第16話
妖精の世界でも杖を削り出すときに非常に重宝するイチイの木。
常緑針葉樹のため、一年中緑をたたえたままである。
見慣れた木であるため彼女は手を伸ばして触れてみた。
針葉樹で先が尖った葉先であるとはいえ、硬いものではなく、痛くないほど柔らかい。
濃緑色で艶々とした葉は、見ているこちらを安心させた。
秋には赤い実をつける木である。
だが、今はない。
この世界に季節というものが存在すればの話である。
不思議な気持ちで周囲をよく見渡すとそのイチイの木に混じって、サンザシの木も見つけた。
赤い実をつけるサンザシの木である。
しかし、よくよく見ると枝にはありえない長さの棘が無数にしかも縦横無尽に絡み合っているように見えた。
まるで、触られるのを拒否するかのように細く鋭い棘が枝々を覆っていた。
見ていてちょっとぞっとするような棘の多さだ。
この棘に触れてしまったら一体どうなるのだろうと思うと体温が下がる気がした。
湿気を含んだ棘は地面に向かうその角度で先端に露を含んでいた。
透明なそれでいて、光り輝く小さな珠。
上下逆に映り込む世界は非常に儚げで美しく見えた。
そんな小さな小さな世界もここにはあるのだと思った。
2人の天使と共に進んでいくと小さな家のドアの前に到着した。
一歩進むとドアが開くことなく家の中にいた。
一瞬で景色が変化したためリースは戸惑った。
しかし、この世界ではありないことが起こることは、渾沌の天使で経験済みだったので、声を上げることもなく注意して状況を見定めることにした。
真っ暗な家の中で誰かがテーブルに着いている。
よく目を凝らすと椅子に座って何か書き物をしているように見えた。
黒い法衣を着て、フードを深々と被った男性のようだった。
フードの下から見える彼の顔の一部、つまり肌に深く刻まれたしわから推測するとかなり歳を召した老人のようだ。
右手にペンを持ち、左手は右手で書いた文字を指の腹で撫でて追いかけるように読んでいた。
どうやら彼は目が見えないようだ。
絶えず左手が右手の先へ行ったり、逆戻りして書かれた文字を再び指の腹で読むような動きしていたからだ。
右手に握られたペンの動きは止まらない何かをずっと書き綴っている。
(何をそんなに一生懸命に書き込んでいるんだろう?)
そう思うと、体は前に進んでいないのに、目の前にその老人が大きな書物に書き込んでいる文章が見えた。
まるでプロジェクターか何かで大きくスクリーンに映し出されたような感覚だ。
『<書物>に書かれた言の葉は、我が庭に咲く花びらのごとく。
我が
だが、そのなかに我が知らぬ花があり、それは男児となりNEMOと呼ばれよう。』
「?」
彼女は両側にいる天使の顔を見上げた。
「この人がNEMOではないの?」
『彼はNEMOである』
『彼の育てる男児の花がNEMOである』
天使の声は同時に両側からドルビーサラウンドのように聞こえた。
「?」
『彼は男児であったため父の顔を見て
『彼はここで庭園の花の世話を続けるものである』
『よく手入れするものがNEMOと呼ばれる』
『父の顔を見たものがNEMOと呼ばれる』
「NEMOとは何なの?」
『汝の目の前にいるものがNEMOである』
『汝に見えている花がNEMOである』
なんだか禅問答になってきた。
けれどこの場所の雰囲気は非常に平和で落ち着いていて心地よかった。
突き抜けるような楽しさや興奮感はないが、同じように冷たさや否定的な雰囲気もまるでなかった。
±0といった感じだろうか。
この穏やかさは彼女がいる本当の世界と同じような質のものだ。
妖精の世界の時間の流れは人間界の時間の流れとはまるで異なる。
よく妖精界に迷い込む人間は「ここに留まって何もしたくない」と言う。
それと同じ雰囲気だった。
彼女はその選択をするまいと首を横に振った。
取り憑いた人間に影響されているとはいえ、当初の目的を忘れてはならない。
鈴木の見に起きた現象はなんだったのかを明らかにしているのだ。
その様子を察したのか片方の天使が彼女に声をかけた。
『わたしと一緒に来てNEMOがどんなふうに庭の手入れをしているか見よう」
そう言うとまたあたりの景色が変わった。
森の中から、今度は地上にいた。
もう森ではない。木々は見えない。
辺りは完全な暗闇だった。
瞳を見開いて見ても闇が見えるだけだ。
その闇の中ででも見ることはできた。
天使の1人が指差すフードを被った男性は庭にある花にフラスコのようなガラス瓶に入った何か液体をかけていた。
タンパク質が酸で溶けるような嫌な臭いがした。
動くはずのない花が茎を体のように捩り、右に左に花を揺らしながら下を向き、苦しんでいるように見えた。
天使がまた別の男性を指差した。
彼は鎌のように鋭利なナイフで透明な花弁をばらばらにしていた。
破片になった花弁は、ガラスが砕け散るときに出す音を立てながら、土の上に落ち、光っていた。
視線を移していくと幾人もの男性が同じように黒い法衣を着て、庭に咲く花々に何かしらをしていた。
花を地面から抜くと聞いたことのない悲鳴をあげるもの。
松明の燃え盛る火を近づけて焦がそうとするもの。
赤い小さな本を開いてそれに書いてある一節を読み聞かせるもの。
黄金に光り輝く聖油を注ぐものとさまざまである。
「彼らは何のために花を育てているの?」
(何かを象徴している出来事ならば、何を象徴している?
