アイの友人達
思わずリーンに手を出してしまったアイであったが、本人も喜んでいるからと、場は騒然としたものの怒られる事もなく、リーンも床に這いつくばりながら、頬を赤くしながら痛みを噛みしめ笑みを浮かべていた。
焦ったのはアイの両親である。「今日はこれで失礼します」と慌ててアイの腕を掴み、
もちろん辺境伯夫妻は怒ってなどいない。それ故に急に帰ると言い出され、玄関先まで見送りに向かう。
余計に困ったのはアイの両親。只でさえ格上の身分の二人にわざわざ玄関まで見送りに来させてしまったのだ。本来、あってはならない事態に恐縮しまくった二人は、アイを馬車の中へと無理矢理押し込み、急ぎ家路へと出立したのであった。
アイ達の馬車が見えなくなったタイミングで、リーンが屋敷の中からやって来る。今も平手の痛みに恍惚な表情をリーンは浮かべていた。
「もう帰っちゃいましたか……父上」
「……リーン、お前はどう見る?」
目付き鋭く光らせた父親の質問に、リーンの表情も同様に一変して真剣な顔つきになる。
「上出来……と言ったところでしょうか。僕の妻としても、そしてブルクファルト家としても」
「お前の見込んだ通りと言うわけか」
「ええ、だから言ったでしょう。たとえ身分や年の差があっても彼女を娶る利は、充分にあると。例えばこの魔晶ランプ。素手で持つにはちょっと熱いですが布に巻いて懐へ入れておくと暖が取れるので、軍の冬場の行軍に充分使えます」
辺境伯は「なるほど」と溢し、リーンの肩をポンと叩いて屋敷の中へと辺境伯夫人を連れて戻っていった。
一人、自室に戻ったリーンは、メイド達を追い払うように人払いをするとベッドにゴロンと横になった。
「あの目……」
リーンはアイに一時向けられた蔑むような目を思い返し、体をぶるっと震わせる。
「危うく、僕が本気になるところだった……。この婚約期間の五年間……彼女のその才を利用する、ただ、それだけのはずなのに……」
うまい話には裏がある。リーンの変態など序の口に過ぎないことを、アイはまだ知らなかった。
◇◇◇◆◆◆◇◇◇
「──という訳。ヒヤヒヤしたわよ、辺境伯様を怒らせてしまうところだったわ」
自宅へと戻って来たアイは、ブルクファルト領での出来事を包み隠すことなく全て吐き出すと、アイの前に座り、話を聞いていた青い髪を肩まで伸ばした女性は、思わず笑いがこみ上げて来るのを我慢していた。
自宅の庭にはアイの母親であるレイチェルが趣味で育てた色とりどりの花が咲く。綺麗に剪定された鮮やかな緑色の芝生の絨毯。その芝生の絨毯の上には白いテーブルが置かれ、テーブルの上には二つのティーセットが並んでいた。
いかにも典型的な貴族のティータイム風景。そこには、二つ似つかわしくないものがある。
一つは、石壁の建物。歪な形の石を石膏で固め組んだ壁。中には十人ほどのアイが雇った職人が働いている工房であった。最初は、アイが専用で使うためであったが、規模が然り気無く大きくなっていき、今ではちょっとした町工場規模になっていた。
そしてもう一つ似つかわしくないのはアイである。令嬢らしからぬ職人と全く変わらない紺色の作業着。上下が繋がっている、前世でアイが愛用していたつなぎ服によく似ていた。
今は作業を終え、顔や手に汚れが付いたまま談笑している。上着の部分を脱ぎ上半身は、白いブラウス一枚のみ。母親に「はしたない」と怒られそうである。
「ねぇ、代わってくれない?」
「もお、アイ様は何を言ってるのですか。私はアイ様の結婚式が今から楽しみなのですよ」
アイの目の前にいる女性、背が低く見た目は年下に見えるくらいにあどけなさの残る顔立ちをしている。ちょっとポヤンとした雰囲気に垂れがちな目が愛らしい。
彼女の名前はラムレッダ・スカーレット。スカーレット子爵の孫娘の三女。スカーレット子爵と、アイの父親であるバーナッドは懇意にしており、子爵故に領地は与えられていないが、ここスタンバーグ領内に屋敷を構えている。
その縁もあり、実は同じ年齢ということもあって、アイの良き友人、良き理解者として、ラムレッダは結婚して家を出てからも、度々こうしてお茶をしに来ていた。
「ラムは良いわよねぇ、旦那が普通で…………いや、そうでもないか、あの
「誰が冷徹眼鏡ですか」
「痛っ」と後ろから何かで頭を叩かれたアイは思わず発する。ハスキーな声の主に直ぐに誰が叩いたのか気づいたアイは、恐る恐る背後を見ると、予想通りの背が高く細身の男性が立っていた。
「ゼファー……」と、不服そうに口を尖らせるアイに対してゼファーと呼ばれた男は、半ば呆れ顔に変わる。
「全く、お嬢様は……。ん、なんだラムレッダ、来ていたのか」
「ええ、アイ様がお帰りになったと聞いて……。あなたも人が悪いわね、教えてくれたらいいのに」
