第48話 懐かしい匂い
「三洋(みひろ)は私の手の届かない先に行っちゃったんだ」
古谷三洋(ふるや みひろ)は八島鈴(やしま れい)と一週間の時を過ごし、アイドルとなった幼なじみ、工藤瑞穂(くどう みずほ)がいるテレビ局の控室を訪れていた。
事務所の社長とマネージャーには席を外してもらい、部屋の中には二人だけしかいない。三洋は鈴と出会ってから、今朝、出かけるまでの全ての出来事を瑞穂に語った。それを聞き終えて、彼女が発した言葉だった。
「意味わからんな。瑞穂こそ、アイドルになっているなんて想像できなかったぞ。転校して僕の知らない世界の住人になっちまったんだな。手が届かない世界に行ったのはそっちだろ」
「分かってないなー、三洋は。もうほんと、女の子の気持ちを全然理解していない」
「何がだよ。一度も連絡をくれなかったくせに。僕がどんなに心配したかも知らないで!」
「女の子はね。好きな男の子にはカッコよくいて欲しいんだよ!三洋、私のことを好きって言ってくれたよね。あのまま私が、あの街で暮らしていたら、三洋は開南学園高校を受験していたの」
「決まっているだろ。そう言ったぞ」
「うそっ。私、三洋のお母さんとうちのお母さんが話しているのを聞いたもの。三洋はチャレンジするより、ほどほどの学校で適当に上位でいられる道を選ぼうとしているって」
「それは・・・。作戦の内だろ」
「私を言い訳なんかに使って欲しくなかったの。三洋はね。自分で思っているより、ずっと可能性に溢れた男子なんだよ。保育園からずっと一緒にいるから知っているけど、いい加減に気づいたらどうなの」
瑞穂は大きな目を見開いて口を尖らす。
「私は三洋が好きだけど、それ以上に三洋に嫉妬してたんだぞ」
彼女の言葉に驚く三洋。
「僕なんかにか」
「そうだよ。イケメンになんかなっちゃって。頭のいい子が集まる学校で、美人の彼女なんて作ってさ。単純すぎるよ。私の狙い通りじゃない」
「狙い通りって・・・」
「まだ分かんないの。三洋はね。私がいたらダメになっちゃう子なんだよ」
「そんなこと言われても」
「私、可愛いから。ほら、アイドルだぞ。応援してくれるファンが山ほどいるんだよ」
「元気しか取り柄のない瑞穂がアイドルだものな。驚いたよ」
「私みたいな平凡な子でも人気があるのはなぜが知っている?それはね。好きな男の子がいるからだよ。私は頑張ったの。独りで努力したの。頑張っている女の子はみんな応援してくれるんだから」
瑞穂の澄んだ瞳から溢れた涙が、滴となって一筋、頬を伝い落ちる。
「三洋が手の届かないイイ男になっても、負けないように魅力的な女の子になるんだってっね」
瑞穂は、熾烈な芸能界で努力している自分の姿を思い出す。テレビに出るまで上りつめるアイドルは一握りしかいない。
スーパーのイベントで見向きもされずに歌っていた日。ちょっと売れ出したら先輩アイドルに、どれほど心無い言葉を浴びせられたことか。一粒落ちたら次から次へと押し出てくる涙は止まらない。
「三洋がいるから・・・。私は頑張ってこれたの。三洋が好き。大好き。ずっとずっとこの気持ちは変わらない」
自分の気持ちを抑えきれずに、瑞穂は三洋の胸に飛び込んだ。三洋は両腕で彼女の体を包み込み、肩に手をそっと乗せる。
「懐かしい匂い。三洋の匂いだ」
瑞穂はぼそりと言葉を漏らす。あれ程、心を揺るがすことはないと誓って家を出た三洋だったが返す言葉が出てこない。瑞穂と過ごした時間が頭の中を駆け巡る。
「ゴメン」
ようやく口をついて出た言葉が、どれ程彼女を傷つけるか、小心者の三洋でも十分に分かっていた。だけど言わずにいられない自分がそこにいた。
「三洋のバカ!ヘタレ。ボッチ」
瑞穂は三洋に罵声を浴びせながら、子供のように泣き叫ぶ。彼の胸を叩き続ける。三洋は黙ってそれを受け止めた。
誰もいない二人っきりの空間。静まり返った控室に彼女の声だけがこだましていく。十分ほど大声で泣いてから瑞穂は顔を上げた。
「涙って枯れるんだね」
涙でグチャグチャになった顔を隠すこともしない。
「えっ?」
「私、ずっとこれから三洋を恨んで泣き暮らすつもりだったのに。枯れちゃうんだ。そーなんだ」
三洋の胸の中から離れた瑞穂は、茫然としながら焦点の合わなくなった目で彼を見つめている。
「三洋!鈴さんが好き?愛しているの?」
「ああ。一番大切な人だ」
「そう。私より?」
「ゴメン」
「何で謝るのよ」
「ゴメン」
「だから、謝んないでよ」
「ゴメン」
「もう、このヘタレ。そこは謝るとこじゃないでしょ」
「どう言ったらいいのか」
「好きなんでしょ。鈴さんが!私なんかより、ずっとずっと愛しているんでしょ」
「ああ、鈴を愛している」
「やっと言った。三洋、変わったね。カッコイイ。本当は私の力で三洋を変えたかったけど・・・。そっかー。三洋が人前で堂々と『愛している』なんて言えるようになるとは思ってなかった」
「何だよそれ」
「まだまだ私なんかじゃ追いつかないってことか。やっぱり、私、アイドルを続けようかな。三洋が将来、あの時は失敗したと悔しがるくらい売れてやるから」
「・・・」
「後で吠え面をかいても知らないぞ」
「瑞穂・・・」
「期待してなさい。大失恋したアイドルは、もっとビックになるってのが芸能界のルールなんだからね。あっ、そうだ。忘れていた。三洋に会ったら、あの時、やり残していたことをするって決めていたんだ」
そう言って瑞穂は三洋の唇を奪った。あまりの素早さに立ちつくす三洋。
「三洋のファーストキスは私のものだから」
「・・・」
「やることやったし。私、行くね」
瑞穂はドアに向かって歩き出した。
「瑞穂・・・。頑張れよ」
振り向いた彼女の顔はアイドルそのものだった。
「ありがとう。元気しか取り柄がないからね、私」
「瑞穂、ありがとう」
「その言葉は、鈴さんに言いなよ」
瑞穂はドアを開けて三洋の前から去っていった。
この後、工藤瑞穂はアイドル街道を破竹の勢いで駆け上っていく。テレビCMや雑誌の表紙、広告看板にポスター、日本中が彼女の元気な笑顔で満たされた。
体育祭に期末試験。季節はあっという間に過ぎ去り、三洋の中にも一つの変化が起きていた。鈴を家に置いておきたいと始めた勉強が、夏休みを迎える頃には面白いと感じるようになっていた。
三洋がある決意をした時だった。妹の古谷南(ふるや みなみ)から電話が来た。
「お兄ちゃん。大変。お父さんが転勤になって、家族で家に戻ることになったから」
「ウソだろー。親父、会社でなにかやらかしたのか」
「それが、会社に上げたお父さんの企画書が通って、プロジェクトの責任者として栄転だってさ」
「マジかよ」
慌てる三洋。
「ウヒヒ。私、お兄ちゃんとの約束を守って、鈴さんのことは内緒にしてたから。顔合わせが楽しみだね!」
スマホの向こうで野次馬根性を丸出しにする妹だった。
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