NEMOって何なのかしら?)
『彼らに対する報いは汝の知るところではない』
『彼らに対する報いは彼らのみが知る』
『彼らはただ庭の手入れをするのみである』
『彼らはただ己がしようと決めたことをするのみである』
『彼らは地上に生きるものの味方である』
『彼らは地上に生きるものに愛を捧げる』
(この庭は…この花々は…地上にいる人たちに関係しているの?)
『彼らは隠者である』
『彼らは孤独を好む』
『彼らは光だけを人に与える』
『彼らは水を撒き道をつくる』
気づくと彼(ら)に最初に出会った場所に戻ってきていた。
淡い金色に彩られた場所に。
『彼らがNEMOと呼ばれる所以である』
『彼らこそNEMOというものである』
『 NEMOとは幻聴を聴くものである』
『 NEMOとは霊視を見るものである』
『 NEMOでなければ幻聴を得ることはできぬ』
『 NEMOでなければ霊視を得ることはできぬ』
もう天使の姿は彼女のそばにはなかった。
ただ声だけが響いていた。
それは風の音のように聞こえた。
「なぜ、あなたたちはそんなことを私に話しているの?」
(言ってることが矛盾している!?)
『我は汝に語ってはいない』
『汝が汝自身に語っている』
「私が私自身に」
(どういうこと?)
『汝がNEMOと呼ばれるようになれば、解けなかったすべての謎に対する答えは探さなくても汝自身の心に浮かぶであろう』
『汝がNEMOと呼ばれるようになれば、その叡知を世界に提供し、その世界が汝の庭となるであろう』
『汝は、時間と死と無関係になるであろう』
『汝は、言葉によって自らを理解へと導くであろう』
『現象には理由がある』
『見える理由と見えない理由が』
『見える理由のみに惑わされるなかれ』
『見えない理由にこそ着目し理解せよ』
『それぞれに固有の』
『それぞれに異なった』
『それぞれに特有の』
『それぞれに必要な特性を理解せよ』
『さもなければ庭の手入れなぞできぬ』
『さもなければ庭の手入れなぞできぬ』
『理解せよ』
『理解せよ』
まるでサラウンド放送のようだ。
あちらとこちらから同時に聞こえてくる。
『悪魔が来る』
『悪魔はNEMO以外には真実のかけらも見せぬ』
『門をくぐりしものよ。心せよ』
目の前に最初にくぐったものと同じ大理石の門があった。
『汝、NEMOでなければここより連れ去られるであろう』
『門をくぐりしものよ。心せよ』
『汝、NEMOでなければ嘘を信じさせられるであろう』
『神は人を誘惑す』
『悪魔は人を誘惑す』
『言葉はときに沈黙を必要とす』
『沈黙は沈黙によって証明される』
『疑問は疑問しか生まぬ』
『疑問は答えを必要とせず』
『答えは虚しいものである』
『疑問も虚しいものである』
門が音もなく開いた。
天使の声はなお門の向こう側から聞こえていた。
『すべてを知るものとなれ』
『すべてを得るものとなれ』
彼女は開いた門の扉に手をかけた。
天使との会話はこれまでなのだと思ったからだ。
大理石の扉はひんやりと心地よい冷たさだった。
『光も闇もない』
『知も無知もない』
『それらが必要でなくなったものがこの場所に来ることができる』
リースは後ろを振り返りながら門をくぐった。
その言葉を最後に扉は閉じられた。
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