ヒッチハイク物語 第3部 思い出のヒッチ旅行
鈴木ムク
第1話 流星の見えない夜
幾千、幾万もの星が夜空を流れ墜ちる、そういって騒がれた日があった。
宇宙の彼方からやってきたジャコビニ流星群が、その日地球の軌道を横切るというのである。流星群は無数の氷のかけらからなり、一部が猛烈な勢いで大気圏に突入して燃え、流れ星となって夜空に輝くというわけだ。
おそらく、一生に二度とは見られない宇宙の大スペクトラルとなるだろう。それは北空でおこるので、日本では北海道か北陸沿岸で良く見える、とニュースは伝えた。冬がそろそろドアをノックする十一月のことだった。
人の運命があらかじめ星の運行によって決められているとしたら、この日にはどんな運命が待ち受けているのだろうか。そう思うと、ぼくはどうしても流星群を見たくてたまらなくなった。ちょうどその日は週末にあたり、学園祭の代休と重なって連休になっていた。北海道は無理だとしても、北陸に突き出た能登半島あたりなら行ける。
「流れ星が消える前にお願いを唱えるとかなえられるって、知ってる?」「あなた流星を見に行くんだって」「すごくいっぱい流れ星が墜ちるそうよね」と、ぼくが能登に行くことを聞きつけた女友達たちが口々に勝手なことを言った。
「そうらしいね」
「私の分もお願いしてきて」「一人分じゃもったいないじゃない。いっぱい流れ星があるんだから」
「いいよ、それでなんてお願いすればいいわけ?」
「そんなこと言えるわけないじゃない」
「じゃ無理だよ」
「わかった、ケイコさまのお願いをきいてください、って言えばいいのよ。その時間に東京でお願いごとを唱えているから」
そのなかには、ぼくがひそかに思いをよせている娘もいた。彼女のお願いというやつだけでも知りたかったが、女たちのほうが一枚上手だった。
冬のヒッチハイクはなるべくなら避けたほうがいい。夏と違って、冬は人の心も開放的にはならないし、やっと暖まった車内に、わざわざドアを開けて冷気を入れる物好きなドライバーも少ない。したがって、寒空に立たされる時間が多くなり、防寒具で身を固めなければならない。着膨れた脊に、いつもにまして膨れたリュックを背負うと、動きはますます鈍くなる。リュックを背負うことすら一苦労だ。かさばったリュックは重さも増してなかなか持ち上がらず、直角に折った背中にいったん乗せてから腕を通すが、、袖が膨れていて通りにくいし、リュックはジャンパーの背中で滑るので、何度か重心を崩して倒れそうになる。そんな格好で歩いていれば、ドライバーも尻込みするだろう。それに危険ですらある。
それをあえてやるという、芝居じみた悲壮感が当時のぼくには魅力だったようだ。冬に一人で北へ旅立つ、しかも星の降る夜に彼女のことを思うために。そんなことを言外に込めて、「じゃあ、行ってくる」と重々しく彼女に言ったのだが、かえってきた言葉は「お願いするのを忘れないでね」という、いとも軽いお言葉であった。
ヒッチハイクで金沢まで行き、そこから七尾線に乗って能登の輪島へ出た。その海岸は海沿いにバスで三十分ほどのところにあった。北に向かって浜がひらけ、右手に岩場が突き出ている。
ぼくが着いたときは午後も遅く、そろそろ陽が落ちようとしていた。駐車場にはすでに車やバイクが並び、同じ目的とわかる人たちがだいぶ集って来ていた。浜から死角になるような岩場の奥を選んでテントを張り、夜のくる前に夕食を作って食べた。夜はあっけなくやってきた。空を赤く焼くこともなく、太陽は水平線近くに張り出した黒い雲にさっと隠れ、黒い砂が降るようにして夕暮が深まっていった。
ぽつぽつ輝きだした星がいつのまにか数えきれなくなったころ、浜のあちこちで焚き火が始り、そのまわりをもそもそと黒い影が動くようになった。人はさっきよりもだいぶ増えているらしかった。ぼくも少し暖まらせてもらおうと、浜へ出て焚き火を囲む人の輪に入った。
