3-6.読み手と書き手の距離感の違い
一次創作でも二次創作でも、Webサイトに載せたり本を出したりすれば当然、読み手が存在する。よく考えてみると、この、読み手と書き手の距離感も、一次と二次では違うなぁと感じることが多い。
私はWebサイトでしか自作品を公開したことがないので、その経験からの話になるが、なんとなくの感覚をまとめてみた。
【1.二次創作は“公式”と“読み手”と“書き手”の三者ありき】
当然だが、二次創作は公式があるから成り立つ楽しみ方だ。
そのため、ある意味では、読み手と書き手は同じ位置にいて、「書き手=自分の趣味を公表したファン」「読み手=それに賛同するファン」という感覚がある。
読み手と書き手が見ている方向は公式であり、二次創作そのものは「自分の好み」を付与したフィルターなんだと思う。
だから、読み手も書き手も、情熱は公式に向いている。当然のことなんだけど、なんだかそれが不思議だ。目の前にいない誰かを間に挟んで、告白しあっているような感じがする。
そういう特殊な関係性だからか、基本的には登場人物のことを読み手も書き手も知っていて、「こういうところが見たかった」とか「私もこの人好きです」とかはしゃげるのが、二次創作の面白いところだ。
もしかしたら、そうやって仲間とはしゃぐ楽しさが、二次創作の原動力なのかもしれない。
ただ、この「仲間意識」みたいなものが空回りした読み手も、少なからずいる。
過去に経験があるのだが、割と熱心にコメントを残してきたり、ダイレクトメールを送ってくる人がいた。そして何故か、こちらは一言もそんなこと言ってないのに、「当然、自分と相互フォローするよね?相互限定の作品読むよね?」という旨のことを最終的に言われた……という。勿論、丁重にお断りした。
程よい距離感でファン同士が交流するのが一番いい。その、「程よさ」というのが難しいのは、一次創作でも二次創作でも、あまり変わらない。
【2.一次創作の“一対一”の手探り感】
書き手の視線ではっきり言ってしまうと、一次創作を読んでくれる人の動機がわからない。
だって、どこの馬の骨とも知らない誰かが書いた、自分の好みに合うかもわからない文章を読むなんて、正気の沙汰じゃない。だからこそ、一次創作の作品を読んでくれる人というのはありがたい。
読み手の視点で言うと、「まだ知らない面白い世界を見せてくれる作品」は人生においてとても重要だ。何も知らない状態でページをめくり、ハラハラしたり笑ったりできるのは、一次創作だけなのだから。
読んでよかったと思える本は、今までにたくさんある。
まぁ、なんかこんな感じで、一次創作の場合、物語と読み手は一対一だ。これがWebサイトでの話になると、読み手と書き手が一対一で相対しているようなものかもしれない。自分の気持ちを、書き手に伝える方法がたくさんあるから。
「なんで読んでくれるのか分からない誰か」と「なんか知らんけど面白いものを書いた誰か」の一騎打ち(?)だ。それは手探りになって当然だろう。
しかも、一次創作の場合は、「表現したこと」が「表現したかったこと」と必ずしも一致しない。一次創作には、様々な解釈が存在して、模範解答はあっても正解は無い。
ますます、読み手と書き手は手探り状態で向き合うことになる。「どう思った?」という、ジリジリとした距離感の間に立っている。
だから、純粋な感想の人もいれば、まるで解説員みたいな人もいて、なんだか「美術館の片隅に置かれた価値の不明な骨董品」みたいな気持ちになる。
でも、このなんとなくの遠い距離感は、自分が読み手・書き手どちらの場合でも、嫌いではない。
ふらっとやって来て手に取る、飽きたら離れる、そしてふと思い出したらまた眺める。そんな感じがちょうどいい。
私は、その反応ひとつひとつに感謝をしつつ、来るもの拒まず去るもの追わずの心意気でいる。一次創作を公開する時の気持ちを文字にすると、そんな感じだ。
心地よく遠巻きに、あたたかく誠実な他人行儀を、これからも大事にしていきたい。
これも結局、一次創作だろうが二次創作だろうが、変わらないことだったりする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。