第三章 蒲生定秀編 木沢長政の乱

第31話 束の間の平和

主要登場人物別名


藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣

弾正… 六角定頼 六角家当主

山城守… 進藤貞治 六角家臣


大和守… 篠原長政 三好家家臣


老僧… 願証寺蓮淳 本願寺八世蓮如の六男

美濃守… 土岐頼芸 土岐家当主

六郎・右京大夫… 細川晴元 細川京兆家当主


宗三… 三好政長 三好家分家だが、本家の元長を裏切って敗死させた


――――――――


 

 パチン


 パチン


 パチン


 京都相国寺鹿苑院の一室で、定秀は定頼と将棋盤を前に向かい合っていた。


「ほう……腕を上げたな。藤十郎」

「恐れ入ります。御屋形様に散々にしごかれましたからな」


 定頼は将棋を好み、家臣を呼んでは一局指すことが多々あった。定頼の腕前はかなりのもので、最初の頃は何度やっても勝てなかったが、この頃にはようやく多少は食らいつけるようになってきている。


 パチン!


 定秀の力を込めた勝負手に定頼が思わず顎に手をやって盤面を見つめ始める。鼻息荒く差した定秀は、すでに温くなった白湯を一口すすった。


「ところで、吉田の所で奉公を始めた娘……雪と言ったか。側室にするのか?」

「ブッ!!……ど、どうしてそれを……」

「ははは。わしの耳は地獄耳だと何度言えば分かる」


 パチン


 動揺する定秀を前に、定頼はさりげなく一手指した。


「あ、いや……そのう……」


 すでに動揺が隠し切れない定秀は、迂闊にも定頼が指した手を見過ごした。


 パチン


 パチン


「ほれ、わしの勝ちだ」

「あうう……」

「はっはっは。藤十郎も修行が足りんな。女子で心を惑わすようではな」


 結局、今回も定秀の負けに終わった。



 天文六年(1537年)七月

 京の復興を大方終えた定頼は、朝廷にも挨拶をして観音寺城に戻る準備を整えていた。定秀も定頼に従って観音寺城下に戻る予定になっている。

 だが、定秀には妻の辰に言えない秘密を抱え込んでしまった。


 六角軍の撤収後も京で医師として患者を診る事となった吉田宗忠は、手伝い女中として雪をそのまま住まわせていたが、この頃には定秀と雪は密かに逢瀬を重ねる間柄になっていた。

 京洛中で心無い誹謗中傷に晒される定秀の心中を何とか安らかにしてあげたいと念じた雪は、殊更に定秀の宿所を訪れては身の回りの世話を焼いた。


 定秀も内心に抱えた葛藤を優しく包んでくれる雪に惹かれ、気付けば関係になっていた。

 しかし、側室に迎えるには身分が違い過ぎる。方や俵藤太以来の名門武家である蒲生家の当主、方や親もなく奴隷身分の娘。

 身の釣り合う道理は無かった。


 身分のある者が側室を迎えるのは、血統を絶やさぬ為という名分があればこそであり、側室に迎えるでもなく関係を持つことは単純に浮気と言われても反論できない。


 ―――辰が何と言うか……


 男が複数の女性と関係を持つことが一般的な時代であり、辰も定秀が側室を持つことをとやかくは言わないはずだ。だが、それは決して嫌ではないということではない。外に女が居ても良いかと聞けば、当然辰も愉快ではないはずだ。

