第48話 大和会談
主要登場人物別名
弾正… 六角定頼 六角家当主
藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣 蒲生家当主
藤太郎… 蒲生賢秀 六角家臣 蒲生家嫡男
右京大夫… 細川晴元 細川京兆家当主
筑前守… 三好長慶 細川晴元家臣 三好家当主
南宗寺殿… 三好元長 三好長慶の父 主君細川晴元に裏切られて腹を切る
右馬頭… 細川氏綱 細川晴元に反旗を翻す
河内守… 遊佐長教 畠山家臣 遊佐家当主 細川氏綱の主力軍
――――――――
「父上はまだか?」
「今しばしお待ちください。まだ出陣には刻があります故」
傅役の岡貞政に宥められながら賢秀が慣れない具足にしきりに背中や腹の辺りをさする。
新調したばかりの真新しい当世具足は体にぴったりと合っているものの、それでも着慣れない鎧兜に賢秀は落ち着きが無かった。
やがて同じように当世具足に身を包んだ定秀が辰や雪に付き添われながら賢秀の待つ玄関へとやって来る。
後ろには新たに賢秀の妻に迎えたばかりの華も楚々とした立ち居振る舞いで付き従っていた。
―――やっと来られた
今や遅しと定秀の到着を待っていた賢秀は、定秀の姿を認めると待ちかねたとばかりに背筋を伸ばした。
「では、行って参る」
「御武運をお祈りしております」
「うむ。此度も調停が主な役目だ。本当ならばこのように大袈裟な具足姿も不要なくらいだがな」
「そんなことを仰らずに。万一戦となって鎧が無いなどとなれば恥ずかしい思いをするのは殿と藤太郎でございますよ」
定秀が笑いながら辰と軽く言葉を交わす。
賢秀は新妻の華からの視線を受けて気恥ずかしさと誇らしさで顔が赤くなっていた。
「藤太郎様、ご初陣おめでとうございます。大殿様と共に御武運が開けますようお祈りしております」
「う、うん。大将首を期待しててくれ」
思わず隣で定秀が噴き出す。辰や雪にもクスクスと笑われて賢秀はますます顔が熱くなってきた。
「此度は調停が主な役目だと言っただろう。藤太郎達の役目は御屋形様や使者の警護くらいのものだ。
敵がいなければ大将首もへったくれも無いだろう」
「そ、それでも、賊徒の退治や万一戦になることもあるかもしれませんし……」
「ははは。まあ、それもそうだな。気張って働くがよい」
定秀に宥められて賢秀もようやく落ち着いてきた。
改めて見送りの面々を見ると、華や弟達が眩しそうに自分を見ている。年齢の順で当然とはいえ、二人の弟達はまだ元服を迎えておらず、重千代や松千代には長兄の男らしい姿に単純に憧れの視線を送っていた。
「よし、では参ろうか」
定秀に背中をポンと叩かれ、外を向き直ると屋敷を出て軍勢の元に歩き出す。
まだ真新しい具足のガシャガシャという音に戸惑いながら賢秀は自分の為に用意された馬に跨った。
「では、出立する!」
父の定秀の合図で蒲生勢五百がゆっくりと歩き出す。
後ろからは主君六角定頼が軍勢を率いてやって来るはずだ。今回は若殿である左京大夫義賢や定頼正室の呉服前も一緒に上洛の途に就く。
父と共に主君の先陣を務める賢秀は弟達の羨望の眼差しを思い出し、再び誇らしく胸を張った。
傍らでは定秀が眩しそうに見ていたが、賢秀はそれに気付くことは無かった。
天文十七年(1548年)一月
六角定頼は未だ坂本に留まる足利義晴、義藤親子に年始の挨拶を行い、合わせて共に上洛することが目的だった。
率いる軍勢は千五百ほどだったが、途中鷹狩りなどを催しながら悠々たる行軍となった。もっとも、その目的は昨年来対陣を続けている三好長慶と遊佐長教の調停にあり、政治と無関係ではいられない。