星はまたたくだけで、ひとつも流れ墜ちなかった。海は黒々と静かに波打ち、空に散らばる星をときどき薄い雲が隠した。だれかがラジオをつけているらしく、音楽番組が聞こえていた。番組がニュースに変ると、何人かがそのラジオのまわりに集った。ラジオ氏は気をきかせてボリュームを上げた。ぼくもその声が聞き取れるところまで近寄った。ニュースは今日の流星群を見に北海道や北陸の海岸にかなりの人が集ったと報じ、流星が見えだすのはこのあと一、二時間後からで、明け方近くが最も数多く見えるだろうと伝えていた。しかし日本の上空は夜になって全国的に雲が広がり始めているので、せっかくの世紀の天文ショーも期待できないかもしれないと付け加えた。がっかりした声が方々でもれた。さっきからときどき星を隠していた雲はだんだん面積を広げ、北の水平線あたりからは厚い雲が盛り上がってきていた。
「どうですか、もう少しもってくれるでしょうか」
焚き火に戻ろうとしたとき、岩のように見えた黒い影が割れてぼくに近づき、男の低い声がした。岩のように見えたのはふたりでコートか何かにくるまって座っていたからだろう。男は三十才前後に見えた。もっと若いかもしれないが、とても疲れたような顔をしていた。あるは焚き火の明りが男の顔に深い影を作っていたからかもしれない。
「ほかの地方はどうなんでしょう、わざわざここへ来たんですが」「いまのラジオでは全国的に雲が広がり始めているそうですよ」「そうですか」
それだけ聞くと男は引き返して、さっきの割れた影に重なった。その影のかたまりから男と女のぼそぼそ語る声が聞こえた。
浜では焚き火を囲む人たちのほかにも、輪になって酒を飲んでいる男たちのグループや、毛布を被ってポットの熱いお茶を飲んでいるらしい家族連れ、双眼鏡で星の観測をしている父と子、それに波打ち際でときどき甲高い声をあげる女の子たちなどがいた。そして、目立たないけどあんがい数の多いのは、アベックたちのじっと動かない岩のような黒い影だった。
焚き火にはつぎつぎとだれかが加わり、だれかが出ていった。新しく人が加わるたびに雲行きの話題がむしかえされ、最新のニュースが求められた。
「どうですか」「北海道ではまだ晴れているそうですよ」「だいじょうぶでしょうか」「あの雲がくせものだよ」「さっきから気になっているんだが、どんどん勢力を広げている」「これじゃ、だめかもしれないなあ」
「ああ、だめじゃ。気の毒だが、あと三十分かそこいら空を覆ってしまうだろう」と、地元の漁師のような人が言う。聞くと輪島で民宿をやっており、泊り客の女の子たちをバンに乗せて来ているという。さっきから波打ち際を散歩している連中がそうだ。なかなか納得しないだろうから、すっかり星が隠れてから帰るつもりだと言う。
ぼくは焚き火を離れてテントへ戻った。途中で振り返ると、海岸に空を見上げて立つ人の群が、何か神秘的な光景のように見えた。そう、まるで神かUFOの到来を迎えるような、そんな感じだ。
しばらくすると、浜のほうが騒々しくなった。雲が星をひとつ、またひとつと呑み込んでいくたびに、失望のため息が浜から聞こえてくるようであった。そしてとうとう空がすっかり雲に覆われてしまい、人々はつぎつぎに帰り始めたのだった。
どのくらい時間が過ぎただろう。浜はもう真っ暗で、だれも残っていないようだ。何度か眠ろうとしたが、疲れているはずなのになぜか眼が冴えて寝つけない。東京では今ごろ彼女はお願いごとを唱えていることだろう。そう思うとなんともいえない複雑な気持がした。いまここでぼくも彼女を思い、何かを念じれば、もしかして彼女に通じるかもしれない。そう思ったが、寒さと波の音で意識を集中することができなかった。
コーヒーを沸して飲み、テントの前の岩に座って波の音を聞いていた。ときどき空を見上げて雲の切れ間を探した。雲はますます厚みを増していくようだった。波の音の間から人の声が聞こえるような気がした。夜の海からは水死人の声が聞こえることがある、となにかで読んだか聞いたかしたことを思い出した。ぼくはその場で身動きもできずに、じっと息をころして耳を澄ました。今度はもっと近くで聞こえた。くぐもった女の声で、なにを言っているかは聞き取れないが、海からではなく、岩場をこっちへ近づいてくるようだ。ぼくはポケットから懐中電灯を出し、その声に向けて明りを放った。
