第5話 奴か?

 邪魔どころではなかった。

 レンジャーの訓練を受けたというのは嘘ではなかったようだ。

 険しい洞窟の中をひょいひょいと進む彼女に、取り残されないよう僕の方が必死だった。

「ちょっと待ってくれ」

 小太刀珠は立ち止まって僕の方を振り向く。

「あまりの不用意に進むな。この洞窟には何かがいるんだ」

「何かってなんです?」

 僕はインド隊のロボットが撮影した映像の事を話した。

「誰かが先に入っていたんじゃないんですか?」

「そうかもしれないが、万が一という事もある」

「万が一ってなんです? まさかこの洞窟に月人がいるとでも?」

「いや、そうは言ってないが」

「大丈夫です。月人なんていません。いるわけありません。絶対にいません」

 いや、そこまで断固たる口調で否定しなくても……

「君はひょっとしてお兄さんを嫌っているのか?」

「そ……そんな事ありません」

 一瞬、答えを躊躇した。という事は嫌っているんだな。

 小太刀は変わり者だが、決して悪い奴ではない。あいつが妹から邪険にされていると思うと少々気の毒な気がする。

「佐竹さん。前に何かいます」

「なに?」

 前方を凝視する。確かに洞窟の向こうで光が動いている。

 例の奴だろうか?

「そこに誰かいるのか?」

 英語だった。どうやら先に入ったチームらしい。

「日本隊だ。そちらは?」

「カナダ隊の者だ。生存者を一人見つけた。しかし出血が酷い。人工血液はあるか?」

 輸血用人工血液は装備の中に入っていた。

「あるぞ。今からそっちへ行く」

 光の方へ向かって歩いていくと、男が一人岩の上に横たわっていた。その左右で二人の男が手当てをしている。

「血液だ」

 僕は人工血液のボトルを差し出す。

 男が一人振り向いてボトルを受けとった。

「ありがとう、助かったよ。我々の持ってきた血液は使い切ってしまったとこなんだ」

「彼は大丈夫なのか?」

「意識はあるし、まもなく出血も止まる。ただ、血が足りなくなるところだった」

「彼だけか?」

「いや、洞窟の奥にまだ一人いるらしい」

「そうか。じゃあ僕達はそっちへ」

 奥へ行こうとした僕達を、もう一人の男が制止した。

「ちょっと待て。これを聞いてくれ」

 男は通信機を差し出す。

「彼が持っていたものだ。通信記録が残っていたので聞いてみたんだが」

 男は通信機の記録を再生した。

『こちらハンス。聞こえるか?』

『ああ聞こえる。なにかあったか?』

『逃げろ! 直ぐに、この洞窟から逃げるんだ!!』

『なに!?』

 その直後、通信機からゴーという突風のような音が鳴り響いた。

「これが録音されたのは、ちょうど空気漏れが始まった時刻なんだ」

 男は通信機のタイマーを指差した。

「という事は、ハンスという男は穴の近くにいたんじゃないのか?」

「私もそう思うんだが、問題はその後だ」

 ゴーと風の音が続いた後、突然人の声がスピーカーから流れた。

『バケモノ!!』

 ハンスの声だった。そして録音はそこで終わっていた。

 バケモノ? ハンスはいったい何を見たんだ?

