第30話 天下人六角定頼

主要登場人物別名


左兵衛大夫… 蒲生定秀 六角家臣


――――――――


 

 戦火も収まり、定頼本隊もようやく上洛した頃、定秀は自陣内で設置した療養小屋を訪ねていた。

 小屋の中では逃げ遅れた者達を収容し、医師の吉田宗忠を呼び寄せて治療に当たらせていた。

 吉田宗忠は元々近江愛知郡吉田村の土豪で、六角配下の目賀田氏の領民だった男だ。医術を学んで室町幕府にお抱え医師として仕えていたが、法華の乱では目賀田の縁を頼りに六角家に庇護を求めて来ていた。

 戦乱中は坂本に留め置かれた宗忠だったが、定秀の要請によって避難民の治療に当たるよう定頼から依頼を受けて再度上洛していた。


「吉田殿。人手は足りておるか?」

「これは左兵衛大夫様。ご覧の通り天手古舞でございます。人手はいくらあっても足りませぬよ」


 宗忠は目の下に大きな隈を作りながら、それでも笑顔を見せて定秀を迎えた。


「そうか……我らで手伝えることがあるならいくらでも言ってくれ。必要な物資もだ。遠慮は無用にな」

「はい。取り急ぎ、人々に与える食が足りませぬな。もう少し食料をお願いいたします」

「わかった。至急日野から稗と赤米を取り寄せよう」

「ありがとうございます」


 そう笑うと、宗忠は再び患者の見回りに戻った。


 小屋の中では重傷を負って歩けない者を中心に寝かせ、動ける者は外で多少の運動を兼ねて宗忠の手伝いをさせている。

 定秀が視線を巡らせると、定秀に助けを求めた女がまめまめしく立ち働いている姿が目に入った。視線を感じた女がふと定秀の方を見ると、ペコリと頭を下げて近づいてくる。


「蒲生様。過日は本当にありがとうございました」

「いや、元気になったのならば良かった」


 女は「雪」と名乗った。二十歳頃の娘で、定秀の見立て通り衰弱の原因は食不足だった。蒲生陣に保護された雪は、吉田宗忠の看護と配られる粥によって見る見るうちに元気を取り戻し、三か月が経ったこの頃には宗忠の手伝いをして怪我人の手当てに回っていた。

 元々目に強い意志の光を宿す雪だったが、食を得たことでふっくらと女性らしい顔つきに変わっており、今はその目は優し気な光を湛えている。


「ところで、お主の縁者は無事に逃れたのか?」

「……私に身内はおりません。私は細川様の戦の折り、家族とはぐれて天涯孤独でございます」

「そうか……」

 寂しそうな雪の顔に、定秀も迂闊な事を聞いたと後悔した。


 細川様の戦とは、細川晴元と細川高国が争った『桂川原の戦い』のことだ。あの時、定秀は京の政情に関与したくない定頼の指示によってロクに戦闘を行わずに近江に引き上げた。

 もしも六角家があの時本腰を入れて介入していれば、今回の戦乱は起こらなかったかもしれない。そう思うと、定秀には何故ともない罪悪感があった。


 その後、雪は京の商家に奴隷として拾われ、諸々の雑用をこなしながらなんとか暮らして来たという。

 飢饉の多発していた時代では奴隷に回る食は少なく、何とか命を繋ぐのが精一杯な暮らしをしてきたが、今回の戦乱によって足手まといとして置いて行かれて同じく周囲の家から置いて行かれた女達を集めて例の商家の一室で細々と生き延びて来たのだそうだ。



「そんなお顔をされないで下さいませ。命を助けて頂いた御恩は決して忘れません」


 定秀の内心を知ってか知らずか、雪は朗らかに笑ってくれる。


 自分の体からは未だ血の匂いが取れないような気がしている。鼻腔の奥に残った血の匂いは、戦の後どれだけ体を拭おうとも消えた気がしなかった。


 ―――俺の手は、血で汚れてしまった


 元より武士であれば人を殺すことは避けられないが、武士相手の戦と門徒相手の虐殺は全くの別物だった。

 戦の後、どれだけ酒を飲んでも酔えた気にならない。嫌な記憶を振り払おうと酒を飲んで床に就くが、何度も炎を上げる京の町と血を吐き出して死んでいく人々の顔が夢に出て来た。


