第24話
圓城の高座が終わり、文染の出囃子「本調子中の舞」が流れ出すと会場からは席を立つ者が現れた。それも数名ではない、少なく数えても十名以上はいると神山は思った。
「おい結構帰るぞ」
佐伯が驚いて呟くと神山が
「ああ、そうだな。演目が『ぼやき居酒屋』とパンフレットに書かれているからな」
そう言って帰る客の行動に理解を示した。佐伯は
「おいどういう事だ。それは」
そう言って神山の考えを尋ねる。
「だって考えても見ろよ。あの演目は東京じゃ柳家ゑん治師匠が得意にしているじゃないか。年中寄席でやっている。有る意味、聞き慣れているんじゃないか」
「だって、本家本元だぜ」
「だから?」
神山の意外な返答に佐伯は戸惑ってしまった。上方落語協会の会長で、しかも新作をずっと作り続けていて、その作品は二百を超えるとも言われている。そんな噺家が東京で演じるのだ。新作ファンとしてみれば見逃すはずが無いだろうと佐伯は考えたのだ。戸惑っている佐伯に神山は
「こう言っては悪いが、文染師の噺は誰が演じてもある程度は面白い。しかし、どうしても彼でなければと言う噺ではないだろう。それにゑん治師匠の惚けた味わいが彼の作る噺には合ってるんだな。だから、改めて聴く必要が無いと思ったのだろう」
神山の説明を聞いても佐伯は今ひとつ納得出来なかった。
自分の出囃子が鳴り、高座に出て行こうとした時に十名以上の客が席を立ったのを文染は高座の袖で見てしまった。こんな事はここ暫くは無かったことだった。わざわざ東京まで出て来てこんな屈辱を覚えるとは思わなかったのだ。だが平静を装って高座に向かった。それでも降り注ぐような拍手が起きた。座布団に座り頭を下げる
「え〜トリでございます。何やら御用がある方がいらっしゃるようで、誠に残念でございます。くれぐれも外に出た途端に交通事故に合わないようにお祈り申し上げます」
目の前の出来事を笑いで返すと会場からもドッと笑い声が起きる。
「お酒と言うものは実に良いものですなぁ。暑い時は良く冷えたビールが美味しいし、寒い時は熱燗で一杯やりたくなりますな」
早速噺に入って行く。噺はある居酒屋に来た客と店主とのやりとりで進んで行く
「お客さん。それソースですよ」
「え、これソースなの? 冷奴にソースかけちゃった。でもソースって書いてないじゃない」
「いや、赤いキャップは醤油、黄色のキャップはソースと相場が決まっていますよ」
「へえ〜初めて聞いたなぁ。それって全国的に決まってるのかい? 何か法律で決められたの?」
「いや、そういう訳じゃありませんけど、普通はそうなってます」
「普通って何?」
「普通は普通ですよ」
「親父さん。言っちゃ悪いけど、ここ少し灯りの影になっててさ。それに俺老眼だから暗いと良く見えないんだよね」
何のかんのと言って客は親父に食い下がる
「判りましたよ。サービスして新しいのを出しますから」
親父が折れてそういうと
「そう、嬉しいなぁ〜」
「じゃそのソースかけた奴こっちで引取りますから」
「え、持って行っちゃうの?」
「ええ、だって食べられないでしょ」
「いいやこれはこれでオツだと思っていたんだよ」
そんなことを言いながら結局冷奴をふた皿食べてしまう。その他にも色々と絡む。そして
「親父さん。こんな商売してるとストレスが溜まるだろう」
「まあ、そうですねえ」
「俺もなんだよ」
「お客さんは何の商売をなさってるんですか?」
「俺か? 俺も実は居酒屋なんだよ」
オチを言って座布団を外して
「ありがとうございました。ありがとうございました」
と頭を下げる姿に被せるように緞帳が降りて行く。でも文染には聴こえていた。オチを言う寸前に客席から小さな声で
『居酒屋』
と聴こえた事を……。
「お疲れ様でした!」
高座の袖では白鷺、喬一郎、小艶、圓城が出迎える。文染は青ざめた表情のまま、素通りして自分の楽屋に帰ってしまった。
「何だあれ?」
小艶が呆然とした表情で呟く。喬一郎も
「何かあったのですかね」
そう言って不思議がる。白鷺が
「十数名帰ったのがショックだったのですかね?」
そう疑問を口にすると圓城が
「お前ら気がつかなかったか? 下げを言う前に客席からオチを言われてしまったんだよ。これは噺家としては屈辱だろうさ」
そう言って真相を解説すると白鷺が
「演目が悪かったですよね。こっちの客は皆知ってるもの」
そう言ってネタの選定に誤りがあったのだと語った。
「乾先生は?」
小艶の言葉に圓城が
「顔色変えて楽屋に向かったよ。これから荒れるよ」
そう言って少し嬉しそうな表情を見せた。それを見て喬一郎は今日、文染を呼んだのは圓城が仕組んだのだと直感した。喬一郎は圓城が何を考えているのかさすがに直ぐには理解出来なかった。
文染の楽屋では文染が付き人に手伝わせて着物を脱いでいる所だった。そこに乾が駆けつけた
「師匠本当にご苦労様でした」
取り敢えずそう言うが文染は明らかに腹を立てていることが伺えた
「今日の客の中には礼儀を知らない者がいましたな」
オチのことだと乾は直ぐに理解した。
「まあ、今日の噺はこちらでもお馴染みの噺ですから」
乾がそう言って取り繕うと
「それでも口に出さないのが客の最低限の礼儀というものでしょう。違いまっか?」
普段は東京では標準語を口にするが興奮しているのか関西弁が混じって来る。
「いやまあそれはそうですが……」
「私は、創作落語の家元や!」
乾や他のメンバーからすれば、あれしきの事で怒るのが意外でもあった。東京の寄席では平気で携帯で会話をするもの。音を切ってくださいと放送してるのに、全く聞かず会話をしてるもの。噺をしてるのに一番前で弁当を食べていて全く高座を見ない者。そんな日常で高座を努めて来た東京の噺家連中からは当たり前の事だったのだ。
文染の怒りの表情を見て、乾は二度と文染は呼ぶことは無いと心に決めたのだった。
神山と佐伯は帰り道
「しかし、下げを言う奴が居たとは意外だったな」
佐伯が感想を言うと神山は
「彼は自分こそが創作落語の第一人者という想いがあるからな。今頃は乾に噛み付いているだろうな」
「若い頃はトラブルメーカーだったとか」
「ああ、早く売れたからな。プロダクションも何も言えなかったんだろう。よくも悪くも、それが今の文染を作った訳だからな」
神山の言葉に佐伯は
「もう呼ばれることは無いだろうな」
そういうと神山も
「それだけは確かだな」
そう言って会場を振り返った。
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