119. わかるよ

 魔王は魔法陣から放たれた力から逃れようと身体をよじらせる。しかし、それは不可能だった。

 陣が発動した時点でその上に存在している物は、その魔術から脱することはできない……と、例の古文書には書き記されていた。

 まして、これだけしっかりと捕らえられてしまっては、いかに魔王といえど逃げようがない。


 魔王から伸びた蔦は途切れ、俺たちは床に放り出された。

 そして陣から発せられた光は魔王を包み込み、球の形に変化していく。


 魔法陣は、王座の座面に描かれていた。


 憤怒の表情で魔王は俺たちを睨んでいる。


「ココが我の背後に廻ったのは……」


「もちろん、その魔法陣を描くことが目的だった」


 俺はようやく、息をつくことができた。魔王に向かって笑いかける。


「トリスタの言った通り、人はそこまで愚かでもないだろう?」


「……」


 沈黙したのち、魔王も笑い出した。肩を揺らし、愉快そうに。


「我をどう殺す。これはなんの魔法陣だ。せめて死ぬ前にそれぐらい教えてくれないか」


「殺したりしないよ」


 俺は答えた。


「これは……イネルが使ったのと同じ魔法陣だ。魂を書き換え、お前は別の人間になる」


「!」


 光の中で、魔王の眉間に皺が寄るのが見えた。


「どうするつもりだ! 人間が利用できるような木偶の坊の魔王を作り、魔族を操る気か」


「そんな難しいことはしない。安心しろ。ただ、魔王だったことを全て、忘れてもらうことにした。ただの、俺の妹になってもらう」


 魔王は、さらに険しい表情になった。

 光は徐々に魔王の体に収束していく。


 俺は、魔王に尋ねた。


「……そうなりたかったんじゃないか?」


「自惚れるな」


 少女はそう、即答した。硬い表情は変わらなかった。


「我は魔王だ。何が起ころうと変わらぬ。我が喜ぶとでも思ったか……愚か者めが」


 そう言ってゆっくりと魔王は、光の中に閉じ込められていった。

 そのまま光は、魔王の体に吸い込まれていく。


 やがて全ての光は消え、後に残ったのは、王座に腰掛けたまま眠っている、一人の少女だった。


 俺たちは静寂に包まれた玉座の間を歩き、そして、少女の前に立つ。

 少女の小さな肩に手を当てて、微かに揺さぶった。


 少女は、目を覚ました。


「……兄様?」


 少女は、あどけない表情で不思議そうに俺を見つめている。


「何が、あったの? なんだか、ぼんやりして……」


「わかるよ」


 俺は、優しくそう言った。この子の気持ちをわかってやれるのは、俺だけだろう。


 自分のうちにあるおぼろげな過去、漠然とした記憶を信じて生きるしかない。今は良くとも、いずれは俺のように、己の過去に疑問を抱くかもしれない。

 その時は、俺がこの子を、支えてあげなければならない。


「なんだか、眠い……」


「いいよ。そばにいてあげるから、もうしばらく寝てなさい。マヤ」


 そう言って頭を撫でてやると、安心したのか、マヤはまた目を瞑った。疲れているからか、すぐに静かな寝息が聞こえてくる。


 ようやく気が抜けた俺は、ずるずると王座の横に座り込んだ。

 ジゼル、ココ、トリスタが俺のそばに立ち、笑顔で俺を見ている。三人とも、心の底からの穏やかな笑みだった。


 どうやら、全ては終わったようだった。

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