フェードアウト

@araki

第1話

 雨がこまかに降る中、伊月はいつものようにドッグフードの入った器を置く。それから声を張り上げた。

「早く出てこいって」

 しばらく待つ。けれど、反応はない。小屋の入口、その向こうには漠然とした暗がりが広がるばかり。鬱蒼と茂る森のようで、何とも心をざわつかせる。

「やっぱりいなくなっちゃったんじゃない?」

 背後からの声に振り返る。姉の薫が傘を差してこちらを見下ろしている。つまらなそうな顔。興味がないなら向こうに行けばいいのに。

「顔、しばらく見てないんでしょ?」

「でも、餌はちゃんとなくなってた」

「ゴロウが食べたって証拠はないじゃん。他の動物が食べたのかもしんないし。カラスとか」

「あの餌は鳥用じゃない」

「そんなの関係ないよ。あいつらは飢えてるからね。同族も襲っちゃうくらいだし」

 薫はそう言われると、反論が特に思いつかない。だけど、絶対にいるはずなのだ。

「あいつがオレを置いていくもんか」

「事情があったのかもしれないよ? もっと住みやすい場所を見つけたとか、近所で運命の相手を見つけたとかさ」

「そんな薄情な奴じゃない」

「あっ、伊月って意外と嫉妬深いんだね」

 薫はくすくす笑う。やはり姉はこの事件を重く受け止めてはいないらしい。五年も一緒の家族なのに。冷たい人だ。

 その心が顔に表れていたのか、薫は肩をすくめた。

「しょうがないじゃん、受験生なんだし。それに私、ペットって苦手なんだよね」

 ゴロウを拾ってきた時、飼うことに真っ先に反対したのは薫だった。伊月が世話を全部するということで何とか押し切ったが、あの時の姉の憮然とした表情は今でも覚えている。

 ――面倒が嫌いなんだろうな。

 ゴロウは我が家にとって二匹目のペットだ。一匹目はインコだったと聞いている。どうせ姉はその世話を手伝いもしなかったに違いない。

 伊月はため息をつくと、見限るように視線を切った。

「姉ちゃんと違ってオレはずっと世話してきたんだ。あいつのことは誰よりも知ってる」

「ふぅん。でも、一緒にいるからこそ見逃すこともあるんじゃない?」

「何のことだよ」

「あそこ」

 背後に視線を戻す。薫が垂直に伸ばした腕である方向を指し示している。その先を見ると、庭の隅に生えている大樹、その根元を指さしているようだった。

 伊月は不審に思いつつも目を凝らす。その直後、見つけた。

「!」

 いてもたってもいられず伊月は駆け寄る。そしてそっと、それを拾った。

 泥で薄汚れて色はぼやけ、紐の長さも中途半端に短い。けれど、握る感触は確かに同じ。五年間も使っていたのだ、間違えるはずがない。

 そして伊月の足元、そこには小さく盛られた築山があった。

「……いつからあった」

「多分一週間前。その頃に埋めたってお父さんたちが言ってたし」

「なんで言ってくれなかったんだ」

「言うなって言われたから。傷つくから黙っててあげてって。でも」

 薫は小さく笑った。

「悲しめた方が嬉しいと思うんだ。少なくとも私はそうだった」

 言うの遅くなってごめんね、と姉は呟いた気がする。けれど、その声はか細くて、雨音でうまく聞き取れなかった。

「できるだけ早く戻りなよ」

 薫はそう言うと、家の方へ戻っていく。

 ありがとう、そう声をかけるつもりだったが、嗚咽に紛れて言葉にならなかった。

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