穫時期に来ているので、近い内に「ねぎま汁」でも作ろうか?
***
昼食は、朝の残りのご飯を使ってオムライスを作った。
ケチャップライスに薄く作ったオムレツを乗せるだけの簡単なものだったけど、美遊には好評だった。付け合わせに作ったタコさんウィンナーも喜んでくれた。
「懐かしいわ、タコさんウィンナー……。お母さんや伯母さんがよく、お弁当に入れてくれたわよね……」
「ああ、そう言えば必ずと言っていいほど入ってたね。そうか、僕が何となくウィンナーをタコさんにしちゃうのは、そういう理由か……」
まだ美遊が「異世界」へ拉致される前。遠足やら運動会やらの行事の時には、僕の母と美遊の母親が、腕によりをかけて豪勢なお弁当を作ってくれたものだった。
甘い甘い卵焼き、定番ののり弁、冷めても美味しいささみチーズフライにきんぴらごぼう、そしてタコさんウィンナー。自家製の梅干しも美味しかったっけ――。
その日の昼食は、なんとなくしんみりとしてしまった。
美遊が家に戻って来て一週間と少し。まだ、美遊や僕の両親がもういないのだという実感が、じわじわと彼女の中に浸透しつつある時期だ。
美遊は明るく振る舞っているけれども、夜に自室で一人泣いていることがあるのを、僕は知っている。
ゆっくりと、少しずつ悲しみと向き合っていかなければならないのだ。少しでも支えになってあげたい。
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