日向の窓で、君と
澤田慎梧
第一話「帰ってきた少女」
1.喪失
『もし人生をやり直せるなら?』という質問ほど、空虚なものはない。
時の流れは不可逆だ。一度過ぎてしまった時は元に戻せない。やり直しは絶対にきかない。だからこそ人間は、その一瞬一瞬を、一生懸命に生きていかなければならない。
もし人生が簡単にやり直せるなら、きっと誰もが真剣には生きようとしないだろう。
少なくとも、僕はそう思っている。
けれども、そんな僕――
あれは忘れもしない、小学五年生の冬のこと。僕ら家族の不幸が始まった、あの寒い朝のことを、僕は今でも鮮明に思い出せるのだ――。
***
十二月の冷たい空気が身に染みる、ある朝のことだった。
その日の僕は、前日の夜ふかしが祟ったのか、不意の高熱を出して寝込んでしまっていた。
「せーちゃん大丈夫?」
同い年の従妹である
当時、僕の家は祖父母と両親、叔父夫婦、そして僕と美遊の八人暮らしで、それは賑やかなものだった。近所に歳の近い子供がいなかったこともあり、僕と美遊は実の兄妹のように仲良く過ごしていたし、両親たちの仲も良好だった。
「う~ん、ちょっと動けないかも……気持ち悪いし、天井が回って見える……」
「ありゃりゃ。うん、確かにすっごい熱い! せーちゃん、今日は学校休んだ方が良いね」
僕の額に手を置き、熱を測る美遊。その手はひんやりとしていて、とても気持ちが良かったことを、よく覚えている。
「あっ、もうこんな時間! あたし行かなきゃ!」
時計を見て、美遊が慌て始める。僕らの家は辺鄙な場所にあったので、小学校まではバス通学。しかも一時間に二本くらいしか来ないので、一本バスを逃すと遅刻確定だ。
「……行っちゃうの?」
熱が出て弱っていたからだろう。僕は無意識の内に、すがるように美遊の手を掴んでいた。
けれども、美遊はその茶色の瞳を少しだけ揺らしてから、こう言った。
「――大丈夫だよ、せーちゃん。帰ってきたらリンゴ剥いてあげるからね? だから、大人しく寝て待ってて?」
数ヶ月歳下で普段は甘えん坊なのに、この時の美遊はまるで「お姉さん」のような口調で僕を諭してきた。
そのまま、「行ってきます!」と元気よく声を上げて、少し茶色みがかった長めのおかっぱ髪を揺らしながら、家を出ていって――それっきり帰ってこなかった。
家から徒歩五分のバス停に姿を現さず、もちろんバスに乗った形跡もなく、行方不明になってしまったのだ。
警察も、学校の先生達も、他の子どもの親達も――もちろん、僕たち家族も必死に美遊の姿を探した。皮肉なことに、僕の高熱は夕方にはすっかり引いていて、すぐさま美遊の捜索に合流していた。
けれども美遊は全く見つからなくて……目撃情報や遺留品すら皆無だった。
当時、新聞の地方欄にも「現代の神隠し!?」だなんて扇情的な見出しで載ったくらいに、不可解な事件だったのだ。
そのまま時間は流れ、一月経っても、半年経っても、一年が過ぎても、美遊は戻ってこなかった。
警察の捜査も段々と規模を縮小し、ビラ配りなどを手伝ってくれていた人達も減っていった。
最後までビラ配りを手伝ってくれたのは、美遊の親友だったユーキとその家族だけだった。
そうして、明るかった黒木の家は、すっかり火が消えたようになってしまった。
祖父母も叔父夫婦も段々とふさぎ込むようになったし、僕の両親はケンカが多くなった。
そして僕も――
『せいやくしょ くろき せいじゅうろう
ぼくはしょうらい、みゆちゃんをおよめさんにもらうことを、やくそくします
うそついたらはりせんぼんのみます』
『せいやくしょ くろき みゆ
わたしはしょうらい、せーちゃんをおむこさんにすることを、やくそくします
うそついたらはりせんぼんのみます』
小さな頃に美遊と交わした「結婚の誓約書」を眺めながら、自室に引きこもることの多い青春時代を送った。
学校にはきちんと行ったし、友達も少なからずいた。でも、どこか世間から一線退いたような、そんな青春を。
「あの時、美遊の手を離さなければ。わがままを通して彼女にも学校を休んでもらえば」と悔やまない日は無かったのだ。
――そして美遊がいなくなって十五年後。祖父が八十五歳で大往生した。
その歳まで大きな病気も無かったので、かなり幸運な部類に入るのだろう。けれども、その心は最期まで穏やかではいられなかったらしい。
寝たきりになってからも美遊の名を口にしない日は無かったし、最期の言葉も「美遊を探しに行かねば」だった。祖父の晩年は、孫を失った悔恨に支配されていたのだ。
――黒木家の不幸は更に続く。
美遊が居なくなって二十七年後、今度は僕の両親と叔父夫婦が、揃って亡くなった。事故だった。
市内のホームセンターへ四人で買い物に行った帰り、乗っていた車に飲酒運転のダンプカーが突っ込んだのだ。四人とも即死だったらしい。
「苦しまずに逝けたのが、せめてもの救いかねぇ」
四人の亡骸を前に、達観の域へと至ったかのような祖母の言葉が、いつまでも僕の耳に響いた。
こうして、黒木家はほぼ完全に崩壊した。
遺されたのは、アラフォー独身男の僕と高齢の祖母だけ。
広い家屋敷に取り残された僕と祖母は、文字通り寄り添うようにひっそりと暮らすようになった。
――けれども、その暮らしも祖母が足を悪くして車椅子が必要になるまでのものだった。
我が家は辺鄙な所にある。車椅子生活になった祖母は、とても暮らしていけない。
「清十郎さんに、これ以上苦労はかけられないわ」
祖母は毅然としてそう告げると、自分で市内の介護付き老人ホームを見繕い、そちらへ移っていってしまった。
遂に僕は、一人になってしまったのだった――。
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