第103話 伊勢侵攻
主要登場人物別名
忠三郎… 蒲生賦秀 蒲生家当主 後の氏郷
将監… 町野繁仍 賦秀の傅役として幼少から仕える
万鉄斎… 関盛信 伊勢亀山城主 蒲生定秀の娘婿
筑前守… 羽柴秀吉 後の豊臣秀吉
小一郎… 羽柴秀長 秀吉の実弟
義太夫… 滝川益氏 滝川一益の重臣
――――――――
空には黒煙がたなびき、周囲には鉄砲の銃撃音が所かまわず鳴り響いている。
賦秀は馬上にあって前線を凝視していた。
「さすがは佐治新助殿と言ったところですか」
「うむ。中々に堅く守っているようだ」
町野繁仍が賦秀の側に馬を寄せて来る。対する賦秀は視線を前線に向けたまま声だけを返した。
賦秀と町野の視線の先では秀吉本軍の先陣として亀山城に攻めかかる蒲生勢の姿があった。陣頭には関盛信や小倉行春の馬印がある。
関盛信は賦秀の叔母婿であり、小倉行春は賦秀の従兄弟に当たる。いずれも蒲生家の準一門と言える者達だ。
天正十一年正月二十三日
秀吉は満を持して軍勢を伊勢へと進めた。
大垣方面からは土岐多羅尾口から羽柴秀長、筒井順慶、氏家直昌ら二万五千の軍勢が養老山地を越えて桑名へと兵を進め、東近江からは君が畑を越えて三好康長、中村一氏、堀尾吉晴らが二万余りの軍勢を率いて四日市方面へ進軍する。
そして秀吉本軍は三万余りの軍勢で安楽峠を越えて亀山城へと進軍した。
いずれも主要街道である八風・千草両街道や東海道を避けて山道を越える進軍路であり、街道での迎撃態勢を整えていた滝川一益の備えは悉く裏をかかれた。
元々兵力に劣る滝川勢はやむを得ず国境での迎撃を諦め、亀山城・峯城などの各城に軍勢を戻して籠城戦の構えに入った。
もとより越前の雪が溶けるまで秀吉軍を伊勢に引き付けるのが狙いだから、その意味では籠城戦でも問題は無い。一益も亀山城を佐治新助に、峯城を滝川益氏に任せ、自身は伊勢桑名城に籠城して尾張・大垣方面からの軍勢を引き付けている。
蒲生賦秀は関盛信と共に秀吉本軍の水先案内として安楽越えを進み、そのまま伊勢に乱入して亀山城に攻めかかっていた。無論、本来の亀山城主である関盛信が蒲生の縁戚であることを考慮した上での配置だ。
そして閏正月二十六日
秀吉から賦秀の蒲生勢に対し、亀山城に攻めかかれとの下知が下った。
「無理攻めは禁物と大殿から重々申しつけられているはずですが……」
町野繁仍が次に賦秀の口から出るであろう言葉を察し、先回りする。
だが、当の賦秀は既に兜の緒を締め直し、祖父定秀からもらい受けた赤樫の大身槍を槍持ちから受け取っていた。
「なに、いかに佐治とはいえこの大軍を前にすれば下手に逆襲など出来まいよ。我が蒲生の武勇を筑前守殿に見せつけてやろうではないか」
―――猿に舐められてたまるか
その言葉が賦秀の心の内に隠れていることを敏感に察しながら、町野もため息を吐いて兜の緒を締め直した。
「駆けるぞ!将監!」
「くれぐれも、御身大切ですぞ」
「分かっておる!」
そう叫ぶや否や、蒲生本陣の先頭を切って賦秀が馬腹を蹴った。
一拍遅れて町野も馬を駆けさせ、続いて赤座隼人らの馬廻衆が賦秀に続く。賦秀得意の本陣突撃だ。
賢秀の陣代として畿内を駆けまわっていた頃から賦秀は軍の先頭を切って駆けるこの戦法を得意としていた。周囲の者からは無茶な突撃だと見られていても不思議と賦秀自身が窮地に陥ったことは無く、今や蒲生賦秀の突撃は蒲生お馴染みの戦法として浸透していた。
無論、賦秀とて命が惜しくないわけでもなければ、己だけは死なぬと思うほど楽観主義なわけでもない。
