堕落

朱里 窈

堕落

何も間違って無かったはずだ。

海馬を廻す。

けれど自分のミスなんて何一つ思い当たるものがない、ただマニュアルに沿って僕は。


八月の空はいやに綺麗な蒼に染まっていて。白い雲がかえって眩しくて。


一瞬焦りはしたが窓の外の景色が段々下がっていくのが見えて僕は操縦桿から手を離した。脱出する気は起きなかった。


訓練の日々か走馬灯に照らされ頭の中を駆け巡る。同じ日々を過ごした仲間の顔、教官の顔、故郷に残してきた家族の顔、かつて恋人だった女の子の顔。

そして気付いてしまう、これまでの人生で何かやり遂げたか その答えに。


脱出する気が起きなかったのはどうせ墜落するなら脱出するのももう少し後でもいいだろうと思ったから。もう少しこのシートに座っていたかったから。もし生き延びたとしてこの先の人生に意味なんてあるだろうか、なんてことを考えてしまったから。

計器が目まぐるしく動く。最早こうなってしまっては僕の経験では何とかなる事態ではないのだろうと大雑把に悟る。


どうせ脱出して怪我して教官に怒られて責任を取らされ始末書を書いてまた今までの日々をなぞって…それならばまだここで死んで人生を締めくくった方がマシなのではないか。


そう思えば思うほど、思考は死へと一直線に落ちていく。この冷たい棺桶と同じじゃないかと一人嗤う。


『脱出しろ!!おい!聞こえないのか!!マーク!おい』


叫ぶ教官の声が五月蝿かったので無線を切った。それはまるでリビングでテレビを見ながら寝落ちして起きた時に力なくテレビを消すように、体に心を任せた行動だった。

よく考えてみたら飛行機が墜落するのが分かったから諦めるのも体に心を任せた行動なのではないだろうか。両手をフリーにして上を向いてみた。景色は忙しく揺れていたが斜め上のまだまだ明るい空に月が見えた。


僕の目線は青空に現れた下弦の月に釘付けになった。何秒経ったろうか。思考は少しずつスローになっていくのに脳は止めどなく分泌されるアドレナリンで時間を歪めさせる。


見上げてから二秒ほど経った頃だろうか。一つの黒い影が月を切るかのように飛んで行ったのが見えた。

僕はハッとさせられ、姿勢を戻し操縦桿を握りしめる。けど次の刹那それが無意味であることを思い出し苦笑する。

再び窓の外に目をやると黒い影が機体の横に現れ、眼下の雲にミサイルのように突っ込んでいった。

「何だ、あれ…」

声を発するのが何年かぶりのように思えた。そんなことは本当にどうでもよかった。


黒い影の姿を頭の中で反芻する。サイズは人より少し大きいくらい。多分だけど羽のような者を持っている。あと黒い…それくらいしか分からなかった。


他に誰か見た者はいないか無線をオンにした。真っ先にアンノウン発見と言いそうになったが無線の向こうからは前に訓練をさぼってデートに行ったことのあるオペレーターのカーラの泣き叫ぶ声と昨日サシで酒をやった教官の怒号と周りの騒ぐ声が聞こえたのでそっとまた無線を切った。


この時点で僕はもう完全に脱出する気は無かった。


あの黒い影は死神かもしれない ここで散る僕の魂を回収しに来たのかもしれないな。そんな事を一瞬思った時だった。


≪おぉ、ご名答だよ人間≫


頭の中に低い声が響いた。


「何だ!?」


反射的に僕は問いかけていた。


≪おーい、こっちだこっち。≫


また声が響いた。どこだ?周りを見渡そうとしたら僕の左側にそれは当たり前のように並行していた。


≪私は死神だ、お前が想像した通りな≫


その姿は黒いローブを纏うかのように闇で身を包んだというか闇そのものなのか。分かりやすく説明すると黒い小さな雲にカラスの羽が生えた姿をしたそれは死神を名乗った。


言葉を失った僕はそれを見てただ


首痛めるから正面に来てくれないかなあ


そんな呑気なことを思った。


≪わがままだなお前。≫


そうだこいつは思考が読めるんだった。


≪まあいい。どうせお前死ぬんだしサービスしてやるよ≫


そう言って死神は機体の前、というかキャノピーの前に張り付いた。


「ありがとう」


≪どういたしまして≫


ふっ、普通に答えられたからか少し笑ってしまう。


≪何が可笑しい?≫


「いや何でも。

所でさやっぱり僕は死ぬのか?」


≪おうよ。もうどうあがいても死ぬの確定してるぜ。≫


へえ。そう言われると生きたくなるもんだな、と一瞬思ってしまった。


≪ベイルアウトのレバーを引くのか?やめた方が良いぞ。≫


「何故だ?」


≪壊れてる。キャノピーは吹っ飛ぶがお前は吹っ飛ばない。≫


もしその状況になったら、想像してゾッとした。と同時にベイルアウトしたらどうなるか習ったことを思い出した。だったら…


≪どうせ死ぬなら苦しく無い方が良いだろう?≫


同意見だった。僕はレバーから手を離した。


≪死ぬ瞬間に私がお前の魂を吸ってくから。それまで宜しくな。≫


死神は淡々と告げた。


それから僕らは永遠にも思えるほど永い時間をキャノピーのガラス越しに語らいながら過ごした。

ただ墜落していく僕らは今何よりこの世界から遠くて、何よりも死の世界に近い存在のように思えた。

死神とは色んな話を交わした。死神がどんな存在か、今まで回収した魂の持ち主の話おか、僕の今までの話、どうしてパイロットになったのか、とか。

僕はこれから死ぬというのに、死神はそれを知っているのに、まるで二人は酒の席で隣になったように笑いながら語り明かした。

それは幻なのかもしれない。

それは夢なのかもしれない。


重力に引かれ一直線に地球へ飛行機は墜ちていく。


それは何故かとても心地のよいことで


僕は目を閉じていた。


≪お、もう少しだぞ≫


何となくそんな気はしていた。


≪そうか。ま、良い時間だったぜ。≫


俺もだ。


そう想ったとき、頬に風を感じた。


そうだ。俺はただ空に自由を求めていただけだった。意図せずしてそれは達成された。

鳥のように、雲のように、そして宙に伸びていく一本の美しいロケットのように。


最後に、と空を見上げた。空には太陽と、月と、一本の飛行機雲がただそこにあった。


≪じゃ、時間だ。≫


人はいつも空を目指した。太陽を目指した男は太陽に近付き過ぎた罰としてその蝋の羽をもがれ地に堕ちた。けれど人は空を諦めなかった。やがて人は飛行機を作った。やがて人は宇宙を目指した。人の願いは受け継がれていく。人の意思はただ空へ向かっていく。ただ真っ直ぐ、純粋に。


人はどうしようもなく悲しいとき、これ以上無く嬉しいとき、やり場のない怒りを覚えたとき、何も言えないほどやるせないとき、そしてもう居ない人を思うとき、無意識のなか空を見上げる。


それは不思議なことじゃなく、今まで受け継がれてきた人の空を思う気持ちからくるものではないだろうか。

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