第21話 RUN



 音の響かぬ奇妙な世界の中にソレはいた。いつからそこにいるのは分からない。何処から来たのかもわからない。



 だけど確かにそこにいる。この距離からでもはっきりわかるその異様。


 歯の隙間からリズムを崩した吐息が漏れる。それを止める事が出来ない。






 ソレの姿の認識が進むにつれて、吐息の勢いも強くなる。空気が俺の肺から逃げ出して行く。


 なのに、その吐息の音は聞こえない。



 無音。



 足が動かない。理性と本能、その両者がここから逃げろと主張している。



 なのに俺の足はそこから動かない。




 ティラノサウルスレックスに迫られたグラント博士の気持ちがよく分かる。ペロリと丸呑みされそうな大顎や、鼓膜を破られる咆哮を目の前にしているわけではない。




 それでもこれだけは言い切れる。アレは大顎や咆哮よりも





 一体、アレはなんだ?



 瞬きを繰り返しソレを凝視する。見間違いであってくれと祈りながら目を離さない。





 ああ、嘘だろ。




 人の耳だ。俺の目の前には人の耳が立っている。


 耳骨のうねりも、特徴的な構造も、その孔も人の耳そのものだ。






 1メートルは下らない巨大な耳。右耳と左耳、本来なら両者の間にある頭部は存在せず、その二つが左右対象にくっついている。まるで接着された蝶の羽のようにも見える。



 首はなく、耳たぶの部分が両方胴体とくっついている。



 そう胴体。食べすぎの幼児のような体だ。短い手足に、ぷっくりと膨らんだ腹部。臍まであるのか?


 うすだいだいの体色はこの灰色の土地では非常に目立つ。日本人の肌の色に酷似している。




 指の本数まではわからないがその異様な耳意外はまるで裸の幼児がそこに立っているかにも見える。




 だがそれでも1メートル以上あるその耳を支えることが出来るようには思えない。



 なのに、それは、なんでもないようにずっと前からそこにいたかのように立っていた。

 2つ耳の穴が、こちらに向いている。




 俺を見ているのか。


 くそ、面白い身体しやがってからに。



 胴体から耳が生えているのか、耳から胴体が生えているのか。




 いや、どっちでもいい。どちらにせよとても尋常の生き物であるとは思えない。





 立っている場所から考えて、アレが俺に死体を投げつけて来たのか?




 だったらー




 正常に考えが続いたのはそこまでだった。





 ソレは急に動き出す。耳の大きさに振り回される様子はない。





 右足と右手、左足と左手。両方を同時振って歩く。




 こちらに向かうのではなく、灰ゴブリンの住居へ歩き始める。





 そして、俺が崩した住居ではない比較的無傷な一番奥の住居のとこまで行って





 っ!



 俺はすぐにそこを動けなかった。




 ソレはおもむろに住居に両手を伸ばしたと思うと、壁に手を突き刺し、そのまま腕を上げて住居を文字通り、根こそぎ



 なんの抵抗もなく、灰ゴブリンの住居は持ち上げられる。住居から生えている住居を浮かしたまま右に左に振り回し、根をちぎる。



 既に死んだその住居は簡単に地面との接点を失った。



 体の前で前ならえをするように住居を持っている。



 耳の大きさに比べて腕が短いので体の上までは住居を持ち上げられないようだ。



 そしてゆっくりとその前ならえの姿勢の向く先を俺に向け始める。





 やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい。




 それをどうするつもりなのかはどうでもいい。ロクな事ではないだろう。




 動け、動け。固まって動かない足を動かそうと力を入れる。




 寝起きの瞬間のように体に力が入らない。筋肉が膨らまず、くすぐったさのようなこわばりが感覚として帰ってくるだけだ。



 永遠のように長くかんじる時間。




 俺からは持ち上げられた住居により、ソレの体が隠れて見えない。







「」








 見えた。


 両腕を振りかぶったソレの姿。



 突き刺ささっていた住居はどこに。


 違う。そんなのわかるだろ。



 眼前に迫る、投げられた住居。





 う、おおおおおおおおお。


 足がもつれ、こける。


 頭のつむじに何かが触れたような気がする。


 俺に投げつけられ住居が、こけた俺の頭をかすめて、音を立てずに後ろで砕ける。


 こけた勢いで、ナップザックが手から離れた。


 動ける。力の抜けた体に、命令が届く。地面に強くぶつけた胸に溜まるような痛みを無視しすぐに立ち上がる。



 下半身を先にお越し、その勢いで地面を殴るような勢いで腕をつっぱり体を起こす。


 しぬ、しぬ。しぬ。しぬ。


 確信がある。ソレは俺を殺す事が出来て、しかも俺を殺そうとしている。


 走らなければならない。


 ナップザックを拾うことはしない。1秒が惜しい。


 俺が踵を返して、地面を右足で蹴るのと、ソレがこちらに向かい歩き始めるのはほぼ同時だった。








 走れ。

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