六角家の重臣であった蒲生家は織田の世となっても領地を維持し続け、今や六角旧臣の多くは蒲生家を頼って仕官して来ていた。馬廻衆を務める赤座隼人も元は六角の直臣であった男だ。
その新参の者達にとって蒲生家は元々朋輩であり、いかに格上であったとはいえ蒲生の下知で戦って来た譜代ではない。
その為、新参の者達を蒲生の軍法に馴染ませる必要があった。
賦秀の発した軍法は厳しい物で、行軍中はいかなる理由があろうとも隊列を乱してはならないと規定されていた他、大将の下知には何を置いても従わなければならないと厳しく規定している。
だが、肝心の場面でそれが浸透していなければ軍勢としては役に立たない。
そこで賦秀は日頃から兵の士気を鼓舞し、合わせて突撃の際に怖気づかない軍勢を育てる為の方策として自身が率先垂範することを繰り返した。
いかに新参の者とは言え、自軍の総大将が先頭を駆けていれば続かないわけにはいかない。そして賦秀は戦機を読む天賦の才に恵まれていた。
天正初年の合戦こそ不慣れな突撃戦法に戸惑った蒲生軍だったが、今では賦秀の合図を受ければ即座に反応して全軍突撃の態勢に入れるまでに練度が向上している。
同時代の中では今一つ評価が高くない蒲生賦秀だが、実は誰よりも早く軍制改革を実施し、大将を頂点とした近世的な指揮系統を確立していた。
賦秀の突撃に合わせて小倉行春の軍勢も敵の逆茂木の一点に兵力を集中させて敵の備えに傷口を作る。その傷口に賦秀の本軍が殺到した。
城兵は突然の総攻撃に面食らったが、それでもここを抜かれれば城が落ちると命を捨てて防戦に掛かって来る。
やがて蒲生と佐治の兵はお互いの旗指物が触れ合うほどに肉薄し、激しい乱戦となった。
※ ※ ※
「此度の亀山城攻めでは忠三郎殿の軍功が飛びぬけていた。お見事な戦ぶりでしたな」
「勿体なきお言葉です」
伊勢亀山城の広間では秀吉が上機嫌に笑っていた。賦秀は秀吉の下座にあって頭を垂れている。
蒲生勢の奮戦の甲斐もあり、亀山城は早々に落城した。逆茂木や柵はもちろん、南西の塀までが引き倒される事態に陥り、もはや亀山城の防御は無きに等しくなっていた。
城将を務める佐治新助も絶望的な防衛戦を良く戦ったが、ついに矢尽き刀折れて秀吉に降伏。城に籠る滝川勢の長島城への撤退を条件としていたが、秀吉はこの条件を承諾し、無事に亀山城の引き渡しを受けた所だった。
「やはり忠三郎殿を見込んだ儂の目に狂いはなかった。いやあ、この筑前守も大いに面目を施しましたぞ」
秀吉の言葉に、思わず賦秀の頬が緩む。
舐められていると知って秀吉何するものぞと憤って見ても、本人を前にするとつい頬が緩んでしまう。秀吉に対して敵愾心に近い物を持ってはいるが、それでもこうして大げさに褒められれば決して悪い気はしない。
人たらしとはよく言った物だと賦秀も秀吉の人心掌握術に舌を巻かずにはおれなかった。
「元々亀山城は万鉄斎殿が知行されていた城だが、此度の事で伊勢には重石が必要であると痛感した。この亀山城は忠三郎殿に差し上げたく思うが、どうだろうか?」
「それは……義叔父の万鉄斎にも意地がありましょうし、某も敢えて身内の領地を奪い取るのはいささか……」
「おお、何とも気遣いを為されるものよ。さすがは名門武家の蒲生家だ。子が親の領地を奪い取るこの時世にあって義叔父の心情を
なおも大げさな秀吉の褒め方にさすがの賦秀も不審な顔をした。