「俺も昨晩急に帰って来たのには驚いたところだ。二、三日後だと聞いていたからな」
彼をゼファーと呼ぶのはアイだけであり、本名ではなく愛称になる。
本名はゼファリー・バルバス。バルバス男爵家の次男坊であり、今はラムレッダの旦那であった。
銀色の髪をオールバックにしており、銀縁の眼鏡の奥の目は切れ長で如何にも仕事の出来る男を装っている。アイが冷徹眼鏡と言うほど表情は固く、目力が強く鋭い。
元々、剣などの武術全般不得手なゼファリーが数字に強いと、ラムレッダからアイは聞いていた。そして、ラムレッダとの結婚式で、一目見て才能を見抜いたアイは彼を雇う事に決める。当時から現在に至るまでスタンバーグ領の経営面を任されているアイにとって、是非とも欲しい人材であった。
「それでゼファー。どうしたの?」
「こちら、今月の収支報告書です、お嬢様」
「ふぅ……これで一つ肩の荷が降りるわね」
アイは、自分を叩いたであろう紙束を受けとると、中身を確認して胸を撫で下ろす。
「今月も黒字ね。これで安心出来るわ。じゃあ、あとは弟に引き継いでちょうだい」
ざっと一通り目を通すと、アイは紙束をゼファーへと渡す。アイの作ったぶどう酒や魔晶ランプで経営を建て直してきていたスタンバーグ家。父親のバーナッドは、アイに経営面を一任させていたのだが、この度アイが婚約で家を出るために、伯爵家を継ぐ弟へと引き継ぎを行っていた。
「畏まりました、お嬢様。……で、婚約の方はどうだったのですか? 確かまだ十一だとか」
「最悪。ちょっと話、聞いて──待って、何であなたが私の相手が十一だと知っているのよ? 私だって、ブルクファルト領に向かう途中で聞いたのよ?」
ゼファーは肩を竦めてやれやれと、アイを馬鹿にするように大袈裟に身振りを行う。
「情報は大事ですよ。辺境伯、それもブルクファルト領のとなるとちょっと情報集めれば年齢くらいすぐにわかります。しかも、有名人でもありましたし。ブルクファルト家きっての英傑、そして変な子供だと」
「はー。いつの間に調べたのだか」
「お嬢様のお相手が決まってラムレッダに言われて、すぐに調べたので三ヶ月くらい前ですかね」
アイは思わず立ち上がりゼファーの胸元を掴みあげた。
「ちょっとー! 何でもっと早く教えてくれなかったのよ!! そうすれば婚約断ってたわよー!!」
「えっ、アナタ。私、アイ様に伝えて欲しいって言ったわよね?」
「ああ、忘れてました──もちろん、わざとですけど」
平然と言ってのけるゼファーの首を締め上げる勢いであったが、アイは急に脱力して椅子へと戻る。
「はぁ~、今さら怒ってもしょうがないわね」
「お嬢様の年齢、それとお相手の情報を精査した結果、言わない方がいいかと思っただけです」
忌憚ない意見を言うゼファーをアイはキッと睨みつけるも、平然としている彼を見てると、怒るのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
「で、ゼファーはどう思うの? リーンの情報、集めたのでしょ?」
「身体は子供ですが頭脳明晰、それが俺が抱いた第一印象です」
「どっかの名探偵かしら?」
「はぁ?」
何の事だか分からず小首をゼファーは傾げた。
「ご免なさい、こっちのことよ。続けて」
「覚えていますか? 三年ほど前に起こった、ザッツバード侯爵家による内乱を」
「ええ、それが?」
「それを僅か一日で解決したのがブルクファルト家の嫡男という話です」
アイは目を丸くする。三年前だと、当時リーンは八歳ほどだ。詳しい経緯をゼファーに聞いたものの、詳細は分からないと言う。
記憶にある経緯だと、ザッツバード侯爵は野心家で、その領地が王家のある首都とかなりの距離な位置に離れている為、人を雇い兵士を集めれ独自の軍備を整えていた。そして、いざ王都へと思った矢先、どこかの領地の軍隊と遭遇し、あっという間に壊滅した。
この内乱は、この国ラインベルト王国における歴史上、最も間抜けな内乱として残されている。
「リーンがねぇ……。確かにブルクファルト領とザッツバード侯爵領って隣接はしているけれども。今、ザッツバード領ってどうなっているの?」
「さあ、なにぶん遠方なので。情報を集めればすぐにわかると思いますが、この手の話は、商人の方が詳しいかと。例の件もありますし──」
その時、「毎度ーーっ!」と大声で、堂々と勝手に屋敷の庭に入り込んだ人影が現れる。
「噂をすれば、なんとやらってやつね」
赤茶色の髪をした鼻の上にそばかすのある少女は、アイを見つけると嬉しそうに駆け出して来たのであった。
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