第18話

砂の上についた足跡を辿り、砂漠を歩いていく。

相変わらず空は夜のようだ。

だが、遠くに見える建造物の周辺は白く光り輝いて見えるので、夜が明けてきている錯覚に陥る。

建造物のある方角が「東」であればの話であるが。

リースはその建造物をじっと直視したまま、歩みを進めた。

光り輝くV字の足跡の横に彼女の足跡と衣装の裾が生み出すうねりの跡が一定間隔で平行につけられていく。

両足首につけたグングルーも足を動かすたびに涼やかな音を鳴らし続けた。

足元の砂は熱くもなければ、冷たくもない。

人肌よりはほんの少し温度が低いような感じだ。

砂に触れているからといって、体温が奪われるようなこともなく、砂だからといって足を取られるような深さでもない。

下から何がか自分の行く末を支えている。

そんな気がしていた。

(この感覚は何だろう?)

不思議に思っていると微かな声が聞こえてきた。

『エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ』

聞き覚えがある言葉だったので、よく聞くために立ち止まった。

すると聞こえていた声は聞こえなくなった。

「気のせいかしら?」

ちょっと首を傾げるとリースは再び歩き始めた。

するとまた同じ声が彼女の耳元で聞こえ始めた。

『エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ……エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ…』

「聖書にあるイエスの最後の言葉だわ。確か第4の言葉」

歩みを止めると声も止まる。

そのことにようやく気づいて、動きながら話しかけることにした。

『エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ』

「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」

『エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ……エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ』

「あなたの姿が見えない。声が聞こえるということは存在しているということ。姿を現しなさい」

『エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ』

「私はあなたの話を聴けるわ。そのためにここに来た」

すると彼方の建造物から数多く大小様々な天使たちが甲冑を着て戦車に乗って彼女の周りに走り込み、そして通り過ぎていった。

多くの天使は白く透明な輪郭で透けており、実態がないように見えた。

彼女はあまりの数に立ち止まりたかったが、歩みは止めない方がいいだろうと判断し、歩幅は小さくなったものの前進し続けた。

何人もの天使、いくつもの戦車を自分の後方に見送り、幾ばくかの時間がすぎていった。

「天使よ、この地を統べる者よ、この足跡が導く先にいる者よ、私に伝えたいことがあるならば語れ!」

『エロイ…エロイ…レマ・サバクタニ…………』

彼女の言葉のあとに1回だけ、第4の言葉が聞こえ、そして沈黙した。

彼女の歩みが止まったわけではない。

彼女は止まらずそのまま歩き続けている。

声の主の方が声を止めたのだ。

彼女の思いは通じたのだろうか。

歩き続けながらリースは声の主の返信を待った。

塔門バイロンを守るものは誰ぞ』

その声は何かを予感させるような声だった。

圧倒的な何か。

その正体はわからないけれど、その声を聞いて、彼女の体に緊張が走った。

強力な電気がビッと一瞬だけ走ったような張り詰めるような緊張だった。

とにかく何か返答を返さなければと、彼女は思った。

返さない間に声の主がまた第4の言葉を繰り返し始めない。

声は聞こえても、天使の姿は見えない。

塔門バイロン?」

『塔門に血を撒きながら進んだ者は誰ぞ』

「私は門からやってきたけれど、それが塔門かどうかはわからないわ」

『塔門は境目。塔門は限界。塔門は見張り。塔門は区画。塔門はシューによって支配される』

「エジプト神シューは空 霊と大地 物質 のあいだに横たわり、2つのものの区別を永遠に維持する神。全てのものを秩序づける者…か」

(ダメだ。物質世界の法則を当てはめて、話を解釈してはダメだわ。ここは精神世界。C.C.V.彼女 の言葉を借りるならアエティールと呼ばれる世界なのなら、象徴は何を表しているのかを探り、理解しないと。シューに関連する神ならば、かなり高い神格を持つもののはず)

『塔門に血を撒きながら進んだ者は誰ぞ。バイロンに血を撒いたものこそ鍵である』

「鍵?鍵を持つ者は何を開けることができるの?」

『扉を開ける者は『二重の力』を持つ言葉を理解する者。5であり6であるものを理解するものである」

「5+6=11の話かしら?」

(理解できていたらここに来たりしないわ。

どうにかして鈴木さんに繋がる情報をもらえないかしら?

何かに繋がっている気がする)

『理解できるもの以外に理解できない。ゆえに神秘である』

リースは額面通り天使の言葉を受け取らないように努めていたものの、何か大切なヒントがそこに隠されているのような気がした。

それは物事の見方というのかもしれない。

人間は1つの視点が見えてしまうと対極の視点を見失う傾向にあるからだ。

同時に2つの視点で物事を考えられないという欠点である。

「神秘…鍵…塔門……理解できるもの…理解できないもの…二重の力。

それは境界に関係するもの。シューは大気の神」

リースは立ち止まってちょっと考え込んだ。

何かがわかりそうで、頭の中で火花が浮かんでは消えていっている。

その火花の一つを掴み取ることができれば、この天使の話は一気に理解できそうな気がした。

『永続する力などというものはない。

それを理解できるものが鍵を持つ。

唯一例外である塔門は、神ONオンの守る門ゆえ』

「神ON?塔門とはあの彼方に見える建造物のことを指しているの?神ONの守る都市があの建造物なの?」

『我が乗る戦車に「聖なる都市」から降りてくる原動力である』

「聖なる都市?それがあの彼方の建造物の名前なのね」

『神ONの守る都市は50の門からなる。ゆえにONの数価は120』

「50…120…何を表している数字かわからないわね。うーん。

門___。門か。門は内と外の区別。門は外からの侵入を阻むもの。

「聖なる都市」は門に守られている。エジプト神シューの特性も加味すると…

2つの世界の限界。

2つの世界の境目。

2つの世界の裂け目。

それは限界であると同時に、次の世界への橋でもある?」

(二重の力…二重の意味……それは1つの意味ではなく、2つの意味。

2つの見方…)