いかに賦秀の心を操ろうとしているとしても、これだけ馬鹿のように褒められれば何か裏があると思うのは当然だ。
「では、こうしてはどうかな? 亀山城は忠三郎殿に差し上げるとして、万鉄斎殿は蒲生の与力とする。万鉄斎殿は亀山城代として城主の任に当たられては?」
―――なるほど……
要するに義叔父の関盛信ではいささか頼りないから賦秀が伊勢の面倒を見ろということだ。
仮にも亀山城主ということになれば、少なくとも亀山城周辺の鎮圧は蒲生家の役目という事になる。何のことは無い。亀山城一城と引き換えに中伊勢の鎮圧の責任者に祭り上げられたということだ。
だが、これは賦秀にとっても決して悪い話ではない。
祖父定秀の代から蒲生家はたびたび伊勢に軍勢を出し、かつ伊勢での血縁関係も持っている。関盛信が蒲生の与力とされれば、伊勢国内での蒲生の影響力は益々大きくなるだろう。
秀吉の言う『重石』としてはこれ以上ない措置と言える。
「承知しました。差し当たり、某はいずこの城を攻めればよろしいか?」
打てば響くような賦秀の返答に秀吉も思わず口元を綻ばせた。
「峯城がな……小一郎が城攻めに当たっているが、中々に手強い。佐治新助も手強かったが、義太夫はさらに難敵だ。是非とも忠三郎殿のお力添えをお願いしたい」
「はて、峯城攻めがそれほどに難儀するとは思えませぬが……。いかに堅城であっても所詮は孤立した城。ゆるゆると囲めばやがて兵糧も尽きましょう」
賦秀の言葉に秀吉の顔が初めて曇る。
秀吉の表情を見て賦秀にもようやく思い当たることがあった。
亀山城の北に位置する峯城は滝川一益の従弟である滝川益氏が守備している。秀吉の弟の羽柴秀長が総大将となって亀山城よりも早くに峯城を包囲していたが、峯城は亀山城以上に頑強に抵抗し、今に至るも落城の気配を一切見せていない。
城が堅いとなれば兵糧攻めにするなりなんなりやり様はある。そして秀吉は城攻めの名手として知られている。今更蒲生の力が必要とも思えない。
つまり、秀吉には蒲生の領地を増やしてでも自身が峯城攻めを指揮できない理由があると見るべきだ。
「さては、柴田殿が動きましたか」
「はっはっは。さすがは忠三郎殿だな」
口では上機嫌に笑いながら、既に秀吉の目は笑っていなかった。
賦秀の勘の良さを改めて思い知ったのだろう。先ほどまでとは打って変わって賦秀を値踏みする目付きに変わっている。
賦秀には秀吉が改めて警戒感を持ち始めているように感じた。
―――少しやり過ぎたか
己の器量を侮られては腹が立つが、さりとて秀吉に無用の警戒心を持たれるのも良くはない。賦秀の使命はあくまでも三法師を守護奉ることだ。
賦秀は己がやり過ぎたことを少し後悔しながら、それでも秀吉の視線を正面から受け止めた。
「察しの通り、北国勢が雪を押して近江に軍勢を進めて来たと報せがあった。佐久間玄蕃が木之本に陣を張っているそうだ。儂はこれより北に向かい、柴田に対応せねばならん。いつまでも伊勢で遊んでいるわけにはいかぬのでな」
「委細承知いたしました。では、某が滝川勢を抑えましょう」
「うむ。そうしてくれると有難い」
秀吉の代わりに滝川勢を抑え込むと明言した賦秀に対し、秀吉の目付きが変わることは無かった。
賦秀は改めて『小心者』という風説を気にした様子も無く飄々と過ごして来た賢秀の器量の程を実感せずにはいられなかった。
―――儂には父上の真似は出来んな
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