 ましてや本来側室に迎えるべき身分の娘でもない。この事を辰が知ったらどれだけ怒り狂うかと思うと、久々の帰国にも心が弾まなかった。



「ま、わしはその辺をとやかくは言わん。だが、お主の女房殿は怒ると怖そうだからなぁ」


 ニヤニヤと揶揄するように定頼が笑う。戦場で激戦の中に身を投じても臆することの無い定秀だが、唯一怒れる辰の前に出ることだけは心底勘弁してほしかった。




 ※   ※   ※




 石山本願寺では証如と蓮淳が数通の書状を前に膝を突き合わせていた。

 傍らには本願寺の坊官を務める下間しもつま真頼しんらいが控えている。


「して、老僧様。弾正からは何と言って来たのだ?」


 証如がいかにも迷惑そうな顔で蓮淳に視線を投げる。六角との和睦成功の功により再び証如の側近く仕えることになった蓮淳だったが、その役目は主に六角関連の交渉と実務だ。

 蓮淳から話があるということは六角がらみに決まっている。


「先年より美濃の多芸たぎ郡で蜂起している一揆ですが、土岐美濃守様より弾正様へ何かご存知ないかと問い合わせがあったそうでございます」


 証如の顔が益々渋みを帯びる。傍らの下間真頼も同様だった。


「あれは、美濃守殿の軍勢が寺領を侵すから戦えと申したのだ。元々は美濃守殿が無体に振る舞ったからであろう」


 美濃の多芸郡ではこの頃一向一揆が勃発していた。寺領を侵されたというのはもちろん建前で、実際は多くの利益を出す美濃紙を多芸を通さずに伊勢桑名に持ち下ることを牽制しようとしたものだ。

 美濃紙については、多芸の西円寺を中心とした一向寺院も関銭などで小銭を稼いでいる。多芸を通さないとなれば多芸の一向寺院は困るのだ。


「しかし、弾正様は何も知らぬと既に美濃守様へご返事をされたとのことでございます」

「な!……」


 証如が絶句する。何を勝手にという言葉をすんでの所で飲み込んだ。

 つまり、六角定頼は「多芸の一向一揆は現地で勝手にやっていることにしろ」と言ってきているのだ。


 証如の腹積もりでは、多芸の一揆を抑える代わりに土地なり商業権なりを土岐家から貰うつもりだった。それによって美濃での一向宗の収入を確保すると共に、総本山としての本願寺の存在感を美濃に与えるつもりでいた。

 だが、定頼がそう返事をしてしまった以上、今更本願寺がノコノコと出ていくわけにはいかない。定頼の面目を潰すことになるからだ。

 定頼であれば裏で本願寺が動いていたのは先刻承知だろう。にも関わらず、あえて”知らぬと返事をした”とこちらに知らせて来たのは、大人しく多芸の一向寺院を見捨てろということだ。


「むぅ……どうにかならんか。真頼」

 隣の下間真頼に顔を向けるが、真頼もゆっくりと首を横に振るだけだった。


「弾正様と正面切って戦う御覚悟がなければ、ここは我らも知らぬと返事をするしかありませぬ。美濃の者達には気の毒ですが……」


 蓮淳の言葉に証如が深くため息を吐く。戦う覚悟があるのならば、そもそも膝を屈して六角と和睦などしていない。


「やむを得んか。多芸の門徒達は伊勢の願証寺で受け入れてやってくれ」

「かしこまりました。それともう一つ」

「まだあるのか?」


 証如が露骨に嫌そうな顔をする。六角がらみでいい話になるとは考えにくい。


「北近江の門徒から六角が裏切らぬ証をもらえぬかと申し入れてきておりますが……」


 この頃、再度の北近江侵攻を企図していた定頼は、北近江の一向門徒に浅井家に対して一揆を起こすようにしていた。

 北近江の門徒としても浅井に一揆を起こすこと自体はやぶさかでないが、その後に六角が裏切らないという保証はない。浅井の征伐が終わった後、一揆を起こしたことを責められて寺を破却などされては目も当てられない。

