其ノ弐 分隊ニツイテ

 昭和二〇年、八月某日。


 早朝の平原を独走する六輪自動貨車トラックの荷台には、それぞれの階級の軍服を着用した坊主頭の日本兵たちが搭乗しており、天幕の覆いが張られていた。彼らからは間近に迫りつつある危機が窺えた。


 後方に望む大平原では、黒々と蠢く関東軍の大部隊が遠ざかりつつあり、運転席越しの前方には森林地帯が横たわっていて、奥から狼煙のようなものが昇っている。すでに日ソ両軍が衝突しているのであろうそちらへと車両は進んでいて、やがて起伏のある森に入っていった。

 泣きだしそうな鉛色の空を濃緑の連なりが支え、それらの足たる焦げ茶の幹たちが、活動写真のような残像を伴って過ぎていく。

 運転席で転把ハンドルを握る青年は、この部隊の分隊士である折原隆おりはらたかし少尉だった。痩せた体格で童顔だが、濃い眉が力強く、実力もそれに違わぬ優秀な兵員だ。彼がちらと助手席を見やると、黒木大尉が座していた。


「……大尉」隆の声には、いつもと違って覇気がなかった。「情報本部は自分が現在の地位になかったとしても、妻の居所を教えてくれたでしょうかね」

 はっきりとは表に出さないが、不満げな物言いである。


「もはや既知のことだ。機会を生かして最善を尽くそう」

 あくまで冷静に黒木は答えた。


 黒木と隆は関東軍情報部に属しており、隆には行く先に勤務する妻、千鶴ちづるがいる。折原夫妻はハルピン北西のチチハルに居を構えていて、技術部門の軍属である千鶴は新兵器の調整という重要な仕事を任されたとかで、ハルピン郊外の研究所にいるはずだった。

 ところが実際は、防疫給水部小興安嶺支部、通称、満州第七一二一部隊にいたらしい。このことを情報部のチチハル支部から聴かされた隆は、黒木大尉の補佐役として従事することを指示されたのである。


 彼らに割り当てられた自動車化歩兵分隊は、精鋭揃いだった。黒木と隆を筆頭に満州第六五九部隊に所属する下仕官と、勇猛なつわものたちからなる十二人で構成されている。

 装備も可能な限り強力なものを恵贈されていた。短小銃を中心として、拳銃や狙撃銃、軽機関銃に迫撃砲、四式二〇噴進砲のような武器のほか、無線通信機や時限装置付きの爆弾といった雑多な道具も揃っている。

 ただ、こうした優遇は任務の重要性を物語っているようでもあり、隊員たちを緊張させてもいた。


「車を停めろ」

 突如として前方に出現した異変に反応したのは、黒木大尉だった。

 隆が制動機ブレーキを踏むと、荷台からどよめきが上がった。停車しきらないうちに大尉は戸を開け、表に飛び出していた。

 隆はそのときになってようやく、先にある電信柱に小太りの男がよじ登っているのを発見し、黒木を追ってやや肌寒い車外に出た。


 電柱を登頂しようとしているのは関東軍の関係者らしかった。軍属の服の上に白衣を羽織っていたのだ。どちらも酷く汚れ、まるで襤褸切れのようである。

 長靴ちょうかを一足だけ履いており、片方は裸足だった。片腕で柱を抱きしめ、空いた手に日本刀を握っている。


「なにをしてるのか知らんが、降りたほうがいいぞ」


 電信柱に歩み寄り、上方を仰いで黒木大尉が注意すると、相手は振り向いた。男の眼光には狂気が宿り、顔面は般若のように歪んでいる。

 その口にくわえられていた、半端に消費されて火の消えた軍用煙草の極光きょくこうがぽろりと地に落ちた。


「医者か? いったいどうしたんだ」

「技師だよ! あれ、教授だっけ。……どうしたんだ。……わたしは、と訊いておるんだよぉっ!!」

「こちらが問うているんだが」


 戸惑う大尉に、技師を自称する男は満身をがくがくと震えさせながら自問自答を繰り返した。目玉が激しく泳いでいる。精神が尋常でないことは、誰の目にも明らかだった。

 それでも動きは止まったので、黒木と隆はそっと腕を伸ばし、辛うじて届く範囲にあった男の足首をつかんだ。瞬間、技師は手を振り払い、猛烈な勢いで電柱登りを再開した。


「顔だ、顔がいるんだ! 顔を調伏しないと!」

 見る間に頂に達した技師が、刀を振りかぶる。

「まずい、離れろ!」

 身体を黒木大尉に押され、隆が電柱から距離を置く。

 閃光が瞬き、火花が飛んだ。

 とっさに腕で目を庇った隆がそれをどけたとき、もう、技師は地面に落ちていた。

 分断された電線が断面をバチバチと唸らせながら、たわんで柱にぶら下がっている。

 慌てて隆が技師に駆け寄り、脈をとった。

「だめだ。亡くなってます」


 暗い表情で黒木もそちらに歩き、途中、死体とは別に路肩の茂みに覗いている物体を見出した。拾い上げてみると、九六式軽機関銃だった。

 大尉が問うような視線を副官に投げ掛けた。

「弾倉はからのようですね」

 二人で銃を調べ、まもなく隆は論決した。

 いつの間にか部下たちも車を降り、車体のそばで不安げな眼差しを上官たちへと注いでいた。

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