第102話 滝川一益挙兵
主要登場人物別名
忠三郎… 蒲生賦秀 後の蒲生氏郷 蒲生家当主
左兵衛大夫… 蒲生賢秀 蒲生家前当主 賦秀の父
万鉄… 関盛信 伊勢亀山城主 賢秀の妹婿 滝川一益に亀山城を奪われて蒲生を頼る
左近将監… 滝川一益 織田家臣
義太夫… 滝川益氏 一益の従兄弟 滝川重臣
――――――――
「何!? 岐阜城の三七様が!?」
「ハッ! 岐阜城を開いて羽柴に降ったとのこと」
「柴田殿は何をしておる! 長浜城に向けて羽柴の軍勢が進発したことはとうに報せが参っておるだろうに」
「雪で……軍勢が動かせぬと……」
「むぅ……」
近江より駆け込んで来た家臣の報せを聞きながら、滝川一益は重臣の滝川益氏と共に絵図面を囲んでいた。
畿内周辺を大雑把に描いた絵図面には各地に白と黒の碁石を並べてある。
越前には白石が並び、摂津や京には黒石が集まっている。
今の報告を基に長浜城と岐阜城に置かれていた白石が黒に置き換えられた。
「予想以上に羽柴の進軍が早いな」
「ええ。どうやら入念に準備を整えていたようです。これほど早くに岐阜城までもが落ちるとは……」
清州会議以後の羽柴秀吉は徐々に織田家重臣筆頭格としての行動を取り始めた。
具体的には亡き信長の葬儀を京の大徳寺に置いて盛大に執り行った。喪主は信長の四男である秀勝とされたが、この秀勝は今は秀吉の養子に入って『羽柴秀勝』を名乗っている。
つまり、世の人から見れば『秀吉こそが信長の後継者である』というパフォーマンスと捉えられるだろうことを計算の上で事を謀った。
無論、秀吉の独断専行に清州会議に参加した宿老達は黙っているはずはなかったが、秀吉は事前に丹羽長秀と堀秀政の二人と会合を持って喪主の件を決めていた。そして池田恒興は元々秀吉に好意的な男で、粗暴な柴田勝家よりは柔和な羽柴秀吉の肩を持っている人物だ。
つまり、織田家四宿老の内柴田勝家以外の者を懐柔した。
秀吉の狙いは明確だった。
実質的に天下人としての信長の後継者は自分であると自負し、そのことを力で世に示す為に柴田勝家を合戦で打ち破ることを狙っている。
今回の下準備も相当に前から準備していたものであろうことは容易に想像がつく。
情勢は勝家に取って不利に傾いていると言わざるを得ない。
「あの猿めにしてやられたか」
「如何なさいますか? 今からでも羽柴に与しますか?」
今や伊勢の一城主に過ぎない滝川一益に対しては秀吉も積極的な調略を仕掛けて来てはいない。無論何も話が来ていないわけでは無かったが、昔から秀吉と一益は決して仲が良いわけでは無かった。その為、一益に対する秀吉の調略も自然とおざなりな物になっていた。
だが、一益は未だ明確に柴田に味方すると宣言したわけではない。柴田が負けるならば、今からでも羽柴に鞍替えするべきだ。今更秀吉に味方したとしても厚遇などは望めないが、負ける方に味方するよりはまだマシだろう。
だが……
―――これは好機かもしれぬ
現状で柴田勝家が不利になっているのであれば、伊勢の一益の存在は勝家にとってますます大きいものになるはずだ。仮に伊勢を抑えて秀吉の軍勢を引き付ければ、羽柴軍の動きはそれだけ制限される。
雪が溶けて越前から柴田軍が押し寄せた時には、功第一等は紛れもなく一益となるだろう。
「義太夫。軍勢を集めよ」
「起たれますか?」
「ああ。敵は秀吉。羽柴秀吉だ」
益氏の顔が一気に引き締まる。
情勢が不利なのは益氏とて百も承知だ。だが、このまま羽柴に付いたとしても一益には先がないこともまた分かっていた。
戦国最強と謳われた織田鉄砲隊の総指揮官。織田家中にて右に出る者のいない鉄砲戦の巧者。
その滝川一益が、このまま伊勢長島の一城主として朽ちてゆくのは益氏とて口惜しいという思いがある。むしろ一益の決断を心待ちにしていたと言ってもいい。
「まずは亀山城並びに伊勢の諸城を攻略し、伊賀・甲賀を抜けて京を圧迫する。京が危ないとなれば近江に進出してきた猿も軍を退かざるを得まい。春まで持ち堪えれば猿は南北から挟撃される。それまでこの滝川一益が猿を東西に走り回らせてくれるわ」
「この戦に勝てば、殿は再び織田家の宿老の一人に返り咲きましょうな」
「宿老どころではないぞ。儂の力で勝てば、柴田とて儂に頭が上がらぬようになる。織田家第一等の実力者はこの儂よ」
「近江から攻め寄せるのは、まずは蒲生と相成りましょうか」
―――蒲生か。こうして再び相まみえるとはな。
「恐らく軍勢は倅が率いることになろう。左兵衛大夫ならばともかく、あの倅ならば恐れるに足らぬ。案ずるな」
一益の脳裏には忠三郎賦秀の顔が蘇る。
天正伊賀の乱では散々に苦戦し、滝川の援軍によってようやく勝ちを得た男だ。賦秀に対する一益の評価は、その時の評価から変わっていない。
―――頼りない倅で残念だったな
不敵に笑いながら一益は日野に置かれた黒石を払いのけた。
絵図面上には再び白と黒の碁石が並べられ、今後起こるべき局面において様々な動きの検討が続いている。だが、その後も日野に黒石が置かれることは無かった。
