第39話 ぐがっ!黒い悪魔

 髪を切って産毛を剃った古谷三洋(ふるや みひろ)。女の子が嫉妬する美しく整った顔はさらに輝きを増す。ドキドキが止まらない八島鈴(やしま れい)は、彼の膝の上にチョコンと頭をのせている。枯草のような安らぐ香りが彼から漂ってくる。


 両足をモジモジしたくなるくらい心が騒ぐ。これが、恋すると言う事なのだろうか。抱き抱えるような恰好で、私の頭を膝上で支えてくれている。


「じゃ、始めるぞ」


 古谷三洋はシェービングクリームの泡を手に取って私の顔に優しく乗せていく。シュワ、シュワと弾ける泡が火照った顔に心地よい。私の顔を見下ろす彼の顔が優しすぎる。


「どんな感じ?」


 色々な感情が一度にわき起こって言葉につまる。ようやく一言、答えられたのは心に感じた素直な感想だった。


「うん。心地いい」


 あー。私の顔、今、彼に色々と触られている。はうっ。くすぐったいけどそれ以上に気持ちいい。身も心も溶けてしまいそう。顔とはいえ、互いの肌を許すスキンシップがこれほ安らぐとは思わなかった。


 子猫を捨てて来いと義母に言われて家を飛び出したあの日、ボサボサ頭の古谷三洋と出会って感じた予感は間違っていなかった。


 白馬には乗っていなかったけど私の王子様。八島鈴は目を閉じて、その時の思い出に浸っていた。


 シャリ。シャリ。


 顔の上を滑るカミソリの微かな音に耳を傾ける。無精な男の子だった割に手先が器用だ。毎日、彼がクロマルの世話をしている姿を見て感じていた。三洋は想像以上に繊細な男の子だ。


 ふふっ、なんて幸せなんだろう。ギシギシした気持ちにしかなれない自分の家とは大違いだ。今の時間が永遠に続いて欲しい。


 薄目を開けて気付かれないように彼の顔を盗み見る。カミソリを扱いながら真剣な眼差しで私の顔を見つめている彼。かわいい。胸がキュッとなる。


「お兄ちゃん。帰ったよ!」


 女の子の元気な声と共に、突然、リビングのドアが開いた。ソファーの上で古谷三洋の膝の上に頭を乗せて顔剃りしてもらっている八島鈴。二人とも急には動けない。


「・・・」


「みっ、南・・・」


 妹、古谷南(ふるや みなみ)の突然の帰省に驚く三洋の顔が一瞬にして凍りつく。


「うっそ!お兄ちゃんどったの、その顔。てか、膝枕のその娘(こ)・・・」


 私と目が合った瞬間、彼女もフリーズしてしまった。固まって身動きしない兄妹をよそに私は独り起き上がって顔を拭く。シェービングクリームを顔にのせたまま妹さんに挨拶なんてできないもの。


「初めまして」


 私の言葉と共に二人の時間は動き出した。三洋の妹さんが私を見つめる。大きめの瞳がさらに大きく見開かれていく。


「八島鈴と言います。三洋くんとは同じ高校のクラスメイトで・・・。えっと、三洋くんの彼女です」


「はえっ?お兄ちゃんに彼女・・・。あり得ない・・・。しかもメッチャ美人でかわいい。って、お兄ちゃん・・・。ヘタレのボサボサ頭の・・・。イケメンに変身しているし・・・。もう、意味わかんない。何がどうなってんのよ・・・」


 妹さんは頭を抱えてオロオロしながら、うわごとのように口をパクパクさせている。目の焦点があやしい。


「あのー。大丈夫ですか?」


 私が声を掛けると彼女はフラフラとリビングのドアのところに戻っていく。


「これは夢だ。お兄ちゃんに彼女なんてあり得ないもの。うん。やり直そう。それがいい」


 バタン。


 ドアが閉じられ、彼女は消えた。私と三洋は顔を見合わせてからソファーに座り直した。しばらくして再び元気よくドアが開く。


「お兄ちゃん。帰ったよ!」


「南!何度やっても同じだぞ」


 三洋がそう言った時、空いたドアの奥からクロマルが走り込んでくる。


「ぐがっ!黒い悪魔」


 妹さんはリビングの床に崩れ落ちた。


「南・・・」


 三洋が慌てて彼女の下に駆け寄る。


 ニャー。


 クロマルが一声鳴いて私の胸に飛び込んで来たのだった。

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