 そこで、六角家から人質を貰えるよう本願寺に交渉を依頼してきていた。


「老僧様。それを弾正に言い出せるか?」

「無理ですな。そもそも弾正様が裏切るか裏切らぬかといった段階ではない。弾正様の命を聞くか聞かぬかということです」

「……で、あろうな」


 再び証如がため息を吐く。命を聞かねばそれを理由に寺は破却される。もはや一向宗は詰んでいるのだ。あとは六角家が裏切らぬことを信じて動くしか手はない。


 近頃では定頼の一挙一動にため息を吐かされている。

 今更言ったところで詮無いことだが、返す返すも細川晴元の甘言に乗りさえしなければとそればかりを思った。



 和睦成立後、証如は定頼とその家臣達に馬や太刀、果物や織物など様々な贈り物をした。もちろん、六角側からの返礼も相応の物を受け取っているが、それにしても異常と言えるほどの気の使いようだった。




 ※   ※   ※




 三好長慶は一向一揆から奪還した中嶋城の修築を進めていた。

 当面、破壊してしまった城壁や堀を整備し直さなければならない。ここを前線基地として、いよいよ亡き父三好元長の旧領を回復することを狙っていた。



「ここに居られましたか」


 篠原長政が中嶋城の物見櫓の上に立つ長慶を見つけ、梯子を上ってきた。


「一通り、御婚礼のお祝いの品を用意いたしました」


 長慶に返事はない。じっと淀川を見つめていた。


「……殿?」

「聞こえている。ご苦労だった」


 ぶっきらぼうな長慶の返事に、長政もゆったりと淀川に視線を移す。


「父上の背中は大きいな。ようやく摂津を回復できたが、次は淀川の先へ行かねばならん」

「はい。そのためにも、今は六郎様……いえ、右京大夫様の御婚礼のお祝いに参らねば」

「ふん」


 細川晴元はこの年の四月に六角定頼の猶子となっていた三条公頼の娘を正室に迎えたが、それに合わせて右京大夫に叙任され、管領にも任じられていた。

 管領細川家を正式に継いだ晴元に、家臣である三好長慶も祝いの品を用意していた。


「次は河内の代官だな。まあ、宗三がなにやら口を出してくるかもしれんが」

「なんの、この件は弾正様にも前もってお願いしております。進藤山城守殿が確かに承って下さいました故、ご心配召されるな」

「……結局、弾正の世話にならねば父の背中すら追えぬか」

「……殿」

「わかっている。今はまだ、弾正の力を借りるのが上策だ。今は……な」


 長慶の見つめる淀川の先には、河内十七箇所と呼ばれる荘園群がある。


 元々河内の荘園は室町幕府の料所だったが、その代官として年貢の取り立てなどを任されていたのが長慶の父である三好元長だった。


 荘園の代官とは、実質的にその土地の支配者と同義だ。河内の荘園は代官に年貢を納め、代官はその中から自分の取り分を差し引いた残りを本所である幕府へと納入する。

 しかし、応仁の乱以後には代官は本所への納入を怠り、全ての年貢を自分のものとして蓄えるようになる。寺社や朝廷の収入が途絶えたのはこれが原因だ。実際、六角定頼の父である六角高頼が幕府軍から征伐を受けたのは、この横領を手広く行っていたからに他ならない。


 今の所、武家の府である幕府の年貢を着服するような者はさすがに出ていないが、幕府の権威が失墜してくるとそれも時間の問題になってくる。

 長慶が望んだ河内十七箇所の代官職とは、言い換えれば河内十七箇所を知行する権利だった。


 だが、今は河内十七箇所の代官職は分家の三好政長が勤めている。つまり、本家の元長から政長が奪い取った形になっている。

 長慶はこの豊かな荘園の支配権を取り戻し、元長の知行した領地を回復する為に様々に運動を始めていた。細川晴元への結婚祝いと右京大夫任官のお祝いを献上するのもその一環だ。



 淀川の水面はキラキラと光を反射し、長慶の顔を照らしてくる。

 目を細めた長慶は、ふっと息を吐くとくるりと背を向けて梯子に向かった。


「参るぞ。大和守も早く降りて参れ」


 長政もやれやれと肩をすくめて後に従った。

 水面はいつまでも光を反射してまばゆく光り続けていた。




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