「例の奴か?」

 僕の質問にカナダ隊の男は首をすくめる。

「分からん。だが、ハンスは何かに襲われたんだ。これ以上先へ進むのは危険だ」

「見捨てるのか?」

「しかたあるまい。我々は武器になるようなものを持って……おい君! よせ」

 男の視線は僕の背後を向いていた。

 振り向くと、小太刀珠が洞窟の奥へと向かうところだった。僕は慌てて追いかけたがなかなか追いつけない。

「小太刀君。よせ、戻るんだ」

 彼女は振り向いて言う。

「なんで戻るのです!? この奥に遭難者がいるんですよ。あたし達は救助に来たんじゃないんですか?」

「そうだけど。今の話を聞いただろ。ハンスは何かに襲われたんだ」

「そうでしょうか? あたしは違うと思います。きっと何かを見間違えたんです」

「なぜそう思う?」

「女の勘です」

「話にならん」

 彼女はかまわず先に進む。

「わかった。僕も一緒にいくから、少しペースを落としてくれ」

「はい」

 ようやく僕は彼女に追いついた。

 暫くの間、僕らは無言で洞窟を進み続ける。

 沈黙を先に破ったのは彼女だった。

「佐竹さん。月噴水ムーンファンテンを見たことありますか?」

「二回ほどあるが」

「どんな感じでした?」

「どんなって、細かい砂が舞い上がって、まるで光る霧のようだった」

「そうですか」

 彼女は暫く考え込む。

「あたしの父は月面車の運転中に『凄い霧だ』という言葉を最後に消息を絶ったのです」

「ああ、それは知ってる」

「兄は宇宙省の人からそれを聞いて、言葉通りに受け止めてしまったのです」

「言葉通り?」

「ええ。霧が発生する。という事は月には本当は空気があって、NASAも宇宙省もそれを隠していると」

「それで月人を信じるようになったのか」

「ええ。あたしも当時は子供だったし、兄の言ってる通りなのかなと思ってました。でも中学生ぐらいになってから、何かおかしいと思うようになったんです」

「それで、どうしたんだ?」

「調べたんです。父が消息を絶った時刻と場所を。そうしたら、ちょうどその時刻その場所は、月の日没にぶつかっていたのです」

「なるほど」

「つまり父が言っていた霧というのは月噴水ムーンファンテンの事だったのです。父は恐らく、月噴水ムーンファンテンに視界を遮られて、クレパスか何かに落ちたのだと思うのです」

「その事はお兄さんに言ったのか?」

「言ったら、引っぱたかれました」

 それは酷い。妹に嫌われても仕方あるまい。

「佐竹さん。誰か倒れてます」

 投光機の照らし出す光の中に男が仰向けに倒れていた。

 ハンスだろうか?

 胸のネームプレートを確認する。

 ハンス・ラインヘルガーと書いてある。どうやら彼のようだ。

 小太刀珠は彼の手袋を外して脈を測った。

「脈は正常です。気を失っているだけのようですね」

「そうか」

 僕は気付け薬を出して彼の袖を捲りあげ注射した。

「ううん」

 程なくしてハンスは意識を取り戻した。

「ここは……どこだ?」

 まだ意識が朦朧しているようだ。

「しっかりしろ。君は助かったんだ」

「助かった? あ!」

 どうやら思い出したようだ。

「何があったんだ?」

「池を見つけたんだ」

「池?」

「そうだ。洞窟の中で僕だけ仲間と別行動を取ったのだ。そして洞窟の中を歩いていると目の前に池が現れたんだ」

「おい。気は確かか? ここは月だぞ」

「大丈夫だ。原因は直ぐに分かった。池には上から激しく水滴が落ちていたんだ」

「水滴?」

「ああ。上を見上げると天井が氷に覆われていたんだ。水滴はそこから落ちていた」

「という事は洞窟に空気を入れたために」

「ああ。今まで穴を塞いでいた氷が溶け出したんだ。僕が見たときには氷に亀裂が入り、そこから空気が抜けていくのが見えた。氷の向こうは月面だったんだよ」

「それで、仲間に逃げろと」

「ああ。だが少し遅かった。逃げる途中で氷が割れて、凄い突風に襲われた」

「それで『バケモノ』というのは?」

「バケモノ? なんの事だ?」

 ハンスは不思議そうに僕を見る。

 覚えていないのか?

「君が最後に言った言葉だ」

 ハンスは考え込んだ。

「佐竹さん。ちょっとこれ見てください」

 声の方を振り向くと、小太刀珠がしゃがみ込んで地面を指差していた。

 なんだ、これは?

 岩に爪が食い込んだような痕がある。

 どう見ても自然にできた痕には見えない。

 同じ大きさの爪痕が一センチ幅で五つ並んでいる。さらにそこから一メートル離れたところに同じような痕跡が。

 何者か分からないが、岩に食い込むような爪を持った奴がこの洞窟にいるというのか?

「思い出した!!」

 突然ハンスが叫んだ。

「空気が薄くなって意識が朦朧としていたときに、突然後から身体をつかまれたんだよ」

「掴まれたって……誰に?」

「あいつだ」

「あいつ?」

「インド隊のロボットが撮影したあいつだよ」

 やはり、何かがいたんだ。この洞窟に。

 月人? いや、そんなものいるはずない。

 だが、なんにせよ、ここは危険だ。

「小太刀君、手伝ってくれ。ハンスを運ぶ」

 振り返ると、小太刀珠は暗闇を凝視していた。その視線の先に何かがいる。


 奴か?

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