妻を伴った旅行の体を取ることで可能な限り軍事的な行軍ではないことをアピールし、周辺国へ緊張を与えないようにする配慮だった。
※ ※ ※
「さて、これで皆が顔を揃えたわけだな」
定頼が上座に座ると、下座の三好長慶・遊佐長教の顔が一気に引き締まる。
大和春日大社の一室で極秘に持たれた会談だった。表の社殿では妻の志野が御幣奉納の神事を行っており、あくまでも夫婦の旅行であるように偽装工作をしていた。
定頼の左右には進藤貞治、蒲生定秀が侍り、三好長慶の後ろには篠原長政、松永久秀が、遊佐長教の後ろには池田教正、安見宗房が控えている。
舎利寺の戦い以来緊張状態が続いていた両陣営の主力が定頼の仲介によって大和にて和睦交渉を行っていた。
「此度の戦はそもそも細川右京大夫と細川右馬頭の争いから始まった。大御所義晴公が右馬頭に肩入れしたことで状況が混迷の度を増したわけだが、これ以上の戦は無用とわしは思う。
双方この戦をどう決着させたいと思っているのか、存念を聞かせてもらえるか?」
定頼の言葉に真っ先に反応したのは三好長慶だった。
「恐れながら、某はこれ以上河内守殿と戦をしようとは思っておりませぬ。弾正様が仲介下されるのであれば和議を結ぶにやぶさかではありません」
「ふむ。遊佐殿はいかがお思いかな?」
「左様……」
遊佐長教はあえて勿体つけて重々しく頷く。定頼よりも四歳の年長であり、一座の中では最年長だった。
「某はこのまま和議を結ぶのであれば承服し兼ねますな。右京大夫殿はあの通り我ら河内衆を最初から疑いの目で見ておられる。このまま和議を結んだとして、いつまた軍勢を受けることになるかと不安が残ります」
―――負けているというのになんともふてぶてしい
定秀は遊佐長教の堂々たる拒絶の返答に得体の知れない気味悪さを感じた。
確かに河内の名城である高屋城はまだまだ落ちる気配を見せない。だが、三好長慶に包囲された上に六角定頼の和睦仲介を拒否すれば、新たに六角を敵に回す事にもなり兼ねない。
いかな河内の雄とは言え、そうなれば勝ち目の薄い戦を強いられるはずだ。
―――本来ならば真っ先に和議に賛成しそうなものだが……
定秀は改めて太々しく座る遊佐の顔をじっくりと見た。太い眉は強い意志を感じさせ、目にも動揺の色は無い。六角定頼に負けず劣らず謀略に長けた男という噂を聞くが、この会談ではまさにその面目躍如と言った図太さを見せている。
遊佐長教の着地点がどこにあるのか、交渉に慣れて来た定秀ですら容易に見通せなかった。
「ふむ……確かに此度の会談は右京大夫には知らせておらぬ。あ奴が知ればまた何かと要らぬ差し出口をしてくると思ったのでな。
それが河内守殿には不満だったかな?」
目の前には定頼の耳の後ろしか見えないが、定秀は定頼の目が鋭く細く光っているのを感じた。
相手の心底を図ろうとする時の定頼の癖だ。今までこの目に射すくめられて平気で見返して来たのは斎藤道三くらいのものだった。現に三好長慶はやや蒼い顔をして定頼から視線を逸らせている。
しかし、遊佐長教はその定頼の視線を悠然と受けている。生半可な男ではないということはその態度から充分に察せられた。
「はっはっは。御冗談を。右京大夫殿がどれだけ同意されたとしても、あの御仁は時々の気分で采配が変わります。例え右京大夫殿から誓紙を頂けたとしても、それで簡単に信用することなどできませんな」
「では、どうすれば河内守殿は矛を収めるというのかな?」
定頼の言葉にも殺気が籠る。後ろに控えているだけで思わず額に汗が伝うほどの迫力を持っていた。
だが、意外にも遊佐長教はニコリと笑って三好長慶の方へ視線を移す。
