117. 最後の戦い
「そうだろう? どれだけ綺麗事を言おうと、イネルは自らの手で自らの存在を消し去った。
嘘をつき、他人を騙し、世界中を騙し、果ては自分すら騙した。
正義のための苦渋の決断などではない。ただの逃避だ。
己の力も知らず、我に刃向かおうとし、その結果何もかもを失った愚か者だ。違うか」
俺はまだ、沈黙していた。
「愚かねぇ……確かに愚かかもね」
すると、トリスタがそんなことを言った。
「恐れ多くも魔王陛下に人間風情の身で挑もうとするだなんて。私も初めて聞かされた時は呆れたよぅ。
人間って魔王陛下の本当の力も知らないんだなって。魔力の差だけで考えても、勝てるわけないんだから」
こんな場所でも相変わらず、飄々とした物言いだった。
それを聞いた魔王は、珍しく屈託なく笑った。
「さすが魔族の娘だ。よくわかっておる。そう、努力でどうにかなる問題ではない。別の種類の生き物なのだ。良いか、勇者……イネルよ」
魔王はあえて俺のことをそう呼ぶと、瞬きする間も与えず、こちらへ飛翔し、その小さな手で俺の喉を掴んだ。
「……!」
引き離そうとしても微動だにしない。そのまま俺は引きずられ、壁に叩きつけられた。
喉を締め付けられながら、天井へと持ち上げられていく。
「貴様!」
ジゼルが叫んだところで俺はようやく目の前の魔王の顔を見たが、その激しい行動とは対照的に、表情は小揺るぎもしていなかった。
ただ無感情に、なんの気持ちも込めず俺を片腕で締め上げている。
「そもそも挑むこと自体が誤りなのだ。お前に我のしもべとなる機会を与えたのは我の堕落ではない。お前の幸運と考えるべきだった。
我の恐怖、絶望を感じずに人間が生きる可能性を与えてやったにもかかわらず、お前はあっけなくそれを投げ捨てた。
故に我はお前を、愚かと断じた。何かおかしなことを言っているか」
思わず視線を逸らす。それは正論なのかもしれない。
魔王に支配されているということを知らずに生きられるのであれば……これから始まるかもしれない地獄よりはよかったのではないか?
俺は歯を食いしばると、片手を突き出して呪文を詠唱する。
「カウサ・サターニ!」
掌から撃ち出された光球は魔王には当たらず、謁見の間の天井にぶつかって爆発する。
爆風と粉塵を避けるため、魔王はぶん、と俺を投げ捨てた。
俺は首筋から床へ叩きつけられる。
「ふん。反射で動く剣術は、イネルの時に身体に蓄積した記憶で使えるが、実践的な魔術はろくに使えんか。
カウサ・サターニは近接での戦いに使う呪文ではなかろう。お前は知らぬのだろうが」
部屋中に満ちる煙の中で冷静にそう断じると、魔王は嘲笑した。
その隙に魔王に近づいたジゼルが斬りかかるが、魔王は人差し指一本で、振り下ろされたジゼルの剣を止めた。
剣士は満身の力を込めたが、その指一本切ることすら叶わない。
魔王はジゼルの目を真っ直ぐに捉えながら、
「ソムヌム」
と小さな声で詠唱した。
ジゼルはその場にどさりと崩れ落ちる。強力な眠りに落ちる呪文だ。
「……大丈夫かい」
やっと起き上がろうとしていた俺の元へ、トリスタが寄り添ってくれる。
彼女は俺の首筋を調べて、笑みを浮かべながら言った。
「首は折れてないようだね」
「当たり前だ」
俺は咳き込みつつ応じ、立ち上がった。
「魔族の娘、トリスタよ」
魔王は未だに空中でゆらゆらと揺れながら言う。
「今ならまだ、我の側につくこともできるぞ。その男が愚かとわかっているのなら、己のためにも、己の父のためにも……どうだ、トリスタ」
すると、トリスタはあはは、とあっけらかんとした調子で笑う。
「そうだね、マヤ。愚かだねぇこの人は。
つくづく思うよ。イネルだった時も、生まれ変わった後も、お人好しで、一生懸命で、バカで……。
ただ、思うんだけどね……世界を変えることをたった一人でやってたら、それはたぶん、他の人間には『愚か』に見えるんだよねえ。
愚かじゃないと何も変えられないし、誰も救えないんだよ。私はそう思うよ」
トリスタは、淀みなくそう告げた。
「それにね……思っているほど、人ってのは愚かじゃないんだ」
トリスタがそう言った瞬間。
部屋中に舞った……いや、俺が誤爆に見せかけて舞い散らした粉塵の向こう側から、微かに影が見えたかと思うと。
背の低い黒髪の少女が、魔王の背後で両腕を真っ直ぐに伸ばし。
魔王が振り返る前に鋭い声でこう、詠唱した。
「ペルニシエム!」
凄まじい魔力の籠もった黒い雷が、ココの手から魔王に向けて撃ち出された。
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