かわいいはなには愛がある
@keikho
かわいいはなには愛がある
朝目が覚めれば当たり前のように今日がやってくる。
寝てもとれない疲れとうっとしいぐらいしつこい憂鬱が朝からあたしを包む。
小さな頃から夢だった『動物のお医者さん』になって、約半年。
すでに辞めたい。
小さな頃、誰も助けず弱っていた犬を見て、なぜ助けないのかと泣き叫んで怒って両親を責めたあたしの夢はその時決まった。
大きくなったら動物のお医者さんになろう。
そう思ってはや24年。
大きくなるにつれて、獣医学部に入ることが大変だという現実と、それに見合う自分の能力が釣り合っていないことに気づき、それでも頑固だったあたしは、短いスカートを長くして、潰して履いていたローファーを新しくして、先生たちの反対と同情と哀れみの中だめもとで受けた推薦入試が幸運にも受かり、歴史にまさかの名を残した。
そこから6年間の学校生活を経て、手にした獣医師免許は、薄っぺらの賞状。
それを片手に就職した病院は、地元の比較的大きな病院だった。
現実と理想は違う。
その言葉の重みをあたしは今実感している。
「いってきます。」
好きな赤色。
おしゃれな自転車。
まだ希望もあったあの頃に買った通勤用の自転車も、今はもうどこかくすんで汚れている。
朝は早いし、夜は遅い。
休みは週1日だけで、勉強しないと追いつかない。
けれど、むしろなにをどうやって勉強したらいいのかわからない。
毎日院長には怒られるし、患者さんの顔色を伺う毎日。
出来ることが少なくて、いや結局何もできなくて、失敗ばかり。
そして何より致命的だったのは、『共感』ができないこと。
思いのほかあたしは犬猫が好きではなかったらしい。それは動物嫌いの家族の中育ったからなのか、あたしの何かが欠けているからなのかわからないけれど、どちらにせよ獣医師としては本当に致命的な欠点だった。
泣いている飼い主に共感できない、弱っている子にどうにかしてあげようという感情が起きない。
本当にあたしは獣医師でいいのかな。
こんなはずじゃなかったのにな。
って自分の人生の選択が間違っていた気になって泣きたくなる。
やめればいいのに、と思う自分がいるけれど、どこまでもそこに固執しているのは、自分にかけられた周りの期待とお金と時間。
娘が獣医なの、と笑顔で話す両親を裏切ることなんて到底できない。
あたしがついたため息を風がどこかに運んで行った。
「え⁉︎」
耳を疑う院長のセリフにあたしの思考は停止する。
「この子、あなたが連れて帰って育てなさい。」
そう言ってあたしの目の前にけむくじゃらの小さな塊を差し出した。
「でも、無理です。親も動物苦手ですし…」
「大丈夫、大丈夫。教えてあげるから。」
「お母さんたちには何も言わずにつれていきなさい。」
ニヤニヤして楽しそうな院長と先輩から押し付けられたのは、ちいさな小さな子猫だった。
それは遡ること数時間前。
ずっと通っていた常連の飼い主さんが段ボールを持って現れた。
話を聞けば通っていた猫さんが妊娠して赤ちゃんを少し前に産んでいたらしい。けれど、今日少し開いていた窓から母猫が脱走。車にひかれてなくなってしまい赤ちゃんだけがのこされてしまったという。高齢の飼い主さんには子猫を育てるのは難しいとのことで病院に相談にきていた。
その話に目を輝かせたのは、無類の猫好きの先輩。
すぐに引き取って、せっせとミルクやなんやらとお世話を焼いていたのを、あたしは横目で見ていた。
関係ないはずなのに。
そこからがてんてこ舞いだった。
院長と先生からミルクのあげ方、トイレのさせ方などなどいろんな注意とやり方を教わり、親に荷物があるから迎えにきてと電話して、小さなダンボールに小さなけむくじゃらと、ミルクとシリンジと、お湯が入った空のペットボトルを入れて、あたしは珍しく定時に病院を出た。
「なにそれ!」
期待を裏切らない母親の反応に、あたしは何も言い返せない。
だってあたしだって同じ気持ちだ。むしろこっちのセリフだ。
あたしを前に母親は頭を抱える。
あたしだって同じ反応をしたい。
でも出来ない。あたしは獣医なんだから。
「いい?絶対あんたの部屋から出さないで。約束だからね。」
娘が獣医だからしょうがない、こんな日がくると思っていた、という呪詛にも似た言葉をため息とともに吐き出して、母親はあたしに一方的に約束を突きつけた。
そんなあたしたちをその小さなけむくじゃらは、それはそれは無邪気な顔で澄んだ瞳で見つめてた。
これからどうしよう。
犬はまだ馴染みがある。猫なんてもはや論外。好きと思ったこともなければ嫌いと思ったことがないほど、あたしの人生にはなんの影響も及ぼさなかった生き物なのに、こんな子猫をどうしろというのか。
獣医なんでしょう、とどこからか聴こえてくる。
やめたいのに、この仕事になんの誇りも希望も見出せていないのに、一丁前に育った変な正義感。それが私の心を思考を複雑にする。
それでも最低だと思うのは、この子をどうにか救ってやりたいという気持ちより、この子に何かあって院長に怒られたくないという気持ちのほうがあたしを突き動かしていたこと。
やっぱりむいてないのかな。
別に今考えると本当になりたかったのかわからない。
そう言う風に言われてきたから、勝手に自分の夢だと勘違いしていたのかもしれない。
ミーミー鳴いてる子猫の前で、3時間おきのミルクと排泄補助に眠りを奪われたあたしの頭はどうやら正常に働いていないらしい。
どんどん明るくなっていく空とは反対にあたしの思考は暗く暗く沈んでいった。
それからのあたしとけむくじゃらの生活はバタバタだった。
朝起きてまずミルクと排泄。
元気がいいから動く、動く。
慣れないあたしはうまく出来ずに少しイラつく。
自分の出勤の準備をしたら、急遽買ったケージにタオルと暖かいお湯を入れたペットボトル、けむくじゃらを入れてフラフラしながら自転車で病院に通勤。
病院では先輩が預かって育てている兄妹猫と一緒のケージに入れてこれまた3時間おきのミルクと排泄。でも病院ではみんなが手伝ってくれるから気が少し楽になる。
帰りも一緒に帰宅して、夜中も3時間おきのお世話。
灰色で動かなかったあたしの世界が一気に猛スピードで動きだしているのがあたしでもわかった。
ずっと一緒。
何をするのも、どこに行くのもずっと一緒。
それがだんだん当たり前になっていく。
そしていつのまにかうまくなっていくミルクと排泄の補助。
そしていつのまにか成長していくけむくじゃら。
自分でごはんを食べれるようになって、トイレも覚えた。もう3時間おきのミルクも排泄補助も必要ない。
体重もどんどん増えて大きくなった。
そしていつのまにか家でのけむくじゃらのテリトリーが広がって、あたしの部屋からださないという約束はどこかに吹き飛んでいた。
みんなが過ごすリビングルームをけむくじゃらが走る、走る。
ぴょんぴょん飛ぶ。跳ねる。
パシャパシャとカメラの音が鳴る。
笑い声が増える。
いつのまにか世界はけむくじゃらを中心に回っていて、あれほど拒否していた母親は手のひらを返したようにけむくじゃらを慈しむ。それはまるで我が子のように。
でもやっぱり出会いがあるから別れもやってくる。
里親を探すために声をかけていた友達から連絡があったのは突然だった。
「実家の隣のおうちの方なんだけど、猫ちゃん亡くされてて…。子猫の話したらぜひって。」
「ありがとう。助かる。」
ほんとに?本当に心からあたしはその言葉を言っていいるのだろうか。
「ワクチンとかはこっちで済ませておくから。」
「ありがとう。すごい楽しみにしてるみたいだからよろしくね。」
電話を切ったあとに里親が見つかって嬉しい気持ちのほかに、ムクムクと顔を出そうとする切ない何か。あたしはそれに気づかないように目を閉じた。
その日はあっという間にやってきた。
新幹線で遠くにいくこのけむくじゃらをあたしは最後に駅へと運ぶ。
用事がたまたま合った先輩が友達の所まで届けてくれることになった。この子にとっては最初で最後の新幹線なんだろうな、とどうでもいいことをぼんやり考えてみる。
それでも滲んでいく風景。
通勤ラッシュの人混みがあたしとけむくじゃらを置いてせわしなく時間を動かしている。
幸せになってね。
家族になれなくてごめんね。
どうしても何を考えても何を思っても、最終的にそこに行き着いてあたしはもう我慢できなかった。
改札のまえでペット用のケージを抱えて、オイオイ泣いてるあたしを横目でみんなが見つめていく。危ない奴だと怪しい奴だと避けていく。
それでもあたしは全然気にならなかった。
「何泣いてるの?」
ケラケラ笑う先輩もどうでもよかった。
切なくて、悲しくて、苦しくて、寂しくて、それでもどこかこの旅たちが嬉しくて、とにかく幸せになってほしいと心から願う。
こんなにもあたしはこの小さいけむくじゃらを愛していて、大好きで、大切だったとこの時確信した。
いや、けむくじゃらじゃない。
小さな君には名前があった。
仲のいい友達の名前から勝手にとって冗談混じりでつけた名前。
たぶん、違う名前になるのだろうけれどあたしはずっと一生わすれない。
そしてこの気持ちも忘れない。
わからないことがいっぱいあって、理解できないこともいっぱいあるけれど、あたしを正してくれて、愛という壮大な存在の片鱗を見せてくれて、ありがとう。
明日は容赦なくやってきて、そもそも今からあたしはこの腫れて赤くなった目で出勤だけれど、もうちょっと頑張れそうな気がする。
元気でね。
どうかしあわせに。
あたしは心でそう願った。
かわいいはなには愛がある @keikho
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