第69話 看病

(マジでどうなってるんだ……)


 その日の夕方、布団の上で俺は考えていた。


 彩乃先輩は嘘を言っている感じではなかった。しかし真実だとしてもその現実はあり得ない。だって俺は選挙に出る事を了承してないのだから。


「……そうだ」


 俺は布団から這い出し制服のズボンを手繰り寄せる。そしてポケットの中に手を入れる。


「――やっぱりあるよな」


 ポケットの中からはクシャクシャの立候補用紙が姿を現す。やはり俺はこの紙を提出してない。


 その時だった。


 ――ピロンッ


(……ん? 彩乃先輩か?)


 スマホを確認すると、送り主はカピバラさん……ではなく新田だった。


『風邪で学校を休んだと聞いたけれど、体調は大丈夫かしら?』


(意外だな……。新田がわざわざこんなメッセージを送ってくるなんて)


『大丈夫だ。心配ない』


『そう。なら少し聞きたい事があるのだけど』


 多分……というか絶対にあの事だろうな。


『伍堂君、選挙に出るの?』


 やはり彩乃先輩の冗談なんかじゃなく、学校の掲示板に俺の名前が出されている事は事実らしい。


『そんな訳ない。立候補の用紙だって未だに手元にあるんだぞ』


『そうよね。私もこの前それを確認しているし』


『ああ。明日澤田先生にどういう事か聞きに行ってくる』


『ええ、そうした方がいいわね。ではまた明日。お大事に』


(はぁ……。もう何が何だか分からんぞ……)


 その時、玄関の方からガチャッという鍵が開いた音と共に足音が聞こえる。


「――あれ? 思ったより元気そうだね」


 現れたのは買い物袋を手に持った彩乃先輩だった。


「彩乃先輩……。うつりますよ?」


「くどいよ政宗君。今日はお姉さんに甘えなさい。……で、食欲はある?」


 彩乃先輩は持っていた買い物袋を置き俺の隣に座る。買い物袋の膨らみからしてかなり買い込んできたみたいだ。


 対して重病でもないのにここまでしてもらって申し訳ないな……。


「はい。正直結構腹減ってます」


「よろしい。ならパパッと作っちゃうから寝ててね」


 そう言い残し彩乃先輩は台所へと消えていく。


 何だろう……。自分の体が弱っている時、近くに誰かがいてくれるというのはとても安心するというか……。


(あれ……何か……眠く……)


 睡眠なら腐る程とった筈なのに、何故か意識が遠退く。


 俺は台所から聞こえる鼻歌交じりの生活音を子守唄に、体の力を抜いた。


 ◆


(――ん、……何だ……くすぐったい……)


 サワサワと何かが顔の上を這っている感覚がする。


 虫……ではないな。そんな嫌な感じじゃないし、寧ろいい匂いが……。


(――匂い?)







「――あ、起きた」


「……何やってんすか彩乃先輩」


「ん? 政宗君の顔の見てた」


 瞼を上へ上げると、そこには怖いほどに整った彩乃先輩の顔があった。


 いつもなら変な声を上げる所だが、少し体調が悪くなったのか全くそんな気は起きず、ボーッと彩乃先輩の目を見つめ返す俺。


「意外に冷静なんだね。何だか面白くないよ政宗君」


「……ご希望通りのリアクションではなくて申し訳ありませんね。何分体調が悪いもので」


 俺が嫌味ったらしく返すと彩乃先輩はくすっと笑いをこぼし、


「それは大変だね。ならはやくお姉さんの作ったご飯を食べて回復させないと。一応病院食っぽくうどん作ったけど食べれそう?」


 そう言われると台所の方からうどん出汁のいい匂いが漂い、俺の腹の虫が反応してしまう。


「……はい」


「ふふっ。じゃあ準備するから少し待っててね」


 台所に消えていく彩乃先輩の後ろ姿を見送りながら、俺は自分の顔を撫でる。


 彩乃先輩は俺の顔を見てただけだと言ったが……確かに何かが顔に触れてたような……。


(……気のせい、か)


 ◆


 ほかほかとした湯気が俺の顔を撫でる。体が弱っている時の出汁の香りは暴力的だ。


 朝から何も食べてない俺にとって、ちゃぶ台の上に置かれたうどんは輝いて見えた。


「さぁ、召し上がれ政宗君。あ、食べ終わったらお薬買ってきてるからちゃんと飲むんだよ?」


「了解です。……それじゃあ頂きます」


 レンゲでうどんのスープをすくい口に運ぶ。


 ……染みる。うどんの出汁って何でこんなに優しいのだろう。日本に生まれて良かった。


「まだお汁しか飲んでないのに凄い幸せそうな顔してるね」


「いや、だって滅茶苦茶旨いっすよこれ。確実に今まで食べたうどんの中でナンバーワンですね」


「そう? それなら作った甲斐があるよ。どんどん食べてね」


 俺が食べている所をジーっと前からずっと見られているのは大変食べにくいが、うどんの丼と俺の口を往復する箸の動きは衰えない。


「……あ、そうだ政宗君」


「はい?」


「電話で話した件の事なんだけど……」


 箸の動きが止まる。


 そうだ。その件について彩乃先輩から詳しく聞かないといけないんだった。うどんが美味しすぎて忘れていた。


「何か分かりました?」


「ううん。澤田先生から話を聞き出そうとしたんだけど中々捕まらなくて……」


 この件について確実に何か知っているのは澤田先生だ。あの人に聞くのがこの件を解決するのに一番有効な手なのだが。


「そうですか……。すいません。お手を煩わせてしまったみたいで」


「気にしなくていいよ。――でも政宗君が立候補用紙を提出してないのに……一体何が起きてるんだろうね」


「そうですね……考えられるのは……」


 可能性としてあるのは、俺をよく思ってない輩からの攻撃という事。空閑の件が解決したとはいえ、未だに時々悪い視線を感じる時がある。


 俺をよく思ってない奴が勝手に俺の名前で提出したというのが、一番府に落ちるのだが、


(このやり方だと澤田先生に提出する時点で止められると思うしな……)


 幾らあの澤田先生でも、俺が直接提出していない書類を受けとるとは思えない。


「――まぁ、明日になったら分かる事です」


 答えの出ない事を何時もでも考えるのは無駄だ。今は彩乃先輩が作ってくれたうどんを堪能する事にしよう。


「……そうだね。あまり考え過ぎちゃうとまた体調悪くなっちゃいそうだし」


 彩乃先輩はそう言いうどんをちゅるちゅると啜り始める。


 数秒間沈黙になった所で、ある事に気づく。


「……そうだ。彩乃先輩」


「んー?」


「帰り、どうするんですか?」


「帰り? ベンを呼ぶつもりだけど……どうかしたの?」


「いや……最近車での送り迎えが多いなと思って」


 その時、畳の上に音を経てながら彩乃先輩の箸が落ちる。


「――ッ。……あちゃー。落としちゃった」


「……彩乃先輩?」


「……まぁ、最近ちょっと疲れててね。それでかな。車での送り迎えが多いのは」


 彩乃先輩は「お箸洗ってくるね」と言い立ち上がる。


 下から見えたその表情は酷く歪んでいた。


(疲れてる……だけ、だよな)


 見えたその表情が訴える感情を、俺は自分の中で都合よく解釈してしまった。


 ――この時、何故彩乃先輩から話を聞かなかったのだろうか。


 奥歯が壊れそうな程歯を食い縛り、激しい後悔に苛まれる事を俺はまだ知るよしもなかった。

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