「竜とそばかすの姫」を観てきたので感想を書く

さっき仕事帰りに池袋の映画館で観てきました。


 風の噂でネットの誹謗中傷、匿名性の問題等を描いているとか美女と野獣のオマージュ的なことを聞いていたのですが、自分が思ったのは『「正義」とはなんぞや? ということを今一度考えてみよう』という映画だったなと感じました。

 

 構造的にはこの問いかけを、主人公の成長を通して描いていたのかなと。

 なぜ僕がそう思ったのかを感想も混ぜながら書こうと思います。


 考察とか見てないので勘違いも多々あると思いますが個人的な感想として聞き流して下さい。

 あとめっちゃネタバレ書きます。



 冒頭で、主人公の母親が亡くなった理由が描かれます。

 家族で遊びに行った際に急な雨で川が増水して見ず知らずの子供が取り残されてしまいます。誰かが助けに行かなければ流されて死んでしまうという状況です。

 主人公の母親は、彼女の中の正義に従い見ず知らずの子供を助けに氾濫した川へ飛び込みました。助けに向かう母親に主人公は「行かないで!」と泣きすがりますが、その手を振りほどき助けに向かいます。このシーンが個人的には印象的でした。目の前の他人の危機に自分の子供をなだめることもせず置き去りにする母親の強い正義感を、なんでここまで強調して描くのかなと。ですが終盤の主人公がトラウマを克服するシーンを見て納得しました(後述します)。

結果として子供は助かりましたが母親は死んでしまいます。

 「知らない子供を助けてお母さんは私を置いていくの? なんで?」と流された母の元へとすがるように激流の川へ歩きだす主人公の手を誰かの手が掴み止められます。僕は父親の手と思っていましたが最後に幼馴染みだったことがわかりましたね。

 改めて考えるとあの場に父親がいれば母親を止めるか父親が飛び込んでいたでしょうね。父親にも父親の想い(正義)があり、それはきっと家族と自分を比較したときに家族の方を優先すると思います。すみません、少し逸れてしまいました。

 さて、この事件以来主人公は塞ぎ込んでしまうようです。

 彼女のトラウマの理由は単純明快で母親の死です。それを突き詰めていくと良心(正義)に従い行動した母親の死となり、トラウマの原因は正義だと思います。


 塞ぎ込み歌うことができなくなった彼女は「U」という仮想空間の世界と出会います。そこで彼女はベルという名前で歌を歌うことができました。おそらく自分ではない別の存在になったような気がして、Uの中では彼女は現実から切り離された状態なのでしょう。


 その時の映像が注目を集めベルはUという世界で1番の有名人となってしまいます。

 リアルとアバターとの乖離が加速します。同時に「ベルは誰なんだ?」という彼女を特定しようという声も上がります。当然ベル=自分だとバレるとリアル=アバターとなりアバターであるベルの姿であったとしても歌うことができなくなるでしょう。そのため秘密にしなければならなくなります。

 そうしたなかで、竜と遭遇です。


 彼女のライブの最中にジャスティス(でしたかね?)という警察組織みたいな人たちに追われた竜が会場に乱入しライブは中断します。

 ネットの警察(正義)が竜(悪い奴)を取り押さえようとする際にアンベイル(だったかな?)というアバターをリアルの姿に戻す力を行使しようとします。周りの人たちはこの流れを囃し立てるように傍観しています。

 この状況はネットで未成年の殺人犯の顔を特定しようとしたりする部分と重なりました。

 映画の中では警察組織が行う行為であるため、アンベイル自体が正義であると自分は認識しましたが、上記のように考えると犯人の顔を特定する人達にも掲げる正義があるし、現実であるからこそそれを正義と捉えない自分と好奇心からどんな顔なのだろうと傍観し晒されれば飛び付く自分が存在するなとモヤモヤするというか嫌な気持ちになりました。現実と映画の中では比較できる部分とそうでない部分もありますがなんともいえない気分です。


 話を戻しますが、竜と出会った主人公は竜の正体が気になります。やはり主人公とはいっても同じ等身大の人間なんだなと思いました。この時彼女は悪い一面として前述した好奇心から彼の正体を知りたいと感じたんだと思います。

 ざっくりした流れですが、その後ベルは竜に助けられたり、抱き合うことで互いの本性を少しずつ知っていきます。

 