「キャッー」「だれだ」
女と男の声が同時に聞こえた。
ぼくのテントの前まで来て、彼らはやっと落ち着いてあたりを眺め回し、女が言った。「びっくりしたわ、だれ? あなた。こんなところでなにをしているの」
男はテレ笑いを見せて言った。「いやあ、君でしたか。さきほどはどうも。まさかまだ人がいたなんで思いませんでした」
浜でぼくにニュースを訊いた男だった。彼らこそなにをしているんだ、と思いながらバーナーに火をつけてもういちどコーヒーをいれた。少しは暖かいかと思ってバーナーの火は消さずにおいた。
「あったまるわ。ほんと、生き返ったみたい」と、女はカップを両手で包むようにしてコーヒーを飲んだ。男はコートのポケットからウイスキーの小瓶を出し、「酒のほうが中からあったまるよ。どう」とぼくに勧める。ラッパ飲みをしたら、喉が焼けてむせた。
「がっかりよね。星がいっぱい降るっていうから、お願いごとをたくさんしようと思って、十年分ぐらいいっぺんにしようと思って来たのよ。なのにあんまりよねえ」と女は何度もくりかえした。青いバーナーの火に照された女の顔はどう見てもぼくと同じくらいの年にしか見えなかった。そして、「うそ、本当はひとつなの。たったひとつでいいから流れ星が出てくれないかしら」と、彼のほうを向いていったとき、女はとてもさみしそうな顔をした。
女がほとんどひとりでしゃべり、男は黙ったままときどき思い出したようにウイスキーを飲んでいた。冬は星がきれいだから好きだ、とかいう話しになったとき、女がきっぱりと「嫌いよ」と言ったの印象的だった。寒いのはだめなの。春が好き。わたしの生れた日は桜が満開だったんだって。それで、さくらって名前にしたらしんだけど、親はなにを考えているのかしらねえ。桜ってすぐ散ってしまうのに。でも、わたし桜の花びらが好きなの。ピンク色で。女は立ち上がり、ほら、とコートの胸を開いた。鮮やかなピンクのセーターが見えた。いつもどこかにピンクを身につけているのだと言った。
「そうだ、あなた、写真撮れるわよね」と、女がとつぜん思い出したように言った。
「写真ですか。そりゃあできますけど」
「よかった。三脚がなくて、ひとりづつしか写っていないのよ。ねえ、この人にわたしたちの写真を撮ってもらわない?」と男に言う。
「でも、真夜中ですよ」
「大丈夫、これはストロボ付きだから」と言って、男はコートのポケットからコンパクトカメラを取り出し、「それじゃ、お願いします」とぼくに手渡した。
ふたりは岩の上に緊張してたった。
「それじゃ、撮ります。笑って」とは言ったものの、ふたりの表情は暗くて見えない。
ストロボが光ったとき、女のコートが羽根のように開き、ピンクのセーターがはっきり見えた。一瞬、女が岩から飛び上がったようにぼくには見えた。
そのあとふたりは、いいわねえ、学生って、自由で羨ましいですよとか言って、来たときと同じようにすっとどこかに消えていった。
ぼくは彼の残したウイスキーを飲み干すと、寝袋にもぐり込んだ。帰り際に遠くの岩から、「ありがとう、いい思い出ができたわ」と言って、女がちぎれるほどに手を振っていた姿が目に焼付いて離れなかった。
朝起きて、テントを片付け、だれもいない浜を歩いた。海藻や貝殻に混じって女もののサンダルがひとつ波打ち際にうちあげられていた。そのそばにフィルムのプラスチックケースが落ちていた。中に貝がらが詰っていた。小さなピンクの貝がらばかりだった。それをポケットに入れて、ぼくは海岸を後にした。
「星は見えなかったけど、かわりにお土産を持ってきた」と言って、喫茶店のテーブルにピンクの貝がらを並べた。
彼女は言った。
「すてき、これみんな桜貝じゃない」
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