雨上がりの月夜には
朝日奈
雨上がりの月夜には
夜に外を歩くのは好きだ。
それも、こんな雨上がりの月夜ならなおさら。
九月の残暑に特有の、夏の名残の温い空気が昼間に降った雨で全て流されてしまう。
夜の空気はひどく澄んでいた。温い空気はあんなに重かったのに、澄んだ空気はどうしてこうも軽いのだろう。
気を抜けば足が地面を離れて浮き上がってしまいそうだ。
そんな私をなんとか地に留めているのは、温い空気を含んだまましっとりと地面に張り付く雨水だ。
雨が止んだのは大分前とはいえ、地面の水分はまだ完全に乾いてはいなかった。
よくよく感じてみると、澄んでいると思われた空気もほんのりと湿り気を帯びていることに気付く。
その証拠に、見上げた月もぼやけて見える。
雨に濡れて滲んでしまったのだろうか。
護衛にと連れてきた愛犬も月を見上げて心配そうにか細く鳴いた。
そんなに心配しなくても、溶けて消えたりしないから大丈夫だよ。朝になればきっと太陽が乾かしてくれるさ。
そう言いながら頭を撫でてやると、彼は納得したのか頭を下ろし、また歩き始めた。
「こんばんは」
夜の空気を堪能しながら散歩を続けていると、不意に声を掛けられた。
近所の人間かと辺りを見回してみたが、知り合いどころか人っ子一人見当たらない。
周囲に街灯はないが、頭上から降り注ぐ月の淡い光で視界はいたって良好だ。だから暗くて見えないというわけではないのだ。
本当に誰もいない。
「気のせいか……」
とは言いつつ、周囲に気を配りながら足を踏み出す。
「こんばんは」
やっぱり聞こえた。
「こ、こんばんは……」
挨拶はきちんとしなさいと小さい頃から教えられてきたので、とりあえず返事をした。しかし、声を主がどこか分からないので、キョロキョロと首を振りながらだが。
私の動作を見て気がついたのか、声の主が呼びかけてきた。
「こっち、こっち」
それでようやく私は声の出所が分かり、そちらを振り向いた。声は私の背後、下の方から聞こえてきた。子供かな?
しかし、振り返ってもそこには誰もいなかった。誰もどころか何もない。あると言えば、月光のシャワーを浴びて、湿ったコンクリート色にかたどられた私の影くらいだ。
私は自分の影と睨めっこしながら首をかしげた。
おかしいな、確かにこっちから聞こえたはずなのに。
すると、また声が聞こえた。
「逆ですよ、逆。あ、いや、やっぱり間違ってないのかな?」
私の聞き間違いでなければ、それは間違いなく私の影から聞こえてきた?
「ええ?」
おもわず大声で素っ頓狂な声を上げてしまった。近所の皆さん、ごめんなさい。
右手に巻きつけた縄が引っ張られたので振り返ってみると、愛犬が驚いた様子で後ずさりしていた。
おいおい、君はそれでも我が家の番犬か。
呆れたようにため息をつく。しかし、内心は私も彼と同じだった。後ずされるものなら後ずさりたい。相手は影だから全く意味がないわけだが。
もう一度自分の影を凝視する。
「これは失礼。驚かせてしまったかな?」
また喋った。しかも今度は頭を下げる仕草をした。もちろん、私がやったわけではない。
「あのー、あなたはどちらさん?」
おそるおそる聞いてみる。
「おお、これは失礼。自己紹介がまだでしたな。私は月です」
「……はい?」
お月さん?