 物語は終盤へ進むと、竜(世間的には悪い奴)が警察組織(正義)に再び追い詰められていきます。主人公は大切な竜が警察組織に傷つけられる姿を見て竜を心から助けたいと思います。

 全世界の人々が好奇心から竜の正体を晒そうとする中、主人公だけが彼を救うために彼の正体の手がかりを必死に探します。


 そしてベルと竜だけが知る曲を現実世界で口ずさむ少年を見つけました。

 竜を応援するというタイトルで配信されていたネット中継に映っていたその少年は、ベルを初めてほめてくれたクリオネの姿のアバターであり、竜の正体である少年の弟でした。

 その後、彼ら兄弟が父親に暴力を振るわれる姿が流れ主人公は竜の痣の訳を知ります。その際父親は「ここでは自分がルール(正義)だ」的なことを怒鳴りながら2人を傷つけていました。その画面にはテレビ電話のような通話が可能なボタンがあり主人公は通話を試みます。彼らを助けたいと伝えても、竜である少年にその声は届きません。なぜなら彼らは現実の世界で何度も助けを求め、その結果誰も救いの手を差しのべてはくれなかったのでしょう。どこの誰かもわからない他人が自分を助けるなんてありえない。できるはずがない。現実に絶望していた少年には主人公の言葉は偽善としか思えなかったのでしょう。そうした経験から、竜の正体である少年は初めて差しのべられた優しさを疑い、拒絶してしまうのです。


 通話を一方的に切られ主人公は2人を探しだす手がかりを絶たれてしまいます。

 ここで主人公は幼馴染みの男の子からベルの姿ではなく、彼らに見せた現実の姿で歌うことで自分がベルであることを知らせるしかないと助言します。彼は最後の場面で「もう見守るだけの立場はやめる」的なことを言っています。彼は母親が亡くなった日から母親の代わりをしていたのでしょう。

 親は自分の子供に出来ないことを無理強いしませんよね。彼は彼が見てきた主人公なら出来ると考えていたのだと思います。「大丈夫か?」と心配していた守るべき存在だった彼女が、ベルになることで少しずつ変わり始め成長していることに彼だけが気づいていたのかもしれません。また脱線してしまい申し訳ないです。


 彼女にとって、ベルが自分であることを知らせるということはU=リアル、つまり現実の世界で歌うことと同義です。それはつまりトラウマの克服。

 この時、主人公はガタガタと震えていました。

 葛藤です。

 葛藤の末、彼女はアンベイルを自ら受け自分の姿のまま歌います。


 正直鳥肌が立ちました。

 なんて綺麗なシナリオなんだろうと思いました。


 この時、あの日の母親と同じように彼女は氾濫する川の前に立っていたのです。つまり、追体験です。

 彼女にとって自分の姿で歌うこと=川に飛び込むことです。母親は死の可能性があっても自分の中の正義に従い子供を助けました。

 彼女はトラウマを克服して自分の姿で歌うこと(正義)と、トラウマを克服できず自分の姿を晒し歌うことができない可能性(死)を秤にかけて、正義に傾きました。そして見事トラウマを克服します。

 母親と違い悩みに悩んだからこそ、母の気持ちがわかると、一切の迷いなく川に飛び込んだ母の偉大さが痛いほど理解できたのではないかと思います。


 昨今のアニメーション映画は追体験を描くものが多いのですが最近観た中で1番良かったと思います。


 世界と大切な人のどちらかを選ぶなんてあり得ないストーリーよりも、日常で見るシーンが随所に存在したりして感情移入もしやすかったのでグッと来るものがありました。


 繰り返しになりますが、個人的に印象に残ったと書いた葛藤シーンをまた映画館へ観に行くという方がいたら是非注目してほしいなと思います。泣きそうに震え葛藤する姿はまさに普通の女子高生ですが、歌い始めた彼女はトラウマを乗り越え、なりたかったもう1人の自分(ベル)になることができたのでしょう。

 そう考えるとアンベイルされたあと、元のベルの姿に戻れたのはそうした意味も含まれた演出だったのかもしれませんね。


 では、長くなりましたがざっくりとした結論のようなものを述べて終わりにします。


 作中では正義というものが形や大きさが幾度も移り変わりなが描かれていました。

 だから僕は、この映画のテーマを正義について考えてみようという風に受け取ったのかもしれません。


 と言うわけで、個人的な感想でした。

 チャンチャン。

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