第1話 宿
※
デルンタ大陸の南西に位置するライナス王国。
大陸中に名を轟かせるほどの大国ではないものの、歴史は三百年となかなかに古い。
地下資源は乏しかったが、気候に恵まれているおかげで、農産物に富んでいた。
国民の気性は大らかだ。
田舎町から王都ライノールに進むに従い、開放的な雰囲気は薄れていったが、旅人への人当たりの良さは都心の民も同じだった。しかし……不安感というのだろうか。
時折、人々の明るげな瞳の中に、焦りの色が見てとれた。
(あまり長くは滞在できないかもしれないな)
国境を超える前に立ち寄ったシャシャ国で、ライナス王国の不穏な噂を耳にしていた。
三月ほど前に先王が亡くなり、息子が新しい王になったのだが、この王が安寧を保つことより国土を拡げる方に興味があるらしい。
その話を訊いた時は、いかに好戦的な王でも戴冠したばかりで戦争を始めはしないだろう、と楽観的に考えていたのだが。
人々の中に流れるさざなみのような憂いに、戦が起こるのは、そう遠くはない気がしてきた。
まいったな、とひとつ溜め息を吐き、シアは町並みを見下ろすのを止めた。
開けていた窓を閉め、身繕いをする。
着替えを済ませ、短い黒髪を手櫛で軽く調え、腰に付けた荷を確認し、最後に寝台の上に置いてある長剣を腰に差した。
部屋から出て、宿の古びた階段を下りる。
シアがライノールに着いたのは五日前の夜だ。良心的な値段のこの宿には、すでに一月分の宿泊費を払っていた。
(さすがに、ひと月で情勢は変わりはしないだろう)
金に困ってはいないが、無駄な出費はしたくなかった。
「あら。お客さん。お出かけですか?」
階段を下りたところで、宿屋の娘に出くわした。
「お早いんですね」
「ええ」
にこにこと見上げてくる娘に、シアはぎこちなく相槌を打った。
年若い、シアと同じ年頃の娘だ。
茶色いふわふわした髪をひとつに纏めている。薄く化粧を施した顔は、なかなかの器量よしだ。
顔立ちにはあどけなさが残っていたが、それとはうらはらに、豊満な体つきをしていた。胸元を強調する衣服を纏っているため、そう見えるだけなのかもしれないが……。
「お帰りはいつ頃ですか?」
「日が暮れる前には戻ります」
シアはぎゅっと寄せて上がった、娘の胸元に視線を向けないよう気を使いながら、答える。
足早に娘から遠ざかろうとするのだが、なぜか娘はシアの後をついてきた。
「夕飯はこちらで食べられます?」
「ええ……たぶん」
「お魚とお肉、どちらがいいです?」
「……どちらでも構いません」
「どちらでもって返事が一番、困ります」
娘は赤い唇を尖らせてから、くすくすと笑った。
(何がおかしいのだろう……)
シアは疑問に思いながらも、では魚で、と返した。
お魚が好きなのですか?、と問われる。
魚も肉も、好きでも嫌いでもない。
しかし、正直にそう答えると角が立つし、話が長引いてしまいそうだったので、はい、と簡潔に返答した。
「覚えておきますね」
娘はにっこりと微笑んだ。
結局、娘は宿の外までついて来た。そして、宿の前で立ち止まり、いってらっしゃいませ、と朗らかに言った。
(客人をこうして……いつも、ひとりひとり見送っているんだな……)
出掛けるのは夜が多かったので、見送られるのは初めてだった。
シアは娘の仕事ぶりに感心した。
普段の娘は化粧気がなく、愛想もさほど良くない。客を見送ったりもしない。
他のむさ苦しい客とは違う客。若い男だからこその態度だったのだが、シアは知る由もなかった。
立ち並んだ露店に目を奪われることもなく、シアは目的の場所へ向かう。
場所は知っていたが、近場に安い宿がないとも聞いていて、今の宿を選んだ。
目的の場所に行くには、かなり歩かなければならなかったが、頻繁に出向くわけでもないので、そう困りはしない。
しかし遠方なのが災いし、もっと早くに立ち寄るつもりだったが、行きそびれていた。
その間に酒場で妖獣の噂を聞き、依頼をひとつ片付けた。
正式な依頼ではなかったが、こういうことはままある。
だが……地域によって決まり事は異なる。
遭遇したことはなかったが、厳しい規律のもとに運営されている地域もあるという。
気楽に考えていたのだが、今になり、報酬が貰えないかもしれない、と不安になってきた。
不安を払うように足を進めていたシアは、報酬とは別の憂鬱感に眉を寄せる。
(また、か……)
背後に視線を感じたシアは、振り返らず、歩調を速めた。
ライナスの国境を越えた辺りからなのだが、何者かにつけられている気がするのである。
つけられている、と断定できないのは、気配を感じても、姿を確認出来ないからだ。何度となく振り返り確かめたが、それらしい人物はいない。角で曲がり、待ち伏せしても、追ってくる者もいない。
(気のせいだと思いもしたが)
速めた歩調のまま、シアは入り組んだ路地に入った。入ったところで走り出し、迷路のような路地を駆け抜けた。
裏道に出ると、さきほど感じた視線も気配もなくなっていた。
気のせいだとも断言でぎないのは、気配を感じる時と感じない時の差がはっきりし過ぎているせいだった。
職業柄、鋭敏であるよう気をつけてはいるが、神経質なほど過敏ではない。
幻を生み出すほど、臆病でもないつもりだったし、そもそも、誰かにつけ狙われる覚えがないのだ。
過去に何か後ろ暗いことがあり、見えない敵を創り出すならともかく、創り出そうにも『敵』などいなかった。
(まあ、いいか……)
気のせいだったら、いつかは気にならなくなるだろうし、実際追われているならば、いずれは姿を見せるだろう。とりあえず、今、気配は感じないので良しとしよう、とシアは軽く息を吐いた。
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