第47話 手をつないで寝ようか

 山根浩二(やまね こうじ)と公園で別れた古谷三洋(ふるや みひろ)は独り、八島鈴(やしま れい)の待つ自宅に向かった。


 夕日が赤く雲を染め上げている。自分の家の窓に明かりがともる。独り暮らしを始めた時は、誰もいない真っ暗な家に帰るのが少しばかり寂しかった。


 家の玄関の前に立つとプーンと香辛料の香りが漂ってきた。今晩はカレーライスかー。鈴のカレーは本格的でとにかくうまい。同じ市販のルーを使っているとはとても思えない。


 以前、特別な何かを入れたのかと訪ねたことがある。「愛情たっぷり!」って顔を赤くして答えてくれたっけ。ふと思い出して古谷三洋は自分の顔を熱くした。


 あまりに色々な出来事が起こったので、ずいぶん昔からの知り合いのように思えてならないが、よくよく考えれは八島鈴との同居生活はそれほど長い期間じゃない。幼なじみの工藤瑞穂(くどう みずほ)との思い出の方が何倍も多い。


「三洋、お帰り。今、開けるね」


 気配をさっしたのか、玄関ドアにカギを差し込もうとしたら中からドアが開き、鈴の元気な顔が飛び出してきた。私立開南学園高校では学園の神聖ヒロインと呼ばれ、どこか憂いを含んだクール系美少女なのだが・・・。家での彼女は、ただただ愛らしい。


「玄関で待ってたのか?」


 エプロン姿でモジモジされても・・・。鈴は三洋の質問には答えない。代わりに子猫のクロマルが「ニャー」と彼女の足元で鳴いた。


「カレーライス、できているよ。三洋、お腹、空いたでしょ」


 顔をググっと寄せてこられて、思わず一歩引いてしまう。


「あっ。今、逃げようとしたでしょ!」


「そんなこと・・・、ないけど。ちょっと近かったから・・・」


 しどろもどろになる三洋。鈴の継母に「孫の顔」なんて言われて意識してしまい、あれから彼女の顔がまともに見られない。ついつい距離をとってしまう。


「独りでつまんなかったよ。もう、逃がさないんだからね」


 真っ白な白い手がスッと伸びて来て、三洋の手をつかむ。柔らかくてすべすべした感触に戸惑う。グッと引き寄せて、そのまま抱きしめたいという衝動に駆られるが、ヘタレな三洋にそんな勇気はない。


 まあ、そんなんだから鈴の父親も同居生活を認めてくれたのだと、心の中で苦笑いするしかない。


「お腹が空いた。カレー、食べよう」


 照れ笑いを浮かべて彼女の横をすり抜けようとする。どういうわけか、クロマルが道をふさぐようにしている。鈴は鈴でつかんだ手を離すことなく、ギュッと握り込んできた。


「三洋、お帰り」


「ああ、ただ今」


「ん!」


 八島鈴は古谷三洋を真っ直ぐに見据えてから、大きな瞳を閉じて顎を少し上げた。小さな唇を尖らせて突き出す。


「ん?」


 新妻がお帰りのキスをねだる姿にそっくりだ。エプロンまでつけているから妙にリアルだ。古谷三洋の心臓はドクンと跳ねた。


 いつかは鈴とそんな関係になりたいと思っていたが、今このタイミングでファーストキスってアリなのか。心の準備もできていないし、あわただしすぎるよな。女子の気まぐれな行動の背景をはかりかねる三洋。


「お帰り」


 八島鈴は小さくつぶやくと、固まっている古谷三洋の頬にチュッと小さな音を立てて唇を寄せてから、ピョンと離れた。


「いこっ!」


 何事も無かったかのように元気に三洋の手を引く。古谷三洋は足だけ使って、慌てて靴を脱ぎ彼女に続いた。


 その日から二人の関係は少しだけ変化した。直ぐに顔を赤らめる古谷三洋のヘタレな性格はそうそう変わりようがない。が、クールなイメージとは反対に家では、今まで以上にグイグイ迫ってくるようになった八島鈴の行動は、彼の奥手な性格を理解してのことだ。


 三洋がお風呂に入ろうとすると「背中を流そうか」と真っ赤な顔をして右手で顔を仰いでいる。寝ようとすると三洋の布団に潜り込んできて「やっぱり心の準備が・・・」と独り言を漏らして逃げ去る。


 そんなに恥ずかしいなら言わなきゃいいのに。それでも独りになると、幼い顔をして何だかんだとひっついてくる。甘えようとしてくる。その度に三洋の心臓は飛び跳ねる。


「鈴、あのさ。どうかしたのか」


「何でもない」


 鈴はぼそりとつぶやいてから付け足した。


「三洋の側でいっぱい思い出を作らないと、瑞穂さんに負けちゃうから」


 どうやら一週間で幼なじみの工藤瑞穂と過ごした時間と勝負をする気らしい。物理的な時間では、到底かないっこない。それでも心の時間を埋めたいらしい。


「鈴。僕、そんなに頼りないか」


「三洋のことは信じている。でも、落ち着かないの」


「瑞穂は幼なじみだし、親友でもある。家族みたいに育ったし、瑞穂には幸せになって欲しいと願っている。その為にできることがあるなら何だってしてあげたい」


「・・・」


「だけど、僕が好きなのは八島鈴。目の前のキミだよ」


「うん」


 小さくうなずいてから、鈴は三洋の胸に小さなおでこをチョコンとのせた。三洋は一瞬ためらう。が、気がつけば、両手を彼女の背中に回してギュッと抱きしめていた。


 もどかしいほどにゆっくりと重なり合う二人の心。甘酸っぱい彼女の香りが鼻孔を刺激する。二人っきりの家。二人っきりの世界。邪魔する者は誰もいない。


「鈴」


「うん」


「手をつないで寝ようか」


「うん」


 ミャー。


 のけ者にされた黒い子猫が足下にすり寄って鳴く。


「クロマル。悪いな。今日は鈴とは寝られないぞ」


 三洋がクロマルに声を掛ける。クロマルは三洋を見上げてから、鈴の部屋へと走っていった。


 三洋の部屋のベッド真中。安心しきった顔で、小さな寝息をたてて眠る鈴。彼女の左手はしっかりと三洋の右手を握っている。


 同世代の女の子が横で眠っている。しかも相手は学園の神聖ヒロインと呼ばれる美少女だ。


 ちょっと前までは想像することさえなかった。もっと、ドキドキするかと思ったが、自分でも驚くほど落ち着いている。三洋は愛おしさを募らせながら、ゆるりと眠りに落ちていった。

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