一刻

 ちくたく、ちくたく。かち、こち。かち、こち。


 糸子は、高校二年生になっても飽きずに時計を見ていた。彼女がいま見ている時計は、デジタルタイプではなく、針のあるアナログタイプ。手のひらに乗るくらいの、小さな小さな、置時計型の朱色の目覚まし時計だ。時計の上部には鐘がふたつ、目安針(→目覚ましの時間を設定する針)で設定した時間が到来すれば、じりじりとけたたましく鳴るあの典型的なタイプの目覚まし時計。

 そして、その時計は、現国の担当教師・伊庭の頭の上にあった。いばちゃん先生と親しみをもって呼ばれる、穏やかな天然よりの性格の三十路前の男性教師だ。ひょろっとしたのっぽなシルエットは、ご飯から立ち上る湯気のようだと糸子は常々思う。みんなはもやしのようだというけれど、ゆーらゆらと危なっかしく動く様は、ゆらりゆらりと立ち上っては消える湯気のように不安定だから。

 そのゆらゆらとゆらめく頭のてっぺんに、ふさふさな茶色に染めたくせ毛の上に時計は鎮座していた。いばちゃん先生がゆらめいても、決して傾いたり落ちたりしない不思議な時計。たまにいばちゃん先生が頭のてっぺんを申し訳なさそうにかけば、いばちゃん先生の指は時計をすり抜ける。まるで、そこには何もないんだというように。それも、そのはず。この時計は、糸子にしか見えていない、実態のない幻の時計だからだ。


(今日は、10時半ね。昨日より半時間進んだ)


 いばちゃん先生の頭に、その朱色に染まった目覚まし時計(手のひらサイズ)が見えるようになったのは、1ヶ月前。その時計は、いばちゃん先生が糸子に対して背を向けていようが、糸子の方を向いていようが、糸子から見て横顔だろうが、どの向きでも常に糸子から見て正面にあった。まるで、糸子に見てといわんばかりに。

 最初は、針は1時を指していた。そこを起点に、いきなり急ピッチに針が進む日もあれば、しばらく停止していた時もあった。しかし、それは確かに時を進めていた。……かなりめちゃくちゃな進みかたではあったけれど。だって、たった1日で1時間の時もあれば、1秒しか進まないときもあるし、3日くらいすべての針が動きを止めていたときもあるから。糸子に見える時計は、決して普通の進み方をしなかった。


(あしたは何時かな?いつになったら12時を迎えるのかな?楽しみ、楽しみ)


 キーンコーン、とチャイムが鳴って5時間目が終了した。あちこちで、ため息やのびをする生徒が出てくる。ようやく、今日の授業は終わったから、皆が皆思い思いのリラックスをしていた。あとは、10分休憩をはさんでショートホームルームを残すだけ。


(あらあら、佐藤くんにも時計が。確か、初めて見るよね、彼の時計)


 糸子の視線は、今はすぐ前の席の佐藤くんの頭上にあった。置時計型の、横長タイプの小さな小さなデジタル時計。何にも汚れていない純白で、上部にこれでもかというくらい大きなボタンがあって、どうやらまたもや目覚まし時計のようだった。時と分の間の縦に並んだ点が点滅し、時刻は01:20で、12時間表記か24時間表記かはまだわからない。また、人によって開始時刻も違う。経験から、糸子は午前……朝だと予測をつけた。だって、佐藤くんの時計を見るのは初めてだから。


(うわぁ、デジタル初めて見たよ!佐藤くんの頭の上に出るのも初めてかな?あれ、白?純白!初恋?初恋かも!うわぁ、いま出たってことは、いま自覚したばっか、なわけね!)


 糸子はうきうきした。糸子の明日からの楽しみが、またひとつ増えた瞬間だった。



 もう、おわかりだろうか。 糸子には、他の人には見えない目覚まし時計が見える。いつも、目覚まし時計で、他の時計であったためしはない。その目覚まし時計は必ず(※いまのところだ)頭のてっぺんにある。これは、つっるつるにはげていても、ふっさふさでも、後退しかけていても、五分刈りな坊主頭でも同じこと。一度、髪をてっぺんで大きなおだんごにしていたクラスメートの小田崎さんの場合を見たときなどは、おだんごの上にちんまりとのっかっていたから糸子は吹き出しかけたものだ。―――カツラや帽子、髪を直している場合には、まだ遭遇していないのでわからないけれど。

 そして、この目覚まし時計は最初は白か灰色、シルバーのような白っぽい色をしている。それはメタリックだったり、灰色と白の汚いマーブルだったり、佐藤くんのような純白だったり人それぞれによって異なる。この色は、誰もが必ず時間が進むにつれて真っ赤に近づいていく。また、経験から色が白ければ白いほど、初恋の可能性が高いのだ。

 糸子はこの目覚まし時計を春呼び時計、と呼んでいる。単に恋時計でないのには理由がちゃんとある。


(いばちゃんも、告白が近いのかなぁ。するのかな?されるのかな?いばちゃんにもとうとう春かぁ)


 あの目覚まし時計は、真っ赤になると想いが成就する。真っ赤になるときは、すべての針が揃う12時。なぜか最初から赤い目安針が指す、12時に歩を揃えるそのとき、じりじりとか、ばりばりとか、ありきたりなメロディーなどといった千差万別なアラーム音を奏でて、ぽっと煙に巻かれて消える。その日が、成就する日。ただ、どうやって成就するかは、経験から人によって違うみたいだったし、まだ糸子は成就するその瞬間を目の前で見たことがなかった。でも、その日以降、皆想い人と恋人になっているのだ。想う相手との恋が成就する――つまり、まるで春を呼び込むようだから春呼び時計、だ。

 それに、今までずっとアナログタイプの時計しか見たことがなかったから、糸子は佐藤くんの純白デジタル時計がどのようになるかが楽しみでしかたがなかった。目安針の無いデジタル時計の目覚まし時計。自分で設定した時刻のわからない、デジタル。設定した本人しかわからない――糸子は、目安針は神様が設定したと信じていた。糸子にとって、赤い目安針の白っぽい目覚まし時計は“運命の赤い糸”ならぬ“運命の赤い”時計だった。


 なぜ、春呼び時計が糸子にだけ見えるかはわからない。でも、昔から見えていたのだ。確か見え始めたのは、両親が離婚したあとからだったから、みっつの頃には見えていた計算になる。

 最初に時計が見えた人は、離ればなれになる年の離れた兄の頭の上。灰色をした木目調の素材でできた、ましかくの目覚まし時計がそこに鎮座していた。支えている台もないのに、兄が頭を動かしても転がり落ちることはなく、ずっとその状態を保ち続けていたのを覚えている。離ればなれになる兄のあたまにいきなり現れたそれを見上げ、糸子はしょれなぁに?と兄に聞いたのだ。

 兄は面食らって、しばらく固まったあと、糸子にいくつか質問を繰り返し、ようやく納得したあと、糸子に誰にもいってはいけないよ、お兄ちゃんとの内緒だよといって、指切りをしたのだ。

 糸子は、以来ずっとこのことにはだんまりを決め込んでいるから、兄以外は誰も知らない。糸子の親権者である父にだって、そのあと父が再婚した優しくて大好きな義理の母にだって、仲の良い可愛い弟たちにもいったことはない。だから、きっとこの先もそうなのだろう。

 そして、今日も糸子は時計を見続ける。今見ているのは、昨日から見ている佐藤くんの時計。今、彼の時計は02:00を示していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る