「此度の戦で三好筑前殿の武勇の程を思い知りました。いやぁ、さすがは亡き南宗寺殿の御嫡男と感じ入っておりまする。出来ますれば、筑前殿に我が娘を娶って頂ければ幸いにございます」
「某に……婿になれと?」
突然話を振られて長慶が目を剥いて驚く。
確かに長慶は元々波多野稙通の娘を妻としていたが、今は離縁して独り身ではある。しかし、こんな時に縁談が舞い込んで来るとは想像の外にあった。
―――ほう……右京大夫様のことは一切信用しておらぬか
遊佐長教が欲しているのは細川晴元の同意ではなくその主力である三好長慶との同盟だということだ。言い換えれば、細川晴元が何と言おうとも三好長慶さえ押さえてしまえばあとは取るに足りぬ軍勢だと思っているということになる。
だが、これは六角定頼にとっても見過ごせない事でもあった。
六角定頼は今や天下の執権として幕政を牛耳っている。そこに摂津と河内の両雄が手を組むとなれば、定頼にとっても油断のならない相手となる恐れがあった。
できればそんな同盟は潰してしまいたいのが本音だろう。
―――それ故、この場で提示してきたか
定秀は今の今まで手の内を秘匿してきた遊佐長教の計略を悟った。
三好と遊佐の同盟は六角家にとって決して好ましいものではない。事前に知っていれば定頼が潰そうと動いたはずだ。
だが、この場で和睦条件としたことでその同盟を成立させるかどうかを決めるのは定頼ではなく三好長慶になってしまった。
戦の当事者は六角定頼ではなく三好長慶と遊佐長教なのだから、ここで両者が婚姻を結ぶ約束を潰すことは出来ない。長慶が拒否すれば別だが、長慶が首を縦に振ってしまうと定頼としても認めざるを得ない。
和睦の仲介をしているという建前上、お互いに納得する条件で和議を結ぶのならば定頼に拒否権は無いことになる。
そして、この場で話に出す事で後々定頼が文句を言う機会をも潰すことが出来る。
―――想像以上だな。遊佐河内守という男は御屋形様に匹敵する謀略家かもしれぬ
定秀は息を詰めて長慶を見つめた。
定秀だけでなく、隣の進藤や定頼、さらには三好長慶の後ろに控える篠原や松永もじっと長慶を見つめている。
―――松永とやらはおそらく承諾の返事を期待していよう
周囲の表情からそれぞれの存念を読み取る。進藤は定秀と同じく苦い顔をしていたが、松永久秀はやや喜びの色が目に出ている。
恐らくこの同盟がどのように作用するか、敏感に察しているのだろう。
当の三好長慶は驚いた顔のまま遊佐長教と六角定頼の顔を交互に見つめている。長慶の頭でも冷徹な計算が繰り返されていることは見て分かった。
―――御屋形様の敵となるか、味方となるか
この場での決断はそこまでの意味を含んでいる。
仮に遊佐長教の条件を飲むのならば、今後六角家に対抗し得る勢力として三好長慶が摂津に立つことになる。
やがて長い沈黙の末に三好長慶の口が動いた。
「承知いたしました。遊佐家との婚儀、有難くお受けいたします」
「いや、有難い。今後は婿舅として、末永くよろしくお願い申す」
遊佐長教はニッコリと満面の笑みで長慶に頭を下げる。
反対に定秀は返答を聞いて深いため息を吐いた。定頼も同様だった。
定頼はしばし長慶に視線を向けた後、顔を上げて三好長慶と遊佐長教に朗らかに声を掛ける。
「それでは、これで両者の戦は終わりだ。三好筑前殿は兵を退いて越水城に戻られるが良い」
「ハッ!」
「弾正殿には和睦の仲介の労を取って頂き、まことにかたじけない」
上機嫌な遊佐長教が定頼に殊更に頭を下げる。定秀からは背中しか見えないが、おそらく苦虫を噛み潰した顔をしているだろうと思った
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