 ―――いつか、忘れられるのだろうか


 暗い思いに満たされていた定秀は、雪の朗らかな笑顔に幾分救われたような気持ちになった。

 知らず知らずに頬を緩めていると、おもむろに雪が椀を差し出してくれた。


「どうぞ。白湯ですが、暖まってください。蒲生様もひどいお顔をしておられます」

「う……そうか。すまんな」


 ここの所酒の量もだいぶ増えている。荒んだ生活を雪に見破られ、思わず赤面しながら白湯を受け取った。

 一口飲むと暖かな固まりが胃の辺りに染みわたる。じんわりと和んだ気持ちにさせてくれた。


「うまいな。心に染み入るようだ」

「うふふ。暖かい湯は人の心を解きほぐしてくれます。蒲生様も、どうかお気に病まれないで下さい。少なくとも、私は助けて頂いたと思っておりますよ」


 雪の言葉に、定秀は内面の葛藤を見透かされているように感じた。勘のいい娘だ。

 六角軍の上洛の後、ようやく宿敵細川晴国を討ち取った細川晴元は、先月の九月二十四日にようやく上洛して幕府に出仕している。

 京の戦乱は全て終わった後の事で、定秀から見れば「今更何しに来た」としか思えなかった。


 六角定頼は軍勢を使って京の復興普請を始めた。五万の軍勢の内戦闘に参加した者は三万程で、半分近くは焼き払った後の復興作業の為に連れて来ていた。


 当然ながら法華門徒に対しては洛中洛外の徘徊を厳しく禁止した。もっとも法華僧は別として、一般の民衆に対しては取り締まりもさほど厳しい物ではなく、表向き法華宗を名乗らなければ帰洛を許した。

 商人達は避難先から続々と戻っていたが、洛中を警備する六角軍に対しては恐怖の視線を投げてくるばかりだった。


 ―――京雀達の気持ちもわからなくもない


 彼らにすれば六角は、事前に勧告があったとはいえ、京を焼き払って自分達の生活を乱した恐怖の帝王だ。その手先である蒲生定秀に対しても数々の心無い噂話があった。

 曰く、気に入らなければ民をその場で手討ちにする男だとか、一旦刀を抜けば十人斬るまで収まらない天魔だとかの尾鰭がついていき、気が付けば定秀は近寄った者を即座に斬って食らう鬼の化身という事になっていた。

 以前から京洛に轟いていた『鬼左兵』の異名がそれを後押ししてしまった。


 その辺りを察して励ましてくれる雪の言葉に、定秀は思わず涙が出そうになる。


「これから雪はどうするのだ?」

「吉田様のお手伝いをさせて頂けることになりました。行くところもありませんし、ここで人々の病を治すお手伝いをさせて頂きたいと思っています」

「そうか。くれぐれも、気を付けてな。京にはまだ六角に好意的でない者も大勢居るだろう」

「お気遣いありがとうございます。蒲生様もどうかお勤めを果たされて下さいませ」


 ペコリと一礼して雪が再び看護に戻って行く。

 その後ろ姿を定秀は眩しいと思った。



 定頼は堺に定住した商人の開いた穴を埋める為、近江から商人を呼び寄せて積極的に居を構えさせていた。

 自らの諜報網を充実させると共に、京の町衆に宗門が入り込む隙間を与えない為の措置だ。しかし、昔から京で商いをする商人にとっては強力な敵の出現であり、しばらくは商人同士の勢力争いが続くことは予見できた。


 もっとも、近江の商人は郷掟によって争い事に武力を持ち込むことを厳しく規制しており、今回のような武力闘争に発展する可能性は少ない。市場の喧嘩で刀を抜いた者は座を追放するという厳しい罰則を設けているため、喧嘩に勝っても負けても当事者は全てを失う事になる。

 京の町衆にとっても武力闘争になれば再び六角軍が降臨すると思えば、迂闊に喧嘩は出来ないはずだ。そうして時間が経てば、商業界にも新たな秩序が出来上がるだろう。


 京は、六角の名の元に新たな平和を作り始めていた。




 ※   ※   ※




 天文元年から伊勢長島の願証寺に逃れていた蓮淳は、天文五年も押し詰まった十一月に上洛していた。

 目の前には山科本願寺を焼いた張本人である六角定頼が座している。


 ―――どうしてこうなった……


 蓮淳には訳が分からなかった。

 教団内で法主証如を置いて逃げ出したことを責められていた蓮淳は、今では本願寺内部に対する影響力は以前ほど持っていない。

 蓮淳自身はそれでも一向に構わなかった。逃走の間に得た知見をもとに、伊勢では商人達に積極的に布教を進めている。摂津や河内とは違う一向宗を作り上げようと走り回って来た四年間だった。