「2つの見方?あ、もしかして2つの見方‼︎

1つの考えに囚われない2つのものの見方。

対極的なものの見方っていうこと?」

『塔門に血を撒きながら進んだ者は誰ぞ。バイロンに血を撒いたものこそ鍵である。汝美しきものよ。汝はと呼ばれる』

不可視の天使はようやく彼女の前に姿を現した。

剣を携え、白いローブを肩から掛け、その上から赤いローブを掛けていた。黄金の甲冑に身を包んだ戦士そのものだ。両手には大きな杯があった。

彼は四頭スフィンクスに引かれた戦車に乗っていた。

「鈴木さんのあの現象はゲシュの呪いではなく?もうひとつの意味が隠されていると?そう言いたいの?」

『ゆえに汝は<理解>と呼ばれる』

天使の答えを待つことなく彼女はしゃべり続けた。

自分の中に「言葉」が降りてきていた。

口に出さなければならないと思っていた。

「荊棘は罪人の象徴であると同時に、ドルイドでは愛の象徴。

サンザシの別名は、荊棘とげの予言、純白の荊棘、聖なる象徴。

罪からの解放。荊棘いばらの棘は真実に立ち向かう力を与えるもの。

では、彼を何らかの厄災から守っていた?」

『汝は未だ「聖なる都市」の神秘がわかるまい。この神秘はこの<大気シュー>の神秘と合致しない』

「でも、いったい何が原因で彼にあんな現象が?」

『理解できるもの以外に理解できない。

「彼の現象を止める方法はあるのでしょうか?」

『塔門より見える風景はそなたのもののにあらず。塔門より見える風景は理解にあたわず』

「それは『これ以上、知ろうとするな』、ということですか?何が原因かわからないけれど、彼がこの世界に立ち入りすぎたことが原因だと?」

『夜の貴婦人。汝は<理解>と呼ばれる』

「彼の現象を止めることはできます?今のお話だと知らんぷりすれば、止まるとおっしゃっているように聞こえますが」

『アエティールの知識は<永劫アイオン>と<意志テレマ>の知識であるゆえ。各人の能力に応じて、与えられるであろう』

そう言うと彼は持っていた杯を彼女に手渡した。

リースは驚いて天使の顔、正確には甲冑越しの眼を見ようとした。

しかし、その両眼は闇の中にあり、見えなかった。

彼がどんな表情をして、この杯を手渡してきたか皆目見当がつかなかった。

「これは?」

『エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ』

最初に聞いた彼の言葉とは全く違って聞こえた。

初めてこの言葉を聞いたときの印象は、叫んでいるようだった。

今は違う。

とても静かに奥深い言葉になっていた。

「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」

彼女はその言葉を思わず自分の過去に当てはめて考えてしまった。

その様子に気づいたのか、天使はこう呟いた。

『夜の貴婦人。汝は<理解>と呼ばれる』

「どうして『私』を見捨てられたのですか…」

彼女が現実世界にとどまる理由。

師匠の反対を押し切ってでも、彼女の住む世界統べる存在の意に反しても達成したい目的。

それは…、

「確かに…私がこの体を依代にしているのには理由があります。

そのまで、あなたはお見通しなのですね。

私はもう一度、彼に会いたい。今どこにいるかもわからない…彼に…」

大きな鐘の音が鳴り始め、戦車の座席から6人の小さな子供が出てきた。

リースは驚いて、思わず持っていた杯を自分の前に捧げ持った。

子供たちは見えないほど透明で美しく大きな1枚のヴェールを持っていた。

それで杯を持つ彼女ごと覆ってしまった。

『見よ!我は汝の終わりの日まで見通した。

杯の中には血が、聖人達に祝福された血が入っている。

夜の貴婦人に栄光あれ!そなたの接吻の息で血は発酵し、秘蹟のワインとなる。

そのかき混ぜられたる杯を仰ぎ見さしめよ!』

彼が高らかに宣すると杯が光を帯び始めた。

『ここにおいて真実たる我が<父>の栄光が顕れる』

そう言うと天使は恭しく礼をし、姿を消していった。

『ババロンの愛はひとつ。

そして、彼女の愛はこの唯一の愛を数限りない愛に分ち、それぞれの愛は<唯一のもの>と一致して、同等だからである。

ババロンは永久に彼女自身の輝きにヴェールを掛けねばならない…』

彼女の持つ杯は、これ以上ないくらい光を放った。

あまりの強さに目を開けていられず、顔をそむけながら固く閉じてしまった。

天使の声はなお遠く遠くなっていった。

『わが神はわが神にあらず。

わが神はそなたの神にあらず。

そなたの神はわが神にあらず。

…』

足元のグングルーが、足を動かしていないのに大きく鳴り響いた。

再び目を開けようとしたとき、リースの意識は失われた。 

彼女の耳に天使の最後の言葉が呟かれた。


『愛こそ法である。法の下の愛こそが……』

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