「だから、月ですってば。ほら、あなたの後ろからも見えるでしょう」
言われて振り返ってみる。頭上を仰ぎ見ると、確かに石膏のように白い月が煌々と輝いている。
「そうそう、ようやくこちらを向いてくれましたね」
「いや、向いてるのはそっちじゃないんですけど」
私は首だけねじって影に言った。
「ああそうですね。すいません、ややこしくて。ですが、あなたと話をしているのは本当にあなたの上にいる私、月なんですよ。ですが、この距離だとあなたまで声が届かないんで、あなたの影をお借りしました」
申し訳ありませんでした、と月は丁寧に謝り、また恭しく私の頭を下げた。
「そうだったんですか」
私はもう一度月を見上げた。確かにあそこから直接話しかけるのは難しいだろうな。
「それで、お月さんが私に何か御用ですか?」
私は月と影を交互に見ながら尋ねた。
「ああ、そんなに首を動かしては疲れるでしょう。話すときはこちらを見ていてくださって構いませんよ」
こちらと言われてもどちらだ言いたくなるが、おそらく月の方を見ていろということだろう。私は一度愛犬の様子を窺ってから顔を上げた。もう怖くなくなったのか、彼は私の影に近づき、フンフンと鼻で匂いを嗅いだり、足で踏みつけたりしていた。
「いや実はですね、私は先程まであなたがたが散歩をしているのをずっと見ていたんですが、あなたがあまりにも心地よさそうに歩いていたものですから、つい私も浮き浮きしてしまって声をかけてしまったんですよ」
そう言って、月はクスクスと笑った。私はというと、それを聞いてすっかり顔が火照ってしまった。見られていたのか。
恥ずかしさのあまり逃げてしまいたくなったが、どこからかひんやりと冷たい風吹いてきて火照った頬を撫でた。そのおかげで、寸でのところで冷静さを取り戻すことができた。
「すいませんね。あんまり良い月夜だったもので、つい浮かれてしまったんですよ」
私はどこか皮肉交じりに答えた。
「いえいえ、とんでもない。私など人々の生活を覗き見るか、星の数を数えるくらいしかやることのない暇人です。そんな風に褒めていただくほどの者ではありませんよ」
その月の言い方があまりにも謙っていたので、私は思わず噴き出してしまった。
「そんなに恐縮しないでください。こんなに立派に輝いているのに。私が浮かれていたのもあなたのおかげなんですから」
「そう言われるとなんだか嬉しいですね。ですが、私はいつもと同じようにこうやって空に佇んでいるだけですよ。一体何がいつもと違うんですか?」
「ああ、それは……」私は口を綻ばせた。「雨上がりだからですよ」
「雨上がり? そういえば昼に雨が降ってやることがなかったと、太陽さんが言っていましたね。それが関係しているのですか?」
後ろを振り返っていないから分からないが、きっとこの時、月は首を傾げていたに違いない。
「そう。雨上がりの夜はすごく空気が澄んでいて、なんていうか、いつも見ている景色が少し変わるんです。見慣れている場所なのに、全く知らない別のどこかのように感じて、まるで冒険している気分になる」
「なるほど、それは楽しそうだ」月は楽しそうにうんうんと頷いた(ような声を出した)。「それに、あなたのその気持ちは分かります。確かに私も今夜はいつもと違う感じがしていたから。なるほど、これはそのせいだったのか」
さらに納得したように頷くと、突然思い立ったように口を開いた。
「では、私はあなたの冒険を邪魔してしまったのですね。これは悪いことをしました」
「そんなことないですよ。これも冒険の一つですから。普段なら月と会話することなんてできなさそうだし」
「それもそうですね。私も人と話すなど、もう随分久しぶりです。これも雨上がりの夜だったお陰ですね」
私達はともに笑った。
「それでは、私はそろそろお暇しましょう。なんだか他のところも見てみたくなってきた」
「冒険ですか?」
「はい」
私達はまた声をそろえて笑った。
「では、道中お気をつけて。道は私が照らしましょう」
「ありがとう。そちらも、良い旅を」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
それからは何を言っても月からの返事は返ってこなかった。今頃、どこかで他の誰かとおしゃべりしているのだろうか。
頭上を見上げると、相変わらず少し滲んだ月が淡い光で道を照らしていた。
月が濡れているのか聞けばよかった。濡れているのなら、早く乾かさないと風邪を引いてしまう。あの月ならば、それすらも楽しみそうだが。
「あー、いい月夜だなあ」
やっぱり夜の散歩は好きだ。
こんな風に雨が上がった後の夜は特に。
きっとちょっと変わった、けれどもとても素敵なことが起こるから。
fin.
雨上がりの月夜には 朝日奈 @asahina86
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