 しかし、今回証如直々の指令で六角家と和睦交渉を行えという。

 何故自分にお鉢が回って来るのかさっぱり理解できないでいた。



御坊ごぼうも訳が分からぬという顔だな。わしが蓮淳殿を和睦の使者にするように指名したのよ」

 いかにも可笑しそうな顔で定頼が笑っている。

 何故わざわざ定頼が自分を指名するのか、蓮淳は益々不審に思った。


「何故、拙僧をわざわざ……?」

「長島では面白いことをしているようだな。商人を多く檀家に取り込んでいるとか」


 蓮淳はギクリとした。伊勢には定頼配下の近江商人達も大勢出入りしているが、そこへの布教は厳しく戒めている。

 要らぬことをして六角を刺激したくなかった為だ。だが、定頼はそれを知り得ている。


「はっはっは。そう驚かれることは無い。ほれ、御坊が四年前にわしの城下を通ったであろう」


 ―――そこまで知られているのか……


 蓮淳は背中一面が冷たくなった。極秘に通り抜けたはずだし、商人達にも気づかれた様子は無かった。

 どうやって定頼が知ったのかさっぱりわからない。


「挙動のおかしい行商人が居るとのことで、保内の者が密かに後をつけていってな。御坊が願証寺に入ったこと、その後桑名や長島で積極的に布教していること、全て調べさせてもらった。

 中々いい所に目を付ける」

「恐れ入りまする。それでは拙僧をご指名頂いたのは、長島での布教を止めることが和睦の条件であると?」

「いいや。それはかまわぬ。法華のように商人達の利を独占しようと思わぬのであればな」


 蓮淳は再び戸惑った。ならば何故という思いがもたげてくる。


「わしの条件は二つ。伊勢と堺を繋げて桑名に物資を集中させる事、近江の一向宗を離別する事。この二つを承知するのならば、本願寺との和睦を結ぼう」


 ―――なるほど、つまり桑名を堺以上の商業都市にしろということか


 そこまで聞いて蓮淳にも分かった。

 法華宗は商人を独占して財力を持ったが、桑名ならばそれは出来ない。桑名は『十楽の津』だから、桑名ではどこの郷の商人も品物を仕入れることが出来る。

 堺と桑名が繋がれば、堺を通じて唐や朝鮮の文物まで定頼が買付けることが出来るようになる。

 定頼は益々潤うし、定頼の庇護の元にある商人達も益々勢威を伸ばすことができるだろう。


 だが、それは定頼だけでなく本願寺も同時に潤う。蓮淳にとっても拒否すべき理由は何一つ無かった。


「桑名については承知いたしました。ですが、近江の門徒の離別は……

 いくらこちらが門徒を離別しても、門徒の方で何を信仰するかまでは拙僧達に決められることではありません」

「真に離別できるかどうかは別として、宗門として本願寺は近江の門徒に関わらぬと宣言すればよい。

 近江で一向一揆が起こったとして、その方らに援軍を求める口実を失くせと言っている。近江国内だけのことならば、それはわしの領分だからな」


 ―――なるほど


 つまり、近江の一向一揆が小規模になるようにしておきたいということか。近江の門徒が本願寺に援助を求める正当性を失くすと。

 近江国内の事であれば定頼の胸先三寸で決められる。近江の一揆を大火にしない為の措置だろう。


 しかし、蓮淳の胸の中にはややためらいがある。


 石山に逃れた本願寺は往時の面影は無く、現在ではひっそりと存続しているに過ぎない。

 近江の門徒を離別するということは、蓮淳自身が住職を務める大津顕証寺や堅田本福寺などの有力な寺からの援助も受けられないことになる。また、北陸の一向宗と完全に分断されることにもなってしまう。

 だが、だからと言って断れば、次は六角の軍勢が伊勢願証寺や石山本願寺に迫ってくるだろう。


「どうした?石山でも戦をしたいか?」


 揶揄するような定頼の顔に、蓮淳も内心の迷いを振り払った。


「承知いたしました。近江の門徒は離別すると宣言いたします」


 定頼が満足気に頷くと、それで和睦条件は決まった。



 天文五年(1536年)十二月二十三日

 六角定頼と本願寺証如との間で正式に和睦が結ばれる。これにより、幕府に多大な影響力を持った定頼は、宗教界においても多大な影響力を発揮することになる。

 以後の証如は、何を置いても六角定頼の顔色を窺い、徹頭徹尾何を言われても反論しない姿勢を貫いた。

 朝廷においても近衛植家が関白に就任し、三条家の影響力が低下しても定頼には何ら問題となっていない。


 武家・公家・宗門・商人

 あらゆる階層に影響力を行使する定頼は、すでに天下人としての実を備えていた。


 細川晴元もようやく摂津・河内の動乱を収め、畿内は束の間の平和を取り戻す。

 翌天文六年には、定頼の猶子としていた三条公頼の娘を細川晴元に輿入れさせ、約束通り正式に管領の舅となる。

 畿内において六角定頼は今や誰からもその挙動を注目され、その同意なしには誰一人物事を決めることが出来なくなっていた。


 天下など取りたくもないと思っていた男は、天下から推戴される形で天下人として畿内に君臨した。


――――――――


第二章完結編です。いよいよ六角定頼が天下を取りました。

第三章は三好長慶成分多めになります。

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