5.正しさの犠牲
もう随分と前、僕が最初に就職した会社で働き始めて、数年が経った頃のことだ。
僕は薬品販売会社の営業職として、忙しい日々を送っていた。
仕事は大変だったけれども、沢山の同僚や先輩がいて互いにサポートし合う、居心地のいい会社だった。
――けれども、ある時大変な事件が起きてしまった。
上司である課長が、部下である僕らの名前を勝手に使って不正に経費を落としていたことが発覚したのだ。私的な着服だった。
バレにくい名目で少額をコツコツと数年間かけて積み重ね……その総額は、いつしか数百万円に及んでいた。
気付いたのは、僕と数名の同僚。
当時、経理にヘルプでやってきた派遣社員の人が、普段はスルーされていた経費で落ちるかどうか微妙な領収書について、僕らに確認したことがきっかけだった。
見覚えのない領収書。
やはり見覚えのない経費精算書。
承認印は課長のもの。……僕らはすぐに、課長を疑った。
でも、僕たちは悩んだ。
それぞれの額はとても小さなもので、問題にして話を大きくするより、なあなあにしてしまった方がいいんじゃないか? とさえ思っていた。――総額が数百万になるとも知らずに。
課長は気の良い上司で、僕らの誰もがお世話になっていて……悩んだ。
悩んで悩んで、何度も相談した結果……僕たちは経理部に、「課長不正の疑いあり」と報告することにした。やっぱり悪いことは悪いと考えたのだ――。
「――結局、課長の不正は全てバレることになった。でも、会社も事を大きくしたくなかったのか、着服したお金の返還と、課長の自主退職ということで決着がついたよ。社長は『辛い判断だったろうが、会社のためによく決断してくれた』と労ってもくれた。
……でも、僕たちはひどく後悔したんだ。何故だか分かるかい?」
僕の問いかけに、美遊は小さく首を横に振る。
「課長にはね、難病を抱えたお子さんがいたらしいんだ。治療にえらくお金のかかる病気でね、課長は親戚にも業者にも借金して、それでもギリギリ生活が立ち行かなくなって……魔が差したらしい」
美遊が小さく息を呑むのが分かった。僕が言わんとするところを、察したのかもしれない。
「僕らはそのことを後で知って、とても後悔したんだ。正しいことをしたはずなのに、課長とそのお子さんを追い込んでしまったのかもしれないって。もちろん、課長がやったのは悪いことだ。最悪、警察に突き出されても文句は言えないような、ね。
それでもね……それでも、僕らの中にはわだかまりが残ってしまったんだ。同僚の中には、会社を辞めてしまった人もいた」
「……せーちゃんも、今でも後悔しているの?」
恐る恐るという感じで、美遊が僕に尋ねる。でも僕は、つとめて明るい声で、こう答えた。
「もちろん、後悔はあるよ? でもそれは、『もっと前に課長の異変に気付けていたら』って後悔さ。
その時の社長がね、僕たちに言ったんだよ。『君たちはあいつを追い詰めたんじゃない。もっと罪を重ねる前に、止めてやったんだ。もし、あいつを追い詰めた人間がいるとしたら、それは窮地を気付いてやれなかった周囲の全員だ』って」
「……」
「社長はこうも言った。『あいつはもっと、周囲に助けを求めればよかったんだ。難病支援団体なり、募金活動なり、今の世の中にも案外と頼れるものはある。それをせず、目の前の安易な方法をとってしまった。だが、それはあいつの過ちだ。君たちが気に病むものではない』とね。
つまり、なんだ。僕が言いたいのは――」
――昔の悲しい出来事を思い出したせいか、僕の声は少し震え始めていた。なんだか、言いたかったこととも、段々ズレていってしまっている気もしてきた。
けれども美遊は――。
「……正しいやり方で正しいことをしたとしても、誰かを傷付けることもある。困った時は一人で抱え込まないで、きちんと周囲を頼りなさい……。せーちゃんが言いたいのは、そういうこと……かな?」
僕の手を握りながら、真剣な表情でそう答えてくれた。
……ああ、僕もまだまだだな。最後は美遊に気を遣わせてしまった。
「うん……。美遊、僕もね、未だに後悔ばかりしているんだ。ああすれば良かったこうすれば良かったと、思わない日はないよ。でも、やり直しが出来ない以上、それを受け止めて生きていくしかない。
だから……うん。一人で抱え込まないで、悩み事はその都度、僕に話してほしい。頼りないかもしれないけど……」
「そんなことないわ! せーちゃんは……素敵な男の人になったのね。私は昨日から、せーちゃんに助けてもらってばかりよ? ……だから、せーちゃんも何か悩みがあったら――」
「ああ、きちんと美遊に相談するよ。家族で、助け合って生きていこう」
美遊の手を握り返しながら、僕は決意を新たにしていた。
もう二度と、家族を――美遊を失ってたまるもんか。彼女の手をしっかり握り、一緒に生きていくのだ。
――けれども、そんな僕の決意とは裏腹に……僕はこの時、美遊の心の内を完全に見誤っていた。
その手をしっかり握っていたはずなのに、その胸の奥にある複雑なあれこれを、全く理解出来ていなかったのだ。
僕がそのことに気付くのは、もう少し先の話になる。
(第二話 了)
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