※ ※ ※
正月の松も取れた頃、冬晴の日差しを受けて中野城の一室には柔らかな光が満ちていた。
「父上、お加減はいかがですか」
「悪くはない。良くもないのが辛い所だがな」
「悪くなければ上々でございましょう。このまま養生を続ければいずれ快復する日も近うございますぞ」
鎧下地姿の賦秀が父の賢秀に笑いかける。だが、それを受ける賢秀は床に伏していた。
天正十一年正月
伊勢長島城の滝川一益が羽柴秀吉に対して挙兵した。
滝川勢には柴田勢が雪で動けない中で秀吉の動きを牽制する目的があると見られ、長島から尾張を窺う一方で伊勢亀山城や峯城などの中伊勢諸城を攻略し、北伊勢・中伊勢のほぼ全域を瞬く間に制圧した。
また、越前の柴田勝家は軍勢こそ近江に送ることが出来なかったが、秀吉に対して包囲網を敷くべく活発に活動していた。
まず鞆の浦に逃れていた足利義昭に要請して毛利の上洛を促し、加えて四国の長曾我部元親にも連絡を取って摂津や河内などの攻略を依頼している。
さらには伊賀衆・甲賀衆には近江や山城への進軍を指示し、紀州の雑賀衆や根来寺にも応援を要請していた。
秀吉とすれば四方に敵を抱える情勢となったわけだ。それはまるで信長を散々に苦しめた『信長包囲網』の再現だった。
だが、秀吉とて黙って包囲されていたわけでは無い。
毛利に対しては中立を保つように要請しつつ宮部継潤や蜂須賀正勝を配置して警戒に当たらせ、四国への備えには仙石秀久を淡路島に配して抑えとした。
そして、伊勢の滝川一益に対しては秀吉自ら七万余騎とも号する大軍を率いて進軍を開始する。
無論、日野の蒲生賦秀に対しても伊勢攻めに参加するよう下知が届いていた。
「亀山城を攻めるか」
「はい。滝川左近将監の猛威はすさまじく、これを放っては置けぬと羽柴様は仰せです」
「亀山城は元々万鉄の拝領していた城だ。何事も万鉄に相談するが良い」
「ハッ!」
「……偉そうなことを言っていたが、儂はこの様となってしまった。後のことはお主に任せる他ない」
「御心を煩わせぬよう、励みまする。どうか父上はご養生なさってください」
年の瀬の頃から前当主の蒲生賢秀は床に臥せることが多くなり、この時も熱を出して床から起き上がれずにいる。
元来賢秀は丈夫な性質で風邪一つ引かなかったが、それだけに微熱の続く今回の病は何事かあらんと賦秀も心配しきりで、正月の上洛の帰りには定秀の代から親交の深い角倉吉田家の吉田意庵を伴って戻っていた。
今も賢秀は吉田意庵の治療を受けながら日々を過ごしている。
「滝川は手強い。お主も良く知っていると思うが、儂は左近将監ほどに鉄砲を上手く使う者を見たことがない。いかに大軍で攻め寄せるとは言え、くれぐれも油断だけはするなよ」
賢秀は心配そうな顔をしていた。
天下の趨勢はまだ決まったわけではない。柴田と羽柴の合戦で柴田が勝てば、形勢は一気に逆転する。その時、賦秀に代わって再家督をするには病床の賢秀では何とも不安が残る。
いざと言う時には賦秀の弟達を立てねばならないが、それまでに賢秀が死んでしまえば柴田はおろか家中を納得させることも難しくなる。
今のまま羽柴秀吉が負ければ、それはそのまま蒲生家の没落に繋がりかねない。
「ご案じ召されるな。此度の戦、羽柴様は充分な態勢を整えておられます。それに比べれば柴田殿は今一つ後手に回っている感が否めません。
確かに羽柴様を包囲する形勢を整えておられるが、肝心の近江・美濃での戦に参戦できる者はそう多くはない。この戦は羽柴様が勝ちましょう」
「……だと良いがな」
なおも賢秀の顔は晴れない。
息子の賦秀を信用せぬわけでは無いが、戦に絶対は無いということを今まで身をもって学んできたのだから無理も無かった。
―――これでは
本当に臆病者のようだと自嘲する。
賢秀は長く臆病者と謗られてきたが、自分では臆病であるつもりは欠片も無い。無闇やたらと武勇を誇って来なかっただけだ。
事実、いざと言う時には肚を据えて自分の信じた道を貫く剛毅さが賢秀にはある。
―――病は気からとはよく言ったものだ
病をきっかけに心が弱くなったのか、それとも心が弱くなったから病に罹ってしまったのかは分からない。だが、こうして床に臥せっていると嫌な想像ばかりが心を埋め尽くしてしまう。
冬晴の日差しがいっそ恨めしかった。
「では、行って参ります」
「気を付けてな」
「ハッ!」
頭を下げて部屋を後にする息子を見送ると、賢秀は庭の方に視線を向けた。
庭先では降り積もった雪に陽光が反射してキラキラと輝き、まるで極楽浄土に居るような気分になる。
―――父上、どうか忠三郎をお守りください
そう思って目を瞑ると、まぶたの裏で亡き定秀が笑っている姿が浮かんだ。
『大丈夫。お主の倅はよくできた倅だ。自分の子を信じよ』
その顔はそう言っているように感じた。
少し安心した顔になった賢秀はそのままコトリと眠りに落ちた。
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