第4話 捕食者

 小夜とひろしが部屋を出ていってから少したった。薄暗い室内は陰気なままで春馬の不快感は増していゆく。



──二人とも帰ってこないな……いつまでここに居ればいいんだろう……。



 不安に思っていると突然、隣の和室で物音がした。ズルズルという何かを引きずるような音だった。



──な、何だ!?



 春馬は驚いて和室の方を見た。物音は和室の奥、押し入れの中から聞こえてくる。ゾッとする嫌な予感が身体中を駆け巡り、春馬は慌ててバットをかまえた。恐怖で震える膝を励ましながらゆっくり、ゆっくり押し入れへ近づいてゆく。するといきなり、押し入れの戸が勢いよく開かれて何かが飛び出した。



「う、うわぁ!!」



 春馬は目をつぶってやみくもにバットを振り回した。バットは引き戸や壁に当たり、固い感触を残して跳ね返ってくる。やがて恐る恐る目を開けると、開け放たれた押し入れには何もいなかった。



──た、確かに何かいた……どこに行った!?

「ヒュー」



 春馬の真後ろからかすれた息づかいが聞こえる。春馬は大きく目を見開いたまま固まった。



──ふ、振り向いちゃダメだ……。



 そう自分に言い聞かせていても正体を確かめようとして首が動いてしまう。やがて、振り向いた春馬の視界に逆さまの顔がぬるりと入ってきた。皮膚は崩れ落ちそうなほどにただれ、眼球の全てが黒い。雨傘女あまがさおんなとそっくりの姿かたちで天井にはりついている。もう一つの怪異、『宿やどおんな』だった。



「ッッ!!!!」



 春馬は驚きのあまり腰を抜かして床に尻もちをつく。手放したバットがコロコロと部屋の隅へ転がった。やがて『宿り女』はズシャリと床へ落ち、立ち上がると一歩一歩、春馬へ迫ってくる。



──く、来るな、来るな!! 逃げなきゃ!!



 春馬は尻もちをついたまま手を使って必死に後ずさる。しかし、すぐに壁に突き当たって行き場を失った。『宿り女』は春馬に詰めよると真っ黒な目で見下ろした。



──も、もうダメだ……。



 追い詰められた瞬間、恐怖に駆られた春馬の脳裏にとある光景が浮かんだ。それは妹の夏実と手を繋いで公園を歩く自分の姿だった。断片的な記憶はコマ送りのように再生された。


 春馬は楽しそうにはしゃぐ夏実と一緒に公園を歩いている。そんな二人の前に突然、山高やまたか帽子ぼうしをかぶり、上等な紺色のスーツを着た老紳士が現れた。老紳士は夏実の頭をなでながら春馬を見てニヤアとわらった。



──あ、あれ……?



 春馬は迫りくる『宿り女』の顔と老紳士の顔が重なって見えた。



──僕は……以前にも同じような体験をしたことがある。



 バチン。と、春馬の頭の中で何かかはじけ飛ぶ感覚がした。春馬は急に勢いよく立ち上がり、『宿り女』へ向かって自分から顔を近づけた。



「ぼ、ボ、僕ね、歩いてタんだ。こ、公園を、妹のナツミと。そシたら変な帽子ヲかぶっタお爺さンが突然現れテね……ナツミの頭をなでタんだ……そ、そレで、ソれで、そうシたらネ……」



 それは異常な光景だった。春馬は口をめいっぱいに広げ、よだれを垂らしながら覚束おぼつかない口調でまくし立てる。その顔がだんだん歪んでいくと『宿り女』はピタリと動きを止めた。



「な、ナ、夏実ガね……」



 何かを言いかけるたびにフラッシュバックが春馬を襲う。病的な再体験は春馬に封印してきた記憶を思い出させた。


 病院の一室。


 点滴を打たれて眠る夏実。


 泣き崩れる両親。


 呼び覚まされた記憶は春馬の心を深く、鋭くえぐる。春馬は頭を抱えてうずくまった。



「夏実が……眠っちゃっタぁ~」



 春馬の両目からは大粒の涙がポロポロとあふれ出た。



「起きなイ、起きナい、起キないよ!? 僕のセイだ!! 僕ガしっかりシテいなカら!!」



 春馬は頭をきむしり、感情をたかぶらせてわめき散らす。春馬を襲った極度の緊張と恐怖は心に深刻な混乱を招いていた。そして、その混乱は心の奥底で眠っていた感情を揺り起こす。それは憎悪だった。


 圧倒的な憎悪は抑えがたい敵意とともに春馬の心を支配してゆく。春馬は涙目になりながら『宿り女』をジッと見上げた。瞳孔が蛇のように細くなってゆく。



「ボク……ずっト前から、お前ラみたイな存在を知っテいたんダ……そレなのニ、怖いカら、見エないフリをしテた。夏実がアんな目に会ったノに……僕ハ卑怯者のクズだ……」



 部屋中の電灯が激しく点滅し始めた。光と影が交差すると春馬はゆっくり立ち上がる。瞳は赤い攻撃色に染まり、見る者すべてを凍りつかせる憎悪と敵意に満ちていた。



「でも……お前らだって理不尽に人を襲うクズだろ?」



 突然、春馬は冷静に言い放った。とたんに部屋中の窓ガラスが外側へ向かって割れる。マンションの廊下や階下に割れたガラスが飛散した。『宿り女』はひるんで後ずさる。しかし……。


 春馬は『宿り女』へ近づいて崩れかかった両頬に両手をそえる。あれだけ恐ろしかったはずなのに、今は恐怖の欠片かけらすら感じない。あるのは限りない怒りと憎しみだけだった。


 どうすれば『宿り女』を倒せるか? を、春馬は無意識のうちに理解していた。さらに顔を近づけて『宿り女』の黒で統一された眼球を覗きこむ。すると、『宿り女』の目から黒いもやが噴出し、春馬の瞳へ吸いこまれてゆく。


 孤独。


 憎悪。


 殺意。


 『宿り女』の様々な感情が可視化され、目を通して春馬へ流れこむ。春馬はそれら一つ一つの感情を喰らっていった。


 感情は人間だけでなく、幽霊にとっても力の源泉。感情を失った幽霊はただのうつろな影に過ぎず、存在理由を失って消え去ってしまう。春馬は『宿り女』の感情すべてを呑みこむ、一方的な捕食者だった。



「ア゛ーーーー!!!!!!!!」



 『宿り女』は耳を塞ぎたくなるような断末魔を上げて霧散する。力を使い果たした春馬はフラフラと二、三歩進んで崩れ落ちた。遠のく意識のなか部屋へ戻ってくる小夜と寛を見た。

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