第4話 セナ

 アパートに戻ると赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 今朝また、鳥人が南から赤ん坊を連れてきたのだ。

 サキは枯れ葉のように積もった羽根を踏みつけながらエントランスに入った。ここではろくに掃除をするものもいないし、掃除をしてもすぐに羽根が落ちるので床は絨毯のように茶けた羽根の残骸でおおわれていた。本当に鳥の巣のような茶色い住みかだった。

 コンロも調理器具もないキッチンに入ると、テーブルの上にはフルーツケーキが置いてあった。手に取ろうとしたとき、視線を感じて入り口を振り返った。


「おかえり」


 トパーズのようなオレンジ色の瞳と髪をもつ少女がうつむきがちに立っていた。きれいな髪をいつもおさげ髪にしているトリンという女の子だった。

 サキは伸ばしていた手を引いた。


「それ、私が作ったの」


 そう言われて、サキはケーキをひとかけら取った。


「自分で?」

「うん……教えてもらったの」

「誰に?」


 サキは問いつめるような口調で言った。

 案の定、トリンは言いにくそうに口をつぐんだ。


「人間に?」


 サキがかわりに言うと、彼女は気まずそうにうなずいた。サキは顔をしかめた。

 少しためらったのち、彼はケーキを口の中に入れた。フルーツケーキは少しだけ焦げていた。


「どう?」

「いいんじゃない?」


 トリンは微笑んだ。


「人間と仲良くしてるのか?」

「お菓子を作るのが、おもしろくて……」


 トリンは顔を赤らめて、もじもじとしている。


 ――来年、お前は南にいくんだろう? そんなこと覚えたって意味ないじゃないか。


 そう言おうとしたけれど、ケーキを頬張っていたので言わなかった。それに、自分が言ってもなんの説得力もないことをサキは分かっていたからだ。

 トリンはいつまでも戸口に立ったまま、落ち着かなげにしている。サキがケーキを食べ終えて指先をなめていても、まだうじうじとしていた。


「なに?」


 サキはうんざりとして聞いた。


「市長の話、どうだった?」

「別に」


 サキが冷たく答えると、トリンは困ったように笑い、そして去っていった。

 ふいに、自分の視界を透明な霧がおおっているような気がした。

 トリンに対して、自分はこんなにそっけない態度で接していただろうか、と疑問に思った。数日前まで、自分がどのように生きていたのか、急に分からなくなったようだった。


 南に行かない鳥人がどうなるのか。

 サキはぞっとして、そんな心の反応を示した自分自身に驚いていた。

 心の重りを払うように、彼は乱暴に部屋を飛びだした。

 日が短くなり、昼を過ぎたばかりだというのに、もう空の色が落ちて暗い影がおおい被さってこようとしていた。気持ちの動揺に呼応しているのか翼までかさかさとして具合が悪いようだった。

 羽根が言うことを聞かない。翼の付け根も心なしか痛いような気がする。そんなことをいちいち気にしていると、身体のすべてが自分のものではないような、肉体がここではないどこかにあって、夢の中で自分を認識しているような、切り離された違和感に襲われた。それも、冬がはじまったせいだろうか、と思った。そう思いはじめると、確かに冬の景色は妙によそよそしい、としか思えなくなった。


 気がつくと、サキは東区にほど近い雑木林に囲まれた岬に来ていた。半透明の鉱石のような曇った波が静かに、けれど、幾重にも浜に打ち寄せている。水平線は黒い雲でおおわれていて、それが心にも反映するように嫌な感じをおこさせた。

 サキは岬にひっそりとたたずむ石碑の前にしゃがみこんだ。潮風に削られている無骨な石には、下手くそな文字で名前が刻まれている。

 それは、セナの墓だった。

 冬の来る前日に供えた花は、すでに花びらが散っている。ざらざらとした石の表面をなでると、簡単に粉状になってしまうほどやわらかい。十年も経てば風化してしまうのではないかと思うくらいだった。


「セナ、僕は行かなかったよ」


 サキは穏やかな声で独り言を言った。


「それを知ったら、セナは笑うかな?」


 まるで風が返事をしてくれるのを待つように、彼は少し黙った。


「でも、僕は、セナを置いてはいけないよ」


 サキは一人で苦笑した。

 潮風が強くなってきた。

 水平線の雲から糸のように細い閃光が走った。


 サキは立ち上がると、それを凝視した。まるで雲と海面の隙間を精霊たちが移動しているかのように、紫色や緑色、黄色と次々に色を変えながら光っていた。

 彼はしばらく魅入っていた。美しいと感じていた。

 しかし、それが稲妻だということを理解した瞬間に、足が震えた。

 なぜ、それを見た瞬間に気がつかなかったのか、自分でも不思議だった。ともかく、一度理解したあとからは、水平線が雷に焼かれているようにしか見えず、不吉な光景としか思えなかった。隠れていた不安な気持ちが心臓を打ち、サキはみぞおちを押さえた。

 鳥人は雷を恐れる。

 それもまた、